木走日記

場末の時事評論

スティーブ・ジョブズ>>>>島田紳助>>>>カダフィ大佐=菅首相

 男の価値は「去り際の美学」を有しているか否かで決定的に差が出ます。

 今ほどそのことを思い知らされたことは近年ないのではないでしょうか。

 今週4人の男がリタイアしたのであります。

 タレント島田紳助の電撃引退会見、米アップルのスティーブ・ジョブズCEOの引退表明、リビアカダフィ大佐独裁政権崩壊、そして菅直人首相の正式辞意表明であります。

島田紳助さん、芸能界引退 暴力団関係者と交際
http://www.asahi.com/culture/update/0823/TKY201108230598.html
リビアカダフィ政権崩壊 「独裁は終わった」 市民、「自由」喜ぶ
http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2011/08/24/20110824dde007030005000c.html
スティーブ・ジョブズ氏、CEO退任…アップル
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110825-OYT1T00151.htm
菅首相、辞任を正式表明 2法案成立受け
http://www.asahi.com/politics/update/0826/TKY201108260282.html

 それぞれ訳有りのリタイアなわけですが、この4人の男の「去り際」に「美学」を感じるか、感じるとしたらそれはいかなる理由からか、はたまた感じない理由はなぜか、今回は今週リタイアした4人の男の「去り際」を例に男の「去り際の美学」について愚考したいと思います。

 男が職を辞すとき、「去り際の美学」があったかどうか、それを判断するのは当然ながら本人ではなく周囲、あるいは後世の人々であります。

 だとすれば「去り際の美学」があったとの評価を得るには、その男が「去る」ことが周りから惜しまれることが必要条件でありましょう。

 「惜しまれ度」という物差しで考えると、スティーブ・ジョブズ>>>>島田紳助>>>>カダフィ大佐菅首相という順番になりましょう。

 現在もiPhoneやiPadなど世界的ヒット商品を世に出し続けアップルを世界ナンバーワンIT企業にしたスティーブ・ジョブズの功績は後世に残る偉業であり、本当に実に惜しまれる引退であります。

 かたや島田紳助でありますが、暴力団との関係を週刊誌につかまれての引退であり過去の彼の行いも暴力事件などを起こして謹慎処分になったり褒められたものではないのですが、少なくとも一部芸能関係者からは頼られてはいたようです、彼の引退を惜しむ声は少なからず報道されております。

 一方のカダフィ大佐菅総理、両者のリタイアに対する惜しむ声というのは、私は寡聞にして聞いたことがありません。

 さて男が「去り際の美学」を評価される次のポイントは職を辞するときの「潔さ」であります。

 「潔さ」という物差しで考えると、スティーブ・ジョブズ>>>>島田紳助>>>>カダフィ大佐菅首相という順番になりましょう、興味深いのは順番が「惜しまれ度」と同じな点であります。


  ご存知のとおり、米アップルのスティーブ・ジョブズはかねがね膵臓がん手術、肝臓の移植手術など病気療養を繰り返してきたわけですが、文字通りボロボロな体になりながらここまでアップルを引っ張り続けてきたわけです。

 おそらく本当に世界ナンバーワンIT企業のCEOをこなしていく体力の限界を、今度ばかりは彼は感じたのでありましょう。

 実に潔い引退表明であります。

 島田紳助でありますが、一部でまだまだ大きいヤマが実はあるとの憶測を呼びつつ、あっけなく「引退」を表明したわけですが、理由はともかく自らリタイアを表明した点はまだ「潔い」と評価していいでしょう。

 で、カダフィ大佐菅総理、両者の往生際の悪さはどうでしょう。

 最後まで権力に執着し、かたや国民を犠牲にしてまでも抵抗しあげくに現在も潜伏中、かたや嘘をついてまで首相の椅子にすがりつき、ここ3ヶ月の国民の大顰蹙を買う中での脅威の「粘り腰」にはあきれてしまいます。

 こうして男の「去り際の美学」を「惜しまれ度」と「潔さ」の2つの物差しで、4人の男のリタイアを比べると、圧倒的に男の「去り際の美学」を醸し出しているのはスティーブ・ジョブズであり、比較にはなりませんがそこそこの「美学」が見えるのが島田紳助、で「美学」のかけらも見られないのがカダフィ大佐菅総理ということになります。

 では男の「去り際の美学」という意味ではともに0点であるカダフィ大佐菅総理、指導者としての評価は後世どう伝えられるのでしょうか。

 カダフィ大佐は、彼のしでかしてきたことの功罪も含めてですが、アラブの独裁者として歴史に名が刻まれることでしょう。

 批判的文脈においてでありますが、彼が歴史的人物であったことは自明です。

 一方の菅首相は歴史に何も残さなかった、任期中に何もしなかった、ただただ往生際が悪かった、そんな首相として後世に語られることでしょう。

 批判的文脈においてでありますが、彼が歴史的首相であったこともまた自明です。



(木走まさみず)