木走日記

場末の時事評論

安倍談話を批判する普通の日本語の読解能力がない朝日社説〜いったい何のための、誰のための社説なのか

 さて安倍談話であります。

 素晴らしいです。

 ネット上ではすでに、他の論客がいろいろな角度から論評されていますので、例によって、当ブログでは少し違う角度で論評いたしましょう。

 主語があいまいとかの批判も承知していますが、談話全体の主語は明確です。

 「私たち」であります、14回使われています。
 まず談話冒頭、「私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならない」と語りかけます。

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、★私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 次に私たちは、「先の大戦への深い悔悟の念と共に」、「自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持」、「この不動の方針を、これからも貫いてまいります」と語ります。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、★私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 次に私たちは、「戦争の苦痛を嘗め尽くした」米国や英国、オランダ、豪州、中国の人々が、「寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか」「心に留めなければなりません」と、旧連合国諸国の寛容さに触れています。

 ただ、★私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、★私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、★私たちは、思いを致さなければなりません。

 で、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」、「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と続きます。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、★私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、★私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 素晴らしいですね、ここにこの談話で唯一「私たち日本人」と「私たち」=「日本人」と強調する表現が現出しているのですが、当ブログはこここそがこの談話で最も強調している一文なのだと解釈いたしました。

 この一文です。

 ★私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。

 さて、ここで再び私たちは「私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた」のは「米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげ」であることを「未来へと語り継いでいかなければならない」と繰り返します。

 ★私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の★私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、★私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 ここから談話へ結びへの四文は圧巻です。

 「私たちは、」「・・・した過去を、この胸に刻み続けます」を連呼していきます。

 ★私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 ★私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 ★私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 ★私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 ・・・

 実によく練られた談話だと思います。

 村山談話では主語に「私」が使われていましたが、戦後生まれで戦争を経験していない安倍首相にしてみれば、戦争体験者の村山氏のように「私」を使うことはさけ、「私たち=日本人」として、この談話をまとめているわけです。

 さて、このような主語の解りやすい談話において、「日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた」と痛烈な批判をしているのが、朝日新聞社説であります。

(社説)戦後70年の安倍談話 何のために出したのか
2015年8月15日05時00分
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11916594.html?_requesturl=articles%2FDA3S11916594.html

 社説は冒頭から「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と談話を批判します。

 いったい何のための、誰のための談話なのか。

 安倍首相の談話は、戦後70年の歴史総括として、極めて不十分な内容だった。

 侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワードは盛り込まれた。

 しかし、日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた。反省やおわびは歴代内閣が表明したとして間接的に触れられた。

 この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う。

 「日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた」
 なにを馬鹿なことを言っているのか。

 談話は全文を通じて主語は「私たち=日本人」で貫かれています。 

 普通の日本語の読解能力があれば自明でしょう。

 「反省やおわびは歴代内閣が表明したとして間接的に触れられた」
 当然でしょう。

 安倍首相は70年前には生まれていなかったのです。

 そして今回の談話は「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明確に語っています。

 戦争に関わった「私」は「反省やおわび」をしてきましたと正しく指摘した上で、戦争を経験していない世代も含めて、「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と高らかに謳っているのです。

 朝日社説の結びは「いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれり」と首相を批判しています。

 いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである。

 その責めは、首相自身が負わねばならない。

 冒頭の「いったい何のための、誰のための談話なのか」が、いつのまにか「いったい何のための、誰のための政治なのか」と「談話」が「政治」に置き換わっています。

 安倍談話批判が安倍政権批判に拡散するという、この展開そのものに朝日の主張が端的に現れています。

 今回の「談話」を評論するうえで、誰が語ろうとも純粋に文章を批評する、というメディアとして最も求められる公正な姿勢が全く見られません。

 そうではなく朝日の主張は「安倍の談話」だからダメだの一点張りなのです。

 トンチンカンな朝日新聞には、次の言葉をお返ししておきます。

「いったい何のための、誰のための社説なのか。本末転倒も極まれりである。」


(木走まさみず)