事象から考える帰納脳と原理から考える演繹脳
1.演繹法と帰納法
思考法の代表的な手法に演繹法と帰納法があります。1.1.演繹法
演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法です。
代表的な手法に、大前提・小前提・結論による三段論法があります。(例)
大前提(一般的原理)「人間は死ぬ」
小前提(事実など)「Aは人間である」
結論(個々の事象)「Aは死ぬ」1.2.帰納法
帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理を導く方法です。(例)
事例収集(個々の事象)「人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ」
因果関係(本質的結合関係):「人間だから死んだ」
結論(一般的原理):「人間は死ぬ」
●事象から議論する傾向の人と原理から議論する傾向の人
昨日(18日付け)の朝日新聞記事から。
熱民、中高年の知恵や経験を若年層に伝承するブログ開設
2007年06月18日熱民(東京都港区、浅見彰子社長、03・5771・8092)は、中高年層の自分史を主体としたブログ(日記風簡易ホームページ)「熱民」を18日に開設する。中高年層の知恵や経験を若年層に伝承するコミュニティーを提供。07年内に1万人の利用者を見込む。また同サイトと連携して、企業人事や人材サービス企業を対象にしたキャリアコンサルティングツールを提供する。
熱民の書き手は中高年層がメーン。幼少期から思春期、社会人に至るまで、受験・就職・結婚など人生の出来事を振り返って自分史を掲載。仕事や家庭における知恵や経験を公開して若年層との交流を促すとともに相談の場を提供する。
書き込みと閲覧は無料。書き手に直接相談する場合は有料ポイントが必要になり、ポイント数は書き手が設定する。
ブログの記事ごとに暗証番号を設定し、特定の閲覧者に対し公開できる機能を持つ。このため掲載記事のキャリアに関する情報をもとに、企業人事や人材サービス企業向けにキャリアカウンセリングツールとしても活用できる。例えば転職先や出向先にブログを紹介することで、良好なマッチングにつながる。
http://www.asahi.com/digital/nikkanko/NKK200706180016.html
ほほう「中高年の知恵や経験を若年層に伝承するブログ開設」ですか。
「幼少期から思春期、社会人に至るまで、受験・就職・結婚など人生の出来事を振り返って自分史を掲載」し、「仕事や家庭における知恵や経験を公開して若年層との交流を促すとともに相談の場を提供」するですか。
うーん、なかなか興味深い試みですが、これってうまくいくのかなあ、今後の成り行きを見守りたいのであります。
私もブログを書き始めて2年ちょっとですが、ブログはとてもその書き手の個性が出てしまうものだと、最近になってしみじみ反省を込めつつ思うのであります。
ただただ事実を羅列しているだけではすぐ飽きられてしまいますし、逆に主義主張を唯我独尊、のべつまくなしに主張するだけでもなかなか賛同は得られません。
多くの読者に共感を呼ぶような説得力のあるエントリーを書き込むことは、なかなか難しいものなのでありますよね。
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当ブログも含めてですが、時事系ブログの多くは、新聞記事などを題材にしながら独自の批評とか論理を展開していく手法が多いですよね。
まあ一次ソースをマスメディアが独占している状態では、個人ブログとしては、メディア記事の評論が中心になってしまうわけですが、私の見るところ素晴らしいのは評価の高いブログは、やはりそこにオリジナリティのある考え方がちりばめられていることが多いのであり、読む人がほほうこういうモノの見方もあるのかと、読者に考えさせる啓蒙的な要素があるわけでありますよね。
個人的主張をどこまで展開するか、そこはそれぞれの手法・論法がある意味その人の個性が出るわけですが、大きく大別すると、ネット上の論客達も、事象から議論する傾向の人と原理から議論する傾向の人に大別できるような気がしていますです。
事実(ソース付きの記事や論説)を並べて、それを材料に主張を展開する事象中心主義な論説を得意としている人と、そうではなくてまず原理とか主張を掲げて、その結果を必要ならば事象を上げて補足する原理中心主義な論説を得意とする人です。
まあ私の個人的な印象で語れば、事象中心主義な論説を得意としている人よりも、原理中心主義な論説を得意とする人のほうが理論好きの傾向があるように思いますが、原理を最初に掲げることはかなりハイレベルな論法だとは思います。
その原理が正しいことを正しく論理的に説明できないとなかなか原理からは入れないものでありますものね。
●無駄に異様に長いエントリーが多い当ブログ(苦笑
全くの余談、私事で恐縮ですが、当「木走日記」はなぜかひとつひとつのエントリーが長い、長すぎるというご指摘を時々いただきます。
ごもっともでありまして、自分でも長いエントリーが多いのは気にはしているのですが、自己分析するとどうも私の場合、考えが浅く足らない分、記事の羅列、数字の羅列、を好む傾向にあるのだと気付きました。
中でも今までに読者に顰蹙(ひんしゅく)を買った長いエントリーワースト3としては、自覚しているのは、昨年の国会議員の学歴をだらだら調べたのとか、ワールドカップで日本代表決勝Tへの道の可能性を徹夜で調べたのとか、最近では高野連関連の朝日記事をしつこくトレースしたのとか、無意味に無駄に異様に長いエントリーなのであります(苦笑。
■[政治]2006年国会議員学歴調査(保存版)
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060501/1146458788
■[与太話][科学]可能性を理論する!!日本代表決勝Tへの道〜勝算は十分あるぞ!全81ケース徹底検証!!
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060618/1150601247
■[メディア]高野連と朝日新聞の醜態を徹底検証!!〜現役朝日社長が最高顧問の高野連は即刻解散すべし!
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20070512/1178961947
そういえば今思うとなのですが、幼少の頃から私は無意味に統計をとったりすることが異様に好きなかなりイカレタおバカな子供でありました。
中学一年のとき、初めて英語の教科書を手にしたとき、私は興奮を覚えました。
アルファベット26文字が並ぶその教科書を見て、私が興奮を覚えたのは、本末転倒なのですが、英語への勉強意欲ではなく、いったいこの本の中で26文字のアルファベットの中で出現回数が最も高い文字は何か、数えてみたい、というおバカな欲望でした。
私は全ページのアルファベットを数え上げました。
私のひいきは"I"でしたが、"A"も強敵だろうとか勝手に予想しながら、一晩で全ページを数え上げました、嬉々としながら(苦笑。
結果は群を抜いて"E"がトップでした。
その後、各26文字の出現回数を棒グラフにしたり、円グラフにしたりして味わうのでした。
この癖は高校3年生まで続きました(←バカか(苦笑))
ちなみにNYTとかの記事も含めて英語の小論ですが、よほど特殊な英文でないかぎり、出現頻度一位はほぼ必ず"E"なのでありますよ(←それこそどうでもイーですね(苦笑)
私の場合、こだわる内容もピントがずれていて、なおかつ分析して得る結果もあまり世の中の役に立ちそうにないものなのでした(苦笑
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●帰納脳と演繹脳
本論というか、最初の話に戻りますが、事象中心主義な論説を得意としている人を帰納脳、原理中心主義な論説を得意とする人を演繹脳と名付けたいと思います。
この区分で言うと、どうも私は根っから帰納脳の持ち主のようです。
帰納法とは まず事例をコツコツ収集し、その個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理を導く方法です。
で、帰納脳というのは私の造語ですが、事象をコツコツ収拾し分析することによって結論を導くようなそのような論説を好む脳味噌(もしくはその持ち主)のことであります。
このタイプの人間は、私が自己分析するに、あまり独創的な原理原則を唱えるような天才的ひらめきは持っていない人間が多いようです(苦笑。
小さいことからコツコツと(きよし師匠
って、かんじですかね。
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言うまでもなく、帰納法の最大のリスクは、全事例を網羅するか、それと同等の論理証明をしない限り、帰納した結論(帰結)は必ずしも確実な真理ではなく、ある程度の確率を持ったものに過ぎないことです。
つまり帰納法は帰納的推理ともいいますが、事例の集合が不完全である限り、いくら事例をあげても、それはある確率が高いものにしかなりません。
全知全能ではない人間の認識の限界が帰納脳の欠点となります。
いかにもサンプル集合が小さく不完全であり、しかもそのサンプルが故意に偏りがあったりしたら、これをもって原理の証明はなかなかできないのが常でありまして、推論の域を出ないのであります。
しかもときにしばしばその推論自体がまちがっちゃったりしたり(苦笑)
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で、世の中には帰納脳とは反対に演繹脳の持ち主もいるようですね。
演繹法は、帰納法とは逆に、一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法ですね。
で、演繹脳というのは、まず原理や考え方を掲示し、そこから論理的推論を展開することによって個々の事象を解説する、そのような論説を好む脳味噌(もしくはその持ち主)のことであります。
演繹法の代表的な手法に、大前提・小前提・結論による三段論法があります。
まず大前提(一般的原理)として「動物は死ぬ」というところから、小前提(事実など)として「犬は動物である」という事実から、「犬は死ぬ」という結論(事象)を導くわけですね。
さてこの演繹法ですが、これは論法としては上級者というか頭の賢い人しか使えないのであろうというのが、演繹法を上手に使えない私のひがみ根性半分の結論でございます。
言うまでもなく原理原則から論じ始める演繹法の最大のリスクは、正しくない、あるいは使用するのが適切ではない前提を用いてしまうことがあることです。
先入観や偏見に基づいた間違った前提を適用してしまう場合や、ある限定された範囲でのみ正しい前提を全体に適用してしまうような場合などがそれにあたります。
偏った先入観を一般的原理として議論してしまうと問題なのでありまして、これはかなり賢い人しか上手に使えないだろうと思います。
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ま、帰納法と演繹法、どちらもメリット・デメリットがあるわけで、完璧に誤謬なく用いることはなかなか難しいものなのでありますよね。
帰納法と演繹法、方法論としてはどちらが優れているのかは愚問というもので、実際には、両者は対立するものではなく、状況により選択する手段であり、適した方を使い分けてこそ真価を発揮するようです。
事実の羅列から原理原則を求めていく帰納法
原理原則から個々の事象を求めていく演繹法
興味深いことは、演繹法と帰納法は相互の到達点が相互の出発点となります、つまり演繹法は原理から事象へと向かい、反対に帰納法は事象から原理へと向かうわけで、理想的には、それぞれの到達点として獲得した論理を相互検証することで、より確実な真理に近づくことができるのでありましょう。
つまり偏りのない論説としては、演繹法と帰納法を使い分けながら(ときに併用しながら)論理的に話を進めていくのがひとつのバランスのとれた考え方なんでしょうね。
ま、教科書的にまとめてはみましたが、そうは言っても、どうも演繹的傾向でものを語っちゃう、あるいはどうしても帰納的傾向で論理展開しちゃう、そういった思考の癖のようなものは、人それぞれかなりありそうなのであります。
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事象から考える帰納脳と原理から考える演繹脳。
今日は、人間の思考・論法の癖について少し考えてみたのでした。
(木走まさみず)