木走日記

場末の時事評論

PC遠隔操作事件で『大義の支持者』に陥る論者たち〜検察・警察=「悪」は必ずしも被疑者=「正」を証明しない

 20日付け朝日新聞電子版記事から。

片山被告を勾留へ PC遠隔操作事件 一連の関与認める
2014年5月20日11時26分

 パソコン遠隔操作事件で、威力業務妨害などの罪に問われている片山祐輔被告(32)=保釈中=が19日夜、弁護団に電話で連絡を取り、「自分が真犯人」と話して一連の事件への関与を認めたことが関係者の話でわかった。東京地裁は20日、片山被告の保釈を取り消した。片山被告は収監される見通し。

 片山被告は20日午前、弁護士事務所を訪れ、弁護士と今後の対応を協議しているとみられる。事務所には東京地検の係官も入っている。

 片山被告は19日朝から行方がわからなくなっていた。

http://www.asahi.com/articles/ASG5N3D1PG5NUTIL003.html

 うむ、PC遠隔操作事件において、片山祐輔被告が「自分が真犯人」と話して一連の事件への関与を認めたことが関係者の話でわかったとのことです。

 これまで本件に関しては当ブログでは意図して取り上げることはしていませんでしたが、本人が関係者へ「自分が真犯人」と話したことが事実だとすれば大きな転機を迎えたことは明らかであります。


 本事件に関する詳細の論説は他の論者に委ねるとして、当ブログにおいては、本題とは少々ずれるのですが、本件においてネット上一部の論者により展開されていた、検察・警察側の不当「捏造」捜査を批判する「陰謀論」について取り上げてみたいのです。

 例えば当ブログの提携先であるBLOGOSにおいては、八木啓代氏が継続的に本件における検察・警察側の対応の不備や「なりふりかまわなさ」を」批判し続けてきました。

PC遠隔操作事件:河川敷のスマホにまつわるこれだけの謎
http://blogos.com/article/86705/
PC遠隔操作事件「真犯人からのメール」を検証する
http://blogos.com/article/86570/
どうする検察! その首に二重の縄が....
http://blogos.com/article/86568/
フィクションと現実は入り交じる〜バルテュスからPC遠隔操作事件まで
http://blogos.com/article/86573/
冤罪事件とは、「真犯人」を警察と検察が逃がしたということですよね
http://blogos.com/article/83288/
今年は、検察史上、最悪の年になるかもしれませんわね
http://blogos.com/article/81316/

 詳しくは当該エントリーをお読みいただくとして、氏の論説は歯に衣着せぬ明快な表現で本件を検察・警察による「冤罪事件」ではないのかという筋立てにて、事実に基づく論理的分析とそこから導き出される合理的な氏の推論を展開いたしております。

 当ブログの私見ですが、氏のこれまでの論説は事実上の検察・警察側の落ち度に対する的確な批判も多々あり、非常に説得力のあるものもあり、当エントリーはその具体的内容に個別の批判を加えることを意図しておりません。

 そもそも一個人の論者が検察・警察など権力機構の問題点を鋭く批判することはたいへん勇気のいることでもあり、権力に迎合しがちなこの国のマスメディアが臆病な沈黙をしその本来の役割である「国家権力に批判的に対峙するチェッカー」となるべき責務を放棄している中で、その意義も重く受け止めているものです。

 本件が「冤罪事件」であるかどうかに関わらず、検察・警察側の対応に問題があったとすればそれは強く批判されるべきでしょう。

 ・・・

 ただここで留意したいのは、「冤罪事件」である可能性がある被疑者を擁護しようとする場合、検察・警察=「国家権力」が「悪」という前提の中で、被疑者=「正」というひとつの「仮定」が、あたかもひとつの『大義』として一人歩きしがちである危険性が伴うという点です。

 冷静に考えれば検察・警察側に不正や行き過ぎた捜査があった事実と、被疑者が真犯人であるかどうかの真実は、それぞれ独立した事象であり、権力=「悪」が、被疑者=「正」であることを証明するものではありません。

 つまり二項対立よろしく、検察・警察=「悪」かつ被疑者=「正」、もしくは検察・警察=「正」かつ被疑者=「悪」というきれいな仮定がかならずしも常時成立するわけではないという事実は重要です。

 現実には、捜査に不当性があったことにより検察・警察=「悪」が成立するも、被疑者が「真犯人」であることがわかり被疑者=「悪」も同時成立することも可能性としてあるわけです。

 ・・・

 まとめです。

大義の支持者』と『真理の探究者』という言葉があります。

 『トンデモ科学の見破りかた』(ロバート・アーリック著:草思社)は興味深い本です。たとえば、「銃を普及させれば犯罪率は低下する」というトンデモない主張について、科学的検証を試みています。

 その本の中で物理学者でもある著者のロバート・アーリックはこうのべています。

 あらゆるトンデモない考えは単にそれを支持する証拠を見つけるだけでは真実であることは証明されない。ひとつのトンデモない考えの正しさを証明する最善の方法は、それが誤りであることを示すあらゆることをやってみて、それに失敗することなのだ。

 我々の日常生活において、対立する主張の真偽を両陣営にたつ専門家たちの主張を判断しながら、一般市民側が自分自身でどちらの主張を支持するか決めなければならないことがあります。

 本件もまさにそうです。

 専門家ではない一般市民側にとって、真実かどうか判別するのは勿論容易なことではありませんが、最も重要なことは、『大義の支持者』に陥ることなく、『真理の探究者』の姿勢を保つことです。

 もし、本件は不当な「冤罪事件である」と判断してしまっていてすでに『大義の支持者』に陥っていって国家権力=「悪」、被疑者=「正」の二項論の考えに拘泥してしまっていたら、おそらく、この事件の双方の陣営の論証を公平に評価したいとは思わないでしょう。

 議論はそこで停止であります。

 『真理の探究者』の姿勢は、自分たちが確実に知りうることについてつねに謙虚で、新しい証拠(自分たちの見解を支持するものも、それに反対するものも両方ともに)に心を開いていく必要があります。

 本件で被疑者を擁護してきた論者は、検察・権力側の問題点を浮き彫りにしたこれまでの論説を無駄にしないためにも、被疑者が真犯人であった場合は、勇気を持ち、「事実」に正対していただきたいです。



(木走まさみず)