木走日記

場末の時事評論

朝日新聞社説にみる「護憲派」の詭弁論法

 1日付け朝日新聞社説が興味深いです。

(社説)護憲後援拒否 霞を払い議論をひらけ
2014年5月1日05時00分
http://www.asahi.com/articles/DA3S11112975.html

 社説は冒頭、安倍首相が出席したメーデー中央大会にて、「消費税お前が払え」というプラカードを持った男性4人が警察官により会場から強制退去させられた経緯に触れます。

 「給料の上がりし春は八重桜」。自身主催の「桜を見る会」で面妖な俳句を披露した安倍首相が出席した、メーデー中央大会。こんなことがあった。

 「消費税お前が払え」というプラカードを持った男性4人に警察官が張り付き、「掲げるな」に始まり、高く掲げ過ぎだなどと圧力をかけ続ける。

 そして首相がマイクの前に立ち、男性らが「『残業代ゼロ』絶対反対!」と声をあげた途端、警察官が一斉に彼らを取り囲み、会場の外に押し出した。

 強制退去の法的根拠の説明が当局から無いことから、「安倍政権下、異論や議論が霞(かすみ)の奥に追いやられていないか」と安倍政権に疑問を呈します。

 なぜプラカードを掲げてはいけないのか。なぜ警察に会場から出されなければならないのか。何の法的根拠に基づいているのか。男性らは何度も問うたが、確たる返答はなかった。

 安倍政権下、異論や議論が霞(かすみ)の奥に追いやられていないか。

 ここで話は本題に移り、自治体が「護憲」にまつわる行事の後援を拒否するケースが相次いでいることに触れます。

 昨年から、自治体が「護憲」にまつわる行事の後援を拒否するケースが相次いでいる。

 千葉市は1月に開かれた集会の後援申請を断った。「自民党改憲案で何が変わるか」という講演が予定され「国民的な議論がある問題で、主観的な考えを述べる講演会と判断した」。

 神戸市は、憲法記念日に開かれる護憲集会の後援を断った。実行委員会によると「政治的中立性を損なう可能性がある」が理由だったが、過去2回は後援を受けていたという。

 憲法99条を示し、「憲法擁護義務を負う公務員が、憲法を守ろうという趣旨の集会の後援を拒否する。なんとも不可解な現象」であるとこの動きを批判します。

 憲法99条はこう規定している。「天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」

 憲法擁護義務を負う公務員が、憲法を守ろうという趣旨の集会の後援を拒否する。なんとも不可解な現象である。

 社説は、「議論を開き、拓(ひら)いていく。その役割を自治体が担ってこそ、社会の霞は払われるのだ」と結ばれています。

 政治的中立とは何か。主観的考えを述べない講演があり得るのか。およそ真剣に考え抜いて出した結論とは思えない。うかがえるのは、改憲を掲げる安倍政権と、それを支持する人たちの意向を過剰に忖度(そんたく)し、護憲集会を後援することにクレームがつくことを恐れ、事なかれ主義に走る情けない姿である。

 後援基準を見直す動きも出ている。千葉県白井市はこれまで「政治的・宗教的目的を有する行事」は後援しないとしていたが、4月に「目的」を「色彩」に変えた。要は、できれば後援したくない、面倒には関わりたくないということなのだろう。

 だが、異論が出て、議論が交わされることで社会は強く、豊かになるのである。自治体はむしろ面倒を引き受けるべきだ。

 議論を開き、拓(ひら)いていく。その役割を自治体が担ってこそ、社会の霞は払われるのだ。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11112975.html

 社説の「主観的考えを述べない講演があり得るのか」との指摘はそのとおりでしょう、問題はいかに中立性を担保するのか、政治的講演ならば反対意見も論じる場を設ける討論会の形式にするとか、いかに自治体の政治的中立性を確保すべきなのかは、おおいに議論すべきでしょう。

 当ブログとしてしかし今回は、いわゆる「改憲反対派」=「護憲派」の識者の論ずる詭弁法の典型がこの朝日社説にも見られるので、その一点について掘り下げたいです。

 朝日社説は憲法99条を示し、「憲法擁護義務を負う公務員が、憲法を守ろうという趣旨の集会の後援を拒否する。なんとも不可解な現象」であると、あたかも「天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」は、将来に渡り憲法改正に反対し、改憲論議を否定しなければならないような論を展開致します。

 憲法99条はこう規定している。「天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」

 憲法擁護義務を負う公務員が、憲法を守ろうという趣旨の集会の後援を拒否する。なんとも不可解な現象である。

 公務員が憲法擁護義務を負うのは当然です。

 しかし憲法擁護義務は、現在の憲法の規定を実効あらしめるよう公務員に義務を課すものであって、将来の憲法改正を否定するものではありません。

 朝日社説は、将来の憲法改正反対を「護憲」と言い換え、それがあたかも憲法擁護義務そのものであるかのように論理をすり替えているのです。

 憲法96条には、明確に国会がこれを発議し国民に提案してその承認を経れば憲法改正は認められると、明文化されています。

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
○2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する

 憲法99条が規定している「天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」ことは、現在の憲法の規定を実効あらしめるよう国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に義務を課すものであり、将来の憲法改正論議を禁じているものではありません。

 ・・・

 まとめです。

 『悪法も法なり』という法諺(ほうげん。法律がらみの格言・ことわざ)があります。

 ラテン語で "Dura lex, sed lex"("The law is harsh, but it is the law":「法は過酷であるが、それも法である」)と言います。

 一般にはソクラテスが言ったとされていますが、ソクラテスの言行を記録したとされる文献である『クリトン』に、似た内容の話の記述があります。

 現行憲法が「悪法」かどうかはさておき、この法諺の意味するころを当ブログなりに整理しますと、次のように集約できます。

 一点は法治国家としては現在実効されている法の遵守が第一なのだという当たり前のルールです。

 法治国家においては、たとえ問題があっても現在有効な法律には従わなくてはならないのです。

 悪法といえども法なのだから、勝手に破られては法の整合性、安定性が保てないからです。

 従って憲法99条が規定している「天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」ことは、当然のことです。

 もう一点は人の作る「法」の限界性であります、人の作る法は必ずしも「正義」を体現できているわけではない、ときに「悪法」も存在しうるという事実です。

 人の作った法について、その絶対正義を盲目的に過信することなく、たえず謙虚にその内容が社会正義と矛盾することがないかを、チェックし続けることです。

 もし改正の必要が見出されたならば、その場合もあくまで現行法を遵守しつつですが、正規の手続きを踏み、より良い法に改正すべき将来の手続きを踏めば良いということです。

 憲法96条で憲法改正手続きが明文化している意味はまさに、現行憲法においても将来の改正を自ら担保しているものです、国会において憲法改正の議論や手続きを行う行為はまさに現行憲法を守っている、「護憲」行為なのであります。

 朝日社説の「憲法擁護義務を負う公務員が、憲法を守ろうという趣旨の集会の後援を拒否する。なんとも不可解な現象」との論法は、意図して公務員の現行憲法遵守義務と、将来の憲法改正論議という、異なる次元の問題を、まぜこぜにしているのです。

 小学生でもわかる詭弁です。

 そのような論がまかり通るなら、現行憲法は未来永劫一言一句改正不可能となります。



(木走まさみず)