「集団的自衛権」問題〜ユニラテラリズムとマルチラテラリズムの狭間
私は現在の日米同盟を戦後日本にとりその安全保障上の政策としては他に選択肢はまったくなかったという点で肯定的に評価しています。
また「集団的自衛権」に関して「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」において議論を深めることにも異存はありません。
ただ、議論を深めることは大いに結構ですが、この懇談会の議論も含めて安倍政権が現行憲法の解釈変更を目指すのか、憲法そのものの改正を目指すのか、あるいはその両方をねらっているのかはうかがい知りませんが、くれぐれも日本の国益にそくした慎重な議論を重ねてくれぐれも安直な方法で結論を急ぐようなことは避けてほしいと思っています。
戦後日本の62年にわたる平和的な歩みと曲がりなりにも世界第二位の経済大国として豊かになった日本は、この21世紀には、マルチラテラリズム・多国間主義の国家を目指すべきだと考えているからです。
●有史以来一貫してユニラテラルだった日本
ユニラテラリズムとは一国主義という意味で、マルチラテラリズム・多国間主義と対で使用されます。
現実にはどこの国ともまったく同盟関係のない鎖国時代の日本のような国家は21世紀の現在ではまれなわけで、ユニラテラルな国家でも北朝鮮のように中国とは同盟関係にあるということもままありますし、マルチラテラルの国家でも例えばNATO加盟国のアメリカは、その独善的な軍事力行使を米国一国主義・米国ユニラテラリズムであるとして、批判を受けていたりしています。
で、現代の日本は、アジアにおいて、日米軍事同盟を機軸にはしていますがユニラテラルな国家であると言えましょう。
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世界史的観点でみれば、島国日本は地政学的に孤立していたこともあり、基本的にその外交政策はユニラテラルな一国主義の国として1000年以上の長い間、維持されてきました。
もちろん、7世紀の古代大和朝廷が中国北朝〜高句麗〜新羅連合に対抗して、中国南朝〜百済〜日本の同盟関係を一時的に構築した時期のような例外はありますが、基本的には近代に至るまで、江戸時代の鎖国政策に代表されるように一国主義(ユニラテラリズム)、排他的外交政策が主流の国でありました。
その間、元寇という他国から攻撃、豊臣秀吉の朝鮮出兵という日本の他国への攻撃等、短期の例外はありましたが、恒常的な長期間の他国による占領も他国への侵略も、近代を迎えるまでは日本は経験せずにすごしてまいりました。
ユーラシア大陸の最東端の小さな島国であるからこそ孤高を保てたのであり19世紀までそのような保守的な政策が維持できたのでありましょう。
日本が長い間のユニラテラルな外交政策を転換したのは、わずかここ150年のことであります。
しかも本質的には今現在も日本はユニラテラル的国家であり、少なくともマルチラテラルな国家にはまったくなり切れてはいないのです。
明治維新以後西洋列強の帝国主義的植民地政策のアジア進出の圧力のまえに、日本政府は「富国強兵」国策の一環として当時の国際政治力学・パワーポリティックスバランスを利用します、朝鮮に圧力を掛け、半島の主導権をめぐりまずは日清戦争で勝利をおさめ、ついで不凍港を求めてアジアにて南下政策を露骨に進めていたロシアに対抗するために「日英同盟」を結んだのは、日露戦争開戦直前のことでした。
やがて日英同盟は破綻、日本は日華事変・満州事変を通じて、再びアジアにて孤立を深め、英米アングロサクソン勢力と対抗するために、苦し紛れに日独伊三国軍事同盟を結び、勝算なき太平洋戦争へと突き進むのであります。
ご承知のように先の大戦で日本は完膚無きまでの完敗を喫しアメリカに占領されます。
戦後アメリカ占領軍主導で「戦争放棄」を明文化した平和憲法を掲げますが、直後の朝鮮戦争勃発とともに、占領軍アメリカは日本の再軍備をせまり、冷戦下日本は警察予備隊を経て自衛隊という名称の再び軍隊を持ち、やがて日米安保条約を結び、西側陣営のアジアにおける拠点同盟国として貢献していきます。
朝鮮戦争やベトナム戦争における後方基地として日本国内の米軍基地が活用され、その軍需需要をまかなう形で戦後日本の産業は勢いを付け、安全保障的には米軍とその核の傘の庇護のもと、専守防衛に特化した軍事力に抑制し、もてる国富の多くを経済活動につかうことにより、世界第二位の経済大国にまで成長してきました。
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日本国は、その歴史の大半を一国主義・ユニラテラルな外交政策ですごしてきたのであります。
有史以来、日本が同盟を結んだ国は、百済、英国、ドイツ・イタリア、そして現在のアメリカとわずか5カ国ほどに過ぎません。(あえてオーストラリアは上げませんでした)
その同盟も枢軸同盟の3カ国を除けば全て一対一同盟が中心であり、NATOのようないわゆるマルチラテラルな多国間同盟は経験したことがありません。
日本は有史以来、いわゆる多国間主義・マルチラテラリズムを政策として持ったことは現在まで一度もなかったのであります。
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●マルチラテラルな生き方しか国家のありようとして選択肢がなかった戦後ドイツ
戦後日本の安全保障政策と軍備の変遷について、同じ敗戦国であるドイツと比較されることが多いですが、東西分裂国家として二つのベルリン、二つのドイツに引き裂かれた当時の西ドイツの場合、その戦後の歩み自体、完全にマルチラテラリズムを政策として有していたことは重要です。
東西冷戦構造のもと、NATO軍の中核部隊として、ソ連及びその衛星国と対峙する最前線国家として西ドイツは、早くから徴兵制をしき、憲法に当たる基本法を50回以上改定しながら、マルチラテラルな政策を遂行してきました。
西ヨーロッパに位置するドイツの場合、周辺国が成熟した議会制民主主義国ばかりであり、経済面ではEC(のちのEUC、EU)ヨーロッパ経済共同体があり、軍事面ではNATO北大西洋条約機構があったわけです。
ドイツにすればマルチラテラルな生き方しか国家のありようとしては選択肢はありませんでした。
ドイツは周辺国に恵まれていたのは事実でありましょう。
しかるに一方、戦後日本の周辺国では、民主主義的価値観を共有できるような多国間同盟を結ぶことができるような成熟した状況ではまったくありませんでした。
体制もバラバラであり経済格差も大きく、安全保障面で日本が同盟関係をもつ相手は、アメリカ一国をおいてはなかったのであります。
中国の開放政策と経済発展、ソ連の崩壊、韓国・台湾の民主化定着と経済の安定、21世紀を迎えようやく東アジアにおいても成熟した多国間関係が構築できる可能性がでてきました。
しかしながらヨーロッパにおけるドイツが選択したような多国間主義(マルチラテラリズム)を日本が選択できる環境にはほど遠いのではあります。
この状況の中で日本政府として、日米二国間同盟を基幹にした安全保障政策に当面頼らざるを得ないのはよく理解できます。
しかし、国際政治はめまぐるしく変化していきます。
●もっとも大きなハードルは国民の意識の中にある
1945年以後のアジアの歴史をかんがみますと、ヨーロッパと同じようなことをここでするのは非常に困難があっただろうと思います。
ですから、日本が多国間主義(マルチラテラリズム)を取らず、日米安全保障体制というもので対応してきたのは、他に選択肢のない外交政策であったと思います。
ただ、今後将来のアジアの情勢は相当の変化をすることでしょう、韓国も民主化してきておりますし、その他、インドをはじめアジアに民主的な国はふえてきておりますし、中国もまだまだ多くの問題を抱えながらですが体制が相当変わってきているわけです。
そして、朝鮮半島の問題に関しては、周辺諸国で同じ土台の上で話せるような土壌というものが十分育ってきていると思います。
米国との2国間関係を主軸におきつつ、これからはやはり北東アジアにおける安全保障というものを複数国で常に解決していくという枠組みを日本が積極的につくっていくことだと思います。
そして、もう一つの柱として、常任理事国を目指す国として、国連に対する貢献というものに対する日本独自の政策をはっきり持って、そこで一体日本がどういう役割を果たしていくのかということを明確に打ち出していくことであります。
これらのことはここ最近さんざん議論されていることではありますが、このような多国間主義(マルチラテラリズム)的政策を日本が選択するためには越えなければならないハードルがいくつかありそうです。
もっとも大きなハードルは国民の意識の中にあるのでしょう。
日本は有史以来、いわゆる多国間主義・マルチラテラリズムを政策として持ったことは現在まで一度もないのであります。
孤立主義か1対1同盟の経験しかほとんどないこの国で、マルチラテラルな政策がはたして国民の理解を得ることができるのか、安直にそのような政策を口にすると、ともすると反米主義、媚中主義と決めつけられる可能性が大きいのです。
しかしながら、21世紀の世界の潮流は、その成熟度により地域間の格差は大きいのは認めた上でですが、確実に一国主義(ユニラテラリズム)から多国間主義(マルチラテラリズム)へと移っていくのではないかと思われます、日本も例外ではないでしょう。
根拠としては、ますます深刻になりつつある資源問題や環境問題への対処がもはや多国間主義(マルチラテラリズム)での政策でしか解決できないだろうというさしせまった事実、そしてもうひとつはユニラテラルな政策をとる国家がますます孤立化している事実であります。
現在ユニラテラルな政策をとる国家は、皮肉なことに独裁国家北朝鮮と超大国アメリカに代表されるのであります。
前者は体制維持のために国際的孤立をおそれず核開発に邁進しており、後者は自国の安全保障のためなら先制攻撃をも辞さず、同盟国の反対も押し切り軍事力を行使してきました。
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●一国主義(ユニラテラリズム)と多国間主義(マルチラテラリズム)の狭間で
いわゆる「集団的自衛権」という意味不明瞭な概念が、今安倍政権のもとで見直しを計ろうとされているわけですが、ここはくれぐれも慎重に議論をすすめるべきであると私は個人的に考えています。
それは日本とアメリカのようなユニラテラルな同盟国2国間だけで適用される「集団的自衛権」は、排他的色彩が強く、NATOのようなマルチラテラルな同盟国グループにおける「集団的自衛権」の透明性に比し、その民主的運用はとても困難をきわめるのであります。
まして超大国アメリカと日本の軍事力ではその力の差は歴然としており、もし「集団的自衛権」を認めるにしてもユニラテラルな同盟国アメリカと結ぶのであるならば、何かしかの日本の自主権を担保しておかないと危険であると考えます。
一部識者の間で危惧されるようにヘタをするとアメリカの一国主義(ユニラテラリズム)的軍事行動に日本が巻き込まれてしまう可能性があるからです。
多国間主義(マルチラテラリズム)を取るNATO加盟国ドイツの場合、逆にその軍事行動はNATO軍配下でふるまいますが、例えば米軍のアフガニスタン攻撃にはそれを支持し戦後の治安部隊出動に積極的に協力しますが、イラク攻撃の際には批判的にアメリカに対峙し、いっさい協力をしませんでした。
つまり多国間主義(マルチラテラリズム)といっても各参加国の行動はあくまでもその自主性が担保されているのです。
これは多国間主義(マルチラテラリズム)の強みです。
つまりドイツは、軍隊を出す準備はあり出すならばNATO軍配下でいつでも国際協力するが、あくまでも出す出さないはドイツ自身が主体的に決めることができます。
一方、2国間同盟においては、他方が攻撃を受けた場合自動的に「集団的自衛権」の名のもとに相手の戦争に巻き込まれてしまう、そういった危険性がつきまとうのです。
中国と北朝鮮の「血の同盟」がそうであるように、日本が「集団的自衛権」をどう見直し、日米同盟にどう明文化するのかによっては、日本の自主性が担保されない危険があるわけです。
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日本は有史以来、いわゆる多国間主義・マルチラテラリズムを政策として持ったことは現在まで一度もないのであります。
孤立主義か1対1同盟の経験しかほとんどないこの国で、マルチラテラルな政策がはたして国民の理解を得ることができるのか、安直にそのような政策を口にすると、ともすると反米主義、媚中主義と誤解を受けやすいのであります。
しかし、ドイツの例を見ても、実際には多国間主義・マルチラテラリズムとは、自国の自主的な判断がしっかりと担保される点で「売国」的な同盟関係とはまったく異なるのであります。
逆に力の差がある2国間同盟において「集団的自衛権」を明文化した場合のほうが、
自国の自主的な判断がヘタをすると担保されない可能性があるのです。
もちろん私は現在の日米同盟を戦後日本にとりその安全保障上の政策としては他に選択肢はまったくなかったという点で肯定的に評価しています。
そして今現在もヨーロッパほどには成熟していないこの東アジアにおいては、今現在、日本はその日米同盟重視政策を転換する必要性はないとも考えています。
ただただ、現段階での日本の同盟国がアメリカだけである事実をまえに日本の「集団的自衛権」の議論はくれぐれも慎重にしてほしい、そう願っているのであります。
戦後日本の62年にわたる平和的な歩みと曲がりなりにも世界第二位の経済大国として豊かになった日本は、この21世紀には、マルチラテラリズム・多国間主義の国家を目指すべきだと考えているからです。
(木走まさみず)