木走日記

場末の時事評論

頑固でやっかいな『靖国原理主義者』のみなさん

 いやはやここ半月、靖国問題関連を連続エントリーしております当ブログなのですが、不肖・木走が自分が唯一神(?)なんじゃないかと錯覚して思ってしまうほど、当ブログに引きずられるように、世間では靖国関連のネタが次々にわき出てくれているのでございます。
(↑何勘違いしてんだ、この政治素人怪獣オタクオヤジが(爆))

 ・・・(汗

 経済同友会靖国参拝中止進言から米国議会筋の靖国参拝反対書簡など、なんだかなあ、フランス料理のフルコースを食してもうお腹いっぱい(苦笑)なのに、デザートでてんこ盛りのアイスクリームがでてきた感じですか(苦笑

 真面目なエントリーが続きましたので、今回は少し息抜きということで少しくだけた雑談風の内容にしてみました。



●賛成であれ反対であれ、頑固でやっかいな『靖国原理主義者』のみなさん

 小泉首相靖国参拝問題の賛成・反対の強さで、4グループに分けてみました。

【強い賛成派】・・・総理大臣の靖国参拝絶対賛成。靖国は日本の国内の問題。中韓の批判は内政干渉。(小泉首相、産経論説)
【弱い賛成派】・・・総理大臣の靖国参拝にこだわりはない。しかし、他国の批判に迎合して中止するのはよくない。(一部自民党議員、一部民主党議員)
【弱い反対派】・・・総理大臣の靖国参拝にこだわりはない。しかし、ここまで国際的に批判を受けるならばいかないほうがいい。(読売論説、日経論説、経済同友会
【強い反対派】・・・総理大臣の靖国参拝絶対反対。そもそも首相の靖国参拝違憲の疑いあり。(朝日論説、日本共産党

 別に10グループに分けても他の分け方しても全然構わないのですが、議論を進める上で便宜上上記のようにカテゴライズしてみましたが、他意はありませんので、この分け方自体にあまりツッコミ入れないようにネ(苦笑)

 最近の各種メディアの世論調査を見てみましても、この「靖国参拝」は日本の世論を二分している難しいやっかいな問題であることは間違いないのですが、国民の多数は上の分類で言えば【弱い賛成派】と【弱い反対派】のあたりをうろうろ彷徨っている(?)感じがいたします。

 この表をじっくり考えてみると、【強い賛成派】の小泉首相発言や産経社説の論説を見れば一目瞭然ですが、表の上位層に行くほど、この「靖国問題」を日本人の「心」「信条」の問題、信仰の問題であると考えているわけですね。

 で、表の下位層に行けばいくほど、共産党の主張や朝日社説の論説を見ればやはり自明ですが、この「靖国問題」を「心」の問題としてではなく、政治外交問題(一部憲法問題も含んで)シビアに問題視しているわけです。

 読者のみなさまもお感じだでしょうが、国会論戦やTVの討論番組での議論を見ていると、どうにも【強い賛成派】と【強い反対派】の議論がまったくかみ合っていないのは、かたや「心」の問題として、かたや「政治外交法律」の問題としてアプローチしているのが原因なんでしょうねえ。

 で、このコアな【強い賛成派】と【強い反対派】ですが、不肖木走に言わせていただければ彼等はもう立場は180度違いますが、議論しても自己主張するのみで他者の意見を参考にする余地はほとんどない点で『靖国原理主義者』に陥ってしまっています。(苦笑

 私から言わせていただければ、「朝日」も「産経」も小泉さんも志位さんも、もう頑固一徹な『靖国原理主義者』なんです、ハイ(キッパリ
(↑言い切っていいのか(苦笑 またクレームもらうぞ)

 ・・・(汗

 ゴホン、私は大部分の日本国民はもう少し柔軟にこの問題を思考することができると信じていますので、今日のエントリーは、上記グループ分けで言えば、おそらく国民の多数派であろう(と私が信じる)【弱い賛成派】と【弱い反対派】のみなさんを対象に話を進めていきたいのです。

 ・・・



●『靖国原理主義者』を見分ける方法〜「靖国なんてたいした話じゃないよ」と暴論してみる(苦笑

 「靖国問題」を心の問題として捉えているのにしろ、政治の問題として捉えているのにしろ、『靖国原理主義者』に陥っている人を見分ける方法は簡単なのであります。

 少し無責任な暴論的なテーゼ、「靖国問題は料理の好き嫌いを論じるのと同レベルな側面がほとんどで、たいした話じゃないよ」って提起すればよろしいのです。

 『靖国原理主義者』に陥っている人は間違いなくこの一見無責任な「靖国問題は料理の好き嫌いと同レベル」というスキームに、怒り出すか大反論してくるでしょう。

 「心」の問題としてのアプローチか「政治・法」の問題としてのアプローチかは別としてですが、真摯に「原理」を極めて考えている者にとって、「たいした話じゃない」という無責任な決め付けは許されないことでしょう。

 ・・・

 でもね、あるディナーで主宰の人が「さあそれでは海の風味たっぷりの新鮮でさわやかな生ガキを、どうぞ堪能して下さいな」と、生牡蠣をテーブルに出したとします。

 いくら「海の風味たっぷりの新鮮でさわやかな」と形容されても、嫌いな人は臭いも嗅ぎたくないでしょうし、カキが好物な人はそんな形容されなくても舌なめずりするわけですよね。

 「生牡蠣」料理の評価と「靖国問題」、理屈で論じても意味がない点で似てませんかね。

 どちらもそうとうクセがあり、好き嫌いがはっきりしている人がいる点でも(苦笑

 ・・・

 私から言わせていただければ、このような比喩に目くじら立てずワラって納得いただける方は、『靖国原理主義者』に陥っていないわけです。

 カキが好きか嫌いかは理屈じゃないわけですが、大部分のカキを普通に食する人間にとっては、「カキ大好き人間」も「カキ大嫌い人間」もいていいわけですが、自分が「カキが大嫌い」なことを理由に「カキはその存在そのものが悪である」とか「カキを食する人間は下等である」とか、拡大解釈されちゃうと、これはこれで困っちゃうんですよね。

 これが「靖国」の本質なんじゃないかなあ・・・

 「ナマ」のカキが嫌いなわがままな「拡大解釈」の客人がいたら、その客人だけのために「生カキ」を出さないか、「生」がだめなら「ボイル」するなり「フライ」するなり加工して出す工夫をするか、あくまでも頑固に「生カキ」のまま出すか・・・

 そんなレベルの問題なんですよね、きっと。



(木走まさみず)