木走日記

場末の時事評論

日の丸・君が代論争再考

 今回は当ブログで初めて、[議論]というカテゴリーを作ってみました。

 以下のエントリーの追記です。

■[メディア]「スポーツ朝鮮」記事より説得力がない「朝日新聞」社説〜国旗・国歌論争
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060317/1142563601

●真摯な青龍さんの反論

 上記エントリーに関して、青龍さんから真摯なトラックバック及び反論をいただきました。

青龍の雑文Blog
君が代 - それは「マナー」か?

http://seiryu-y.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_7f60.html

 不肖・木走は、根っからの横着者でして、トラバいただいても普通積極的にレスしたりは少ないのですが、この青龍さんの内容はとても興味深かったのです。

 そこで、ややこしい不毛な議論は本来あまり好きではないのですが、誠実な青龍さんならば、木走のオバカな議論にも嫌にならず、有意義な議論もできるかな、と期待して、今回は苦手な議論をしてみたいと思いました。

 ・・・

 まず青龍さんの反論内容を引用させていただきましょう。

 青龍さん、すみません、少々お行儀悪いかもしれませんが、どの文章も重要だと思われましたので全文引用させていただきます。(問題有れば御指摘下さい、訂正します。)

君が代 - それは「マナー」か?

 木走様は

自国の国旗・国歌に敬意を示すことは「しつけ」として当たり前と思うんですが、これからの国際社会に置いて、自国の国旗・国歌に敬意を示せない人が、はたして他国の国旗・国歌に敬意をもてるのでしょうか。

 理屈ではなくこれはマナーの問題だと思うのですが、違うのでしょうか。

と主張されています。

 しかし、私はこの主張には賛同できません。なぜなら、この主張は日の丸・君が代を巡る価値観の対立を捨象して、一見価値中立的な「マナー」を持ち出すことにより、結果として異なる価値観に基づく行為を押しつけるものだからです。
 すなわち、この主張では、卒業式で君が代を斉唱することがなぜ「マナー」なのかという点が問題とされません。突き詰めて考えれば卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なものであり、それは君が代の斉唱を拒否するもう一方のイデオロギーとの関連でそれを「マナー」として認めるべきかを検討する必要があるのに、その検討の過程は省略されて君が代の斉唱が「マナー」であることがいつの間にか議論の前提とされているのです。そして、そこから導き出される「マナー」は守られるべき、というある意味同義反復的論法では、もはや思想信条の自由や信教の自由との調整は問題とされません。本来その調整の結果確定されるべきマナーの内容が既に決定されているのですから。
 この論理構造は戦前の神道非宗教論と酷似しています。神道が宗教でなく国家儀礼とされることで神道という特定の宗教に基づく行為を強制することが信教の自由の侵害ではないとされたように、特定のイデオロギー(価値観)に基づく行為を強制することがそれをマナーと言い換えることで信教の自由や思想信条の自由を侵害するものではないとされてしまっているのです。

 私は、木走様がこのマナーの是非の部分の検討を意図的に省略しているとは思いません。ただ、意図的ではないために問題はより深刻なのだというのが私の考えです。
すなわち、木走様は自らの主張が特定のイデオロギーに立脚していることに無自覚な(もしくはその認識が薄い)ため自らの主張が中立であることを議論の前提としてしまっているように思います。
 同様の傾向は自らの立ち位置をニュートラルとされる鮎川様や、君が代を歌わないことを特定の思想を表現すると評価する一方で、君が代を歌わせることの思想性・イデオロギー性には言及されないmasashi様にも見て取れます。
 私も木走様も鮎川様もmasashi様も、みなそれぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている、それが議論の出発点であることは、心にとめておいた方がよいと思うのです。

 うーん、基本的にはとっても文章の理論としては、納得いきます。最後の文章の「私も木走様も鮎川様もmasashi様も、みなそれぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている、それが議論の出発点であることは、心にとめておいた方がよいと思う」という御指摘もその通りであると思います。

 人はそれぞれ必ず議論するときの立ち位置、青龍さんが言うところの「それぞれのイデオロギーを持ちそれに基づいて議論をしている」わけであります。

 そしてこのエントリーで私は確かに「マナー」とか「しつけ」とか、一見中立的に聞こえる(見える)用語を用いているのですが、その「マナー」とか「しつけ」は守るべきであると主張すること自体、ある「行為を押しつける」主張と見なされてもしかたがないようです。



●真摯な青龍さんの反論に対する木走の反論

 同意ばかりしても議論になりませんのでささやかに建設的な反論を試みましょう。(苦笑)

青龍さんのご意見

 この主張は日の丸・君が代を巡る価値観の対立を捨象して、一見価値中立的な「マナー」を持ち出すことにより、結果として異なる価値観に基づく行為を押しつけるものだから

 元エントリーでもたしかに私は「イデオロギー論は抜きにして」という前提を明示した上で記述したものですが、確かに私は「日の丸・君が代を巡る価値観の対立を捨象」した議論を展開いたしました。

 その理由は、第一には、細かい過去のイデオロギー論的事象について議論する用意が私の方にまったくなく(意識としても能力としても嗜好としてもです)、イデオロギー的議論に拘泥するのを避けたかったからであります。

 しかしより本質的には、この日の丸・君が代論争そのものが持つ「過去の価値観の対立」に意味を見出すことが、というよりもそこに議論を集約させて拘泥してしまうことが、この問題を議論し解決するうえで正しい方法論なのか、個人的にはとても疑問に思っていたからです。

青龍さんのご意見の続き

 すなわち、この主張では、卒業式で君が代を斉唱することがなぜ「マナー」なのかという点が問題とされません。突き詰めて考えれば卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なものであり、それは君が代の斉唱を拒否するもう一方のイデオロギーとの関連でそれを「マナー」として認めるべきかを検討する必要があるのに、その検討の過程は省略されて君が代の斉唱が「マナー」であることがいつの間にか議論の前提とされているのです。

 この部分で納得がいかないのは「突き詰めて考えれば卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なもの」という表現です。

 確かに歴史を紐解けば、事実として日の丸にも君が代にも、かつてイデオロギー的なものはあったのでしょう。

 愛国心民族主義はくり返し戦争の原因になってきたわけですし、戦争になったとき、必ず政治家は国民に愛国心を強制する。ナショナリズム軍国主義は深く結びついていて、それを別のものだというのは無理があるという意見もあるでしょう。
 
 国旗や国歌はナショナリズムとして悪用されることも多いわけでして、愛国心をあおることで、自分の国が最もすぐれているような錯覚を起こさせ、まわりの国を侵略したり、支配したりすることもあったでしょう。

 戦前の日本やドイツがその典型的な例だったのかも知れません。そういう歴史を持つ日本が国旗や国歌にこだわるのは、再び戦前のような過ちを犯すことになると考えることもできましょう。

 しかしです。

 いくつかの世論調査では、日の丸については国民の約90%が国旗として支持し、君が代は約70%が国歌として支持している現状は何を意味しているのでしょうか。(もちろん、この支持にはまあべつにいいんじゃないという消極的支持もふくまれるでしょうが)

 敗戦から60年が経過し、日の丸・君が代に戦争を連想する世代よりも、今回のWBCやトリノオリンピックをはじめとしたスポーツの国際大会を連想する世代が圧倒的に増加していることがこの支持率になっていることは明らかです。

 私が強く主張したいのは、「卒業式で君が代を斉唱すべきという主張は君が代ひいては国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なもの」という認識は、今日の日本では残念ながら一般化していないだろうということです。

 「国家や歴史に関する特定の価値観を基盤としているイデオロギー的なもの」そこに結びつけることには、私には(そして私が思うに多くの国民には)違和感しかないのです。

 私が元エントリーのタイトルを「「スポーツ朝鮮」記事より説得力がない「朝日新聞」社説〜国旗・国歌論争」としたのも、正にこのような現状認識からなのです。

 ・・・

青龍さんのご意見の続き

そして、そこから導き出される「マナー」は守られるべき、というある意味同義反復的論法では、もはや思想信条の自由や信教の自由との調整は問題とされません。本来その調整の結果確定されるべきマナーの内容が既に決定されているのですから。

 私が「マナー」という用語を用いたのはなにも戦前回帰のためではまったくありませんが。(苦笑)

 国旗掲揚や国歌斉唱は、「法律」でもって強制的に罰するようなことはエレガントではなくもちろんそのようなやり方は反対であり、この件は「マナー」のような、それは守るべきであると私は個人的に考えていますが、守らない他者を罰するような「掟(おきて)」にするのは決して望ましくないというニュアンスも込めてのモノです。

 このような「マナー」がやがて戦前のような「掟(おきて)」となってしまうならば、私は断固反対いたしましょう。(私はその可能性は少ないという現状認識を持っていますが)

 法律による強制には反対です。

 ですから私は法的拘束力のない「マナー」を使ったのでした。



●日の丸だけではない「旗」の閉鎖性

 少し議論を国旗に絞ってみます。

 国旗に代表される「旗(はた)」の起源はどこから来ているのでしょうか。

 私には旗の起源に関する正確な知識はありませんが、想像するにおそらく古代から洋の東西を問わず戦さのときの敵・味方の区別に使用されてきたことに由来するのではないでしょうか。

 そもそも国旗を含めて旗の役割は、ある価値観(ときに部族、ときに民族、ときに宗教、ときに国家、ときにイデオロギー)に基づく味方集団の象徴的な印・記号としての役目だったのでしょう。

 ある人間集団を特徴付け、その集団の内なるモノと外なるモノ、敵・味方を区別するための閉鎖的側面を「旗」自体が有しているのでしょう。

 作家、城山三郎氏の次の詩は、まさにそのような旗の持つ「閉鎖性」を糾弾しています。

「旗」

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も

ひとみなひとり ひとりには ひとつの命
走る雲 冴える月 こぼれる星 奏でる虫 みなひとり ひとつの輝き
花の白さ 杉の青さ 肚の黒さ 愛の軽さ みなひとり ひとつの光
狂い 狂え 狂わん 狂わず みなひとり ひとつの世界 さまざまに 果てなき世界
山ねぼけ 湖しらけ 森かげり 人は老いゆ

生きるには 旗要らず
旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
限りある命のために

「支店長の曲り角」城山三郎著より
http://www.bk1.co.jp/product/863099

 ここでは「国旗」も「社旗」も「運動という名の旗」もすべて否定されています。

 具体的に例えば、「日の丸」も「朝日新聞社旗」も「あか旗」もと言い換えるとまたおしかりいただいちゃうでしょうか(苦笑

 ・・・

 日の丸だけではなく、それぞれの「国旗」には負の歴史もあり、また国旗掲揚という行為には、ある種の集団を記号化した旗のもつ宿命的属性としてのその閉鎖性を指摘することは間違ってはいないでしょう。

 その面で否定するならば、日の丸だけではなくいろいろな旗が否定対象になってしかるべきでしょう。

 ・・・

 しかし、私はそのような旗の持つ負の属性も含めて、「国旗」に自国・他国の区別無く敬意を払うことは、国際的には200ヶ国以上の独立国がひしめく現在の世界を少なくとも公平に公正に振る舞うための構成員として、少なくとも必要な「マナー」であると考えるのですが、いかがでしょうか。

 ・・・

 ある集団(自分以外のです)がそこに愛着を持ち敬愛の情を抱いているならば、日本を含めどの国の国歌・国旗にも、敬意を表すべきではないでしょうか。

 私は北朝鮮という国家の現状の有様を個人的にはまったく否定しますが、もし日本人の中で、儀礼中に理不尽に北朝鮮国歌や国旗を冒涜する者がいれば、その人間を軽蔑することでしょう。

 国旗・国歌に儀礼として敬意を表することと、その国の過去・イデオロギー・有様に隷属・服従することは、まったく別次元であると考えているからです。

 ・・・

 青龍さま、読者のみなさまの、忌憚のないご意見をお待ちします。
 (異論・反論は優しくネ(爆))



(木走まさみず)