木走日記

場末の時事評論

桑田佳祐は中途半端な「アナーキー」〜反体制を気取るならそもそも紫綬褒章を受け取ってはいけない

 16日付け日刊スポーツ記事から。

サザン桑田「反日」にFAX800字で謝罪
2015年1月16日

 サザンオールスターズ桑田佳祐(58)と所属事務所のアミューズは15日、桑田が昨年末のライブやNHK紅白歌合戦での中継で見せたパフォーマンスについて、謝罪した。「年越しライブ2014に関するお詫び」と題し、約800字に及ぶ書面を報道各社に送付。「反日」「非礼」などと一部で批判を受けたことを受け、「配慮が足りなかった」「不備があった」などと謝罪した。

 昨年末に横浜アリーナで行った4公演。桑田は昨秋に受章した紫綬褒章をファンに披露した。ステージ上で、白い手袋をはめたスタッフが、うやうやしく桑田の元に届けた。

 ところが、WOWOWで生放送された31日のライブでは、桑田がズボンの後ろポケットから取り出していた。関係者によると、これは桑田の元に届けるタイミングが、進行よりも早すぎたことが原因だという。紫綬褒章の披露は、観客と視聴者へのサプライズ演出のため、桑田は手に持っているわけにいかず、一時保管するためにポケットにしまっていたという。ただ、桑田はこの流れで、褒章のオークションを観客に呼びかけるパフォーマンスもしていた。ジョークで、演出の一環だったが、紫綬褒章は、天皇陛下から授与されるものであり、後に「非礼」「失礼だ」と一部から指摘を受けるに至った。

 これらを重くみた桑田とアミューズは、書面で、紫綬褒章公開などを「日頃の感謝の気持ちをお伝えする場面を作らせていただいた」と前置きしながらも、「取り扱いに不備があったため、不快な思いをされた方もいらっしゃった」「感謝の表現方法に十分な配慮が足りなかった」などと謝罪した。

(後略)

http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/Cpettp01501160005.html?iref=andM_kiji_backnum

 うーむ、サザンオールスターズ桑田佳祐さんが「反日」批判にFAX800字で異例の謝罪と相成りました。

 天皇陛下からいただいた紫綬褒章をズボンのポケットから出して「5000円から」などと発言したようです、その行為が一部から不敬であると「反日」的だと批判されているわけです。

 60年代生まれの当ブログとしてはサザンの曲にはそれぞれ同じ時代を過ごしてきた世代としての思い入れのあるものも多いのですが、まあ考えることいろいろなのです。

 はたして桑田佳祐は「反日」なのか、読者の皆さんにも各人思うところがあると思いますが、今回はこの件を取り上げたいと思います。

 そもそも桑田さんは「ライブで日の丸に×印」を付けていたそうです。

2015年01月07日12:05
サザン桑田、ライブで日の丸に×印!!中國の領土釣魚島の映像をあえて流す演出にファンも唖然・・・
http://blog.livedoor.jp/abenomikususokuhou/archives/20103094.html

 国旗を否定する、「旗」を否定しているわけですね。

 すこし脱線します。

 そもそも「旗(はた)」の起源はどこから来ているのでしょうか。

 当ブログには旗の起源に関する正確な知識はありませんが、想像するにおそらく古代から洋の東西を問わず戦さのときの敵・味方の区別に使用されてきたことに由来するのではないでしょうか。

 そもそも旗の役割は、ある価値観(ときに部族、ときに民族、ときに宗教、ときに国家、ときにイデオロギー)に基づく味方集団の象徴的な印・記号としての役目だったのでしょう。

 ある人間集団を特徴付け、その集団の内なるモノと外なるモノ、敵・味方を区別するための閉鎖的側面を「旗」自体が有しているのでしょう。

 作家、城山三郎氏の次の詩は、まさにそのような旗の持つ「閉鎖性」を喝破しています。

「旗」

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため

社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も

ひとみなひとり ひとりには ひとつの命

(後略)

「支店長の曲り角」城山三郎著より
http://www.bk1.co.jp/product/863099

 ここでは「国旗」も「社旗」も「運動という名の旗」もすべて否定されています。

 具体的に例えば、「日の丸」も「朝日新聞社旗」も「あか旗」もと言い換えるとまたおしかりいただきそうですが・・・

 旗を掲げるという行為には、ある種の集団を記号化した旗のもつ宿命的属性としてのその閉鎖性を指摘することは間違ってはいないでしょう。

 では、国旗を否定する城山は左翼なのかといえば、それは間違いで、左翼・右翼のイデオロギー的なカテゴリーではくくれない、ディメンジョン(次元)の違う考え、あえてカテゴライズするとすれば、アナーキストといえましょう。

 アナーキズムつまり無政府主義は、「未来に於て国家の存在することを否認する」だけでなく、あらゆるヒエラルキーと呼ばれるような階統的な秩序に対して反対する概念です。

 無権力ないし無支配を追求し人間個々が階級を持たず自由であるべきとの考えであるアナーキズムは、平等を追求するという意味では左翼思想と親和性はあるのですが、城山の詩にもあるように「運動という名の旗」も否定している点で、共産主義とは一線を期しています。

 群れるな、群れたらそこには必然的にくだらない階級が生まれてしまう、強烈な個人主義が根底にあるわけです、それがアナーキーな人々の主張の特徴です。

 さて、こんな城山三郎紫綬褒章の内示をいただいたときこれを拒否しています。

 紫綬褒章を断った城山さんは、九二年に著した詩集「支店長の曲り角」で、「勲章について」と題し、褒章を断ったエピソードをつづっています。

 その詩の中ほどで、城山さんは妻にこう言っています。

 「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」

 勲章を受けるも、受けないも、個人の考え方です。

 ・・・

 昔からロックバンドは反体制、アナーキーと相場が決まっています。

 桑田佳祐は「反日」なのかと問われれば、当ブログとしては、彼は中途半端な「アナーキー」だと突き放しましょう。

 反体制を気取るならそもそも紫綬褒章を受け取ってはいけないでしょう。
 
 天皇陛下から紫綬褒章をありがたく受け取ったならば、その扱いに敬意を示すのは受賞者の当然の義務です。



(木走まさみず)