木走日記

場末の時事評論

仏紙最新号の表紙「ムハンマドが涙」風刺絵再掲〜偏向した非寛容な「言論の自由」には正義はない

 高野山(こうやさん)は、和歌山県にある、平安時代弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた真言宗の総本山であります。

 日本仏教における聖地のひとつであり、山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺山号高野山)をはじめ117か寺に及び、その約半数の53が宿坊を兼ねているそうです。

 高野山の宿坊は真言宗の寺院が経営しており、接客には若い僧侶などが当たり朝には僧侶の講話などもあり、一般の参詣者が宿泊できる施設で、比較的安価な宿泊料金で、精進料理を味わうことが出来ます。

 先日テレビ番組でこの高野山の宿坊の接客の様子が放映されていたのですが、ある印象的なシーンがあり深く考えさせられました。

 とある宿坊のロビー・待合室のような板の間の一角にて、その日若い僧侶が絨毯(じゅうたん)を丁寧に敷いて、その脇にある方向に向けて書物を置いているのです。

 聞けば今日宿泊する外国のお客さんの中にイスラム教徒がいるので、お祈りができるように絨毯とコーランを用意しているのだとのことでした。

 いやこれには正直驚かされました、日本仏教における聖地、真言宗総本山の高野山の寺院において、若い僧侶が、宿坊とはいえイスラム教徒のために祈りの場を用意し、イスラムの教典であるコーランを、イスラムの聖地メッカの方角に置いてるわけです。

 なんという異教徒に対する寛容、異教に対する敬意なのでしょう、若い僧侶は粛々と寡黙に準備していたさりげないシーンであっただけに、余計に印象深いものがありました。

 真言宗の教えが、あるいは日本仏教一般の教えが異教に対して寛大であるのか、私には専門知識はないのですが、日本という国の宗教への対峙の仕方、日本人の大らかな宗教観の一面を見たように思えました。

 イスラム教やキリスト教はその信徒にとって宗教はどこまでいっても宗教のままで、神と人はずっと変わらない距離感なのに、我々日本人は神や仏と人との関係を咀嚼し消化して文化になるまで浸透させてきました。

 外国からは無宗教に見える日本人も、神道や仏教の教えが、宗教として意識する必要が無い程に日常の生活に浸透していると見た方が適当なのだと思います。

 日本人の宗教観は構えることなく大らかなものであり、だからこそその聖地においてさえ、異教に対して極めて寛容で寛大で優しい敬意を示すことが可能なのか、テレビを見ていてそんなことを考えさせられていました。

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 14日付け日経新聞は仏紙最新号が再び「ムハンマドが涙」の風刺絵を一面トップに掲載したことを報じています。

仏紙最新号の表紙「ムハンマドが涙」 風刺漫画家ら会見
2015/1/14 1:01

 【パリ=竹内康雄】仏週刊紙「シャルリエブド」の風刺漫画家らが13日、記者会見し、14日発売する最新号について説明した。最新号の表紙は「すべては許される」というタイトルの下で、イスラム教の預言者ムハンマドが一連のテロ事件への抵抗と連帯を表す合言葉となった「私はシャルリ」というメッセージを手にして涙を流している。

 風刺画を描いた男性画家は「我々のムハンマドは今回起きたことを前に涙を流す善良な人だ」と解説。「表紙について何も心配していない」と述べた。

 通常数万部の同紙は最新号を300万部発行。アラビア語版を出すほか、英語、スペイン語、イタリア語、トルコ語にも翻訳される。

 エジプトの宗教機関「ダール・アル・イフタ」は13日、最新号について「新たな憎悪を生む」などと非難する声明を発表した。同機関はイスラム法に関する見解を示す権限を持つ。声明では同時に「全てのイスラム教徒は暴力に訴えるべきではない」と呼びかけた。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM13H8Q_T10C15A1FF2000/

 この「ムハンマドが涙」ですが、掲載すべきかどうか、日本のマスメディアの対応が割れていることが朝日新聞が記事にしています。

「涙のムハンマド」載せるか…日本の新聞、判断分かれる
斉藤佑介、吉浜織恵
2015年1月16日05時10分
http://www.asahi.com/articles/ASH1H5KP5H1HUTIL03V.html

 記事によれば、朝日、毎日、読売が不掲載、日経、産経、東京、共同通信が掲載しています。

 大石泰彦・青山学院大教授は「風刺画は市民が社会で感じる漠然とした違和感や疑問を表現するもので、抑圧の体験や歴史から生み出されてきた文化であり知恵だ」として掲載に賛成です。

〈大石泰彦・青山学院大教授(メディア倫理)の話〉

 日本のメディアでは「風刺」が軽んじられ、その評価に一貫性がない。風刺画は市民が社会で感じる漠然とした違和感や疑問を表現するもので、抑圧の体験や歴史から生み出されてきた文化であり知恵だ。ヘイトスピーチとは違う。

 欧州では、多様な表現の自由が守られることで社会秩序が保たれると考えられる。日本では表現の自由は尊重するとしながら、社会秩序を乱してまではどうかと考えるメディアがあり対応が割れている。改めて表現の自由や風刺に対する考え方を明確にしてほしい。

 一方、内藤正典同志社大教授は「風刺画は教徒の誰もが見たくない」「特別号の表紙掲載は見送るのが賢明だ」としています。

内藤正典同志社大教授〈イスラム地域研究〉の話〉

 特別号の表紙掲載は見送るのが賢明だ。ただ、あの絵を掲載すべきかどうかは、あくまで非イスラム世界の議論だ。

 シャルリー・エブド紙は過去に執拗(しつよう)に預言者ムハンマドをからかう絵を載せてきた。挑発であろうがなかろうが、イスラム教徒は一連の事件と経緯を知っている以上、風刺画は教徒の誰もが見たくない。テレビ局の中には都内の教徒に特別号の表紙を見せて取材する局もあったが、無神経だ。イスラムに対するリテラシーがないのであれば、報道は慎重であって欲しい。

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 表現の自由と宗教の自由、どこで折り合いを付けるべきなのか、日本のメディアの対応も割れている大変な難問なわけですが、この一人のイスラム教徒の怒りの記事はこの問題を考えるうえで一読する価値があると思います。

 ハフィントンポストUKの15日付けの記事です。

イスラム教徒として言おう。「言論の自由原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ
投稿日: 2015年01月15日 18時24分 JST 更新: 2015年01月16日 12時00分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/mehdi-hasan/charlie-hebdo_b_6476358.html

 このイスラム教徒の記者は「シャルリー・エブド」のダブルスタンダードを批判しています。

 記事より当該部分を抜粋。

それに、なぜあなたは明白なダブルスタンダードに沈黙を保っているのだろう? 2008年、「シャルリー・エブド」がベテランのフランス人漫画家モーリス・シネを、反ユダヤ的とされる発言を理由に解雇したのはご存知だろうか? デンマークの新聞ユランズ・ポステンは、2005年に予言者の風刺画を掲載したが、キリストを嘲った風刺画は「非難を呼ぶ」として没にしたとされ、また「いかなる理由であれホロコーストの漫画は掲載しない」と堂々と宣言したことにはお気づきだろうか?

 さらに、「教育・雇用・公共生活に蔓延するイスラム教徒差別(フランスは特にひどい)を無視している」と批判します。

イスラム教徒は、どうもキリスト教徒やユダヤ教徒の同胞たちよりも鈍感でなければいけないらしい。背景も重要だ。あなたは私たちに、予言者の風刺画を笑うよう求めながら、ヨーロッパ中のイスラム教徒への中傷や(最近ドイツに行ったことは?)、教育・雇用・公共生活に蔓延するイスラム教徒差別(フランスは特にひどい)を無視している。あなたはイスラム教徒に、一握りの過激派を言論の自由への実在する脅威として非難するよう求めながら、選挙で選ばれた政治指導者たちが言論の自由に遥かに大きな脅威を与えていることからは目を背けている。

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 内藤正典同志社大教授が指摘するように「シャルリー・エブド紙は過去に執拗(しつよう)に預言者ムハンマドをからかう絵を載せてきた」事実、そして「ベテランのフランス人漫画家モーリス・シネを、反ユダヤ的とされる発言を理由に解雇した」事実は、このイスラム教徒の記者が批判するように、イスラム教だけをちゃかしキリスト教ユダヤ教は風刺しないというシャルリー・エブド紙の「明白なダブルスタンダード」と捉えられても仕方がないかもしれません。

 「言論の自由」のもとで、メディアが特定の宗教を風刺することは、その報道姿勢が厳しく問われるということでしょう。

 あの宗教は風刺するがこの宗教は風刺しない、やつの宗教は批判するが自分の信じる宗教は批判しない、もしメディア側にそのような「明白なダブルスタンダード」が存在するとすれば、そのような偏向した非寛容な「言論の自由」には正義はないでしょう。



(木走まさみず)