今日の産経コラムからの一考察〜「間違い自体より、誤りを指摘されることの方に屈辱を感じる」のは何も中国だけではないだろう
●考えさせられる今日の産経コラム〜「中国は外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめれない」は、本当に中国だけの問題か
本日(13日)の産経新聞コラムから・・・
中国東北部の瀋陽市に、「九・一八歴史博物館」という施設がある。中国で、「国恥日」と呼ばれる一九三一年九月十八日の柳条湖事件がきっかけとなった満州事変にちなんだ抗日記念館で、一九九九年に開館した。
▼この博物館を最近訪れた人によれば、内容自体がそもそも問題だが、解説の日本語訳に誤りが多い。「日本の戦犯は中国人民に多大な損失を与えられた」などと主語が入れ替わったものもあるそうだ。瀋陽の日本総領事館に問い合わせると「正しい日本語表記を博物館に提供して以前から指摘しているんですが」とあきれ顔だ。
▼日本から言われたのが悔しくて無視したのか、単なる怠慢だったのかはわからない。ところが先週、この件について中国青年報がこう報じた。「侵略者の犯罪を展示する博物館で、誤りを侵略者側から指摘されるだけでも穴に入りたいほど恥ずかしいことなのに、それを正さず保存している」。
▼さらに「日本人はわずかなこともなおざりにせず、だからこそ戦後、世界第二位の経済大国になった。中国は日本に歴史を忘れるなというだけでなく、まず自らの歴史への居住まいを正さねばならない」などと続ける。
▼さすがに身内に批判されてからは訂正準備に入ったそうだが、中国では間違い自体より、誤りを指摘されることの方に屈辱を感じるらしい。外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティーに欠けるようなのだ。
▼一党独裁の弊なのだろうが、ことはそれで済まない。国際化した重量級のかの国がいったん誤った方向に転がり出すと、修正は並大抵ではないことも物語っている。北京で開催中の全人代で示された国防予算が十八年連続の二ケタ増とは、誤訳どころの話でない。
平成18(2006)年3月13日[月] 産経新聞 産経抄
http://www.sankei.co.jp/news/column.htm
そうですか、中国の「満州事変にちなんだ抗日記念館」である「九・一八歴史博物館」にある日本語訳がおかしい箇所を日本総領事館が問い合わせていたことを、中国青年報が取り上げたのですか。
「侵略者の犯罪を展示する博物館で、誤りを侵略者側から指摘されるだけでも穴に入りたいほど恥ずかしいことなのに、それを正さず保存している」
「日本人はわずかなこともなおざりにせず、だからこそ戦後、世界第二位の経済大国になった。中国は日本に歴史を忘れるなというだけでなく、まず自らの歴史への居住まいを正さねばならない」
中国青年報のこの主張、これはおもしろいですね。
「誤りを侵略者側から指摘されるだけでも穴に入りたいほど恥ずかしい」って、日本領事館を「侵略者側」とした上(この「侵略者側」という表現自体戦後生まれの日本人としてはそうとうステキ(苦笑)なのでありますが)で「日本人はわずかなこともなおざりにせず、だからこそ戦後、世界第二位の経済大国になった」と誉められてしまいました(苦笑
なんだかなあ、「侵略者側」としては照れますなあ(爆
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しかし私がこのコラム一番関心を持ったのは実はここではなく「中国では間違い自体より、誤りを指摘されることの方に屈辱を感じるらしい。外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティーに欠けるようなのだ」と指摘する、産経コラムの他人事モードの箇所であります。
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●世の中正論だらけ、異論だらけでしょ〜人間は外部からの指摘に余り真摯でない生き物なんです。
うーん「誤りを指摘されることの方に屈辱を感じる」のは、これって中国だけじゃないでしょう。
もう人間の持つ特性といっていいんじゃないでしょうか。
このコラムを書いている産経新聞にしたって「外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティー」をしっかり有しているのかははなはだ疑問であります。
しかし、この議論がやっかいなのは、実は相手への批判が自分自身に確実に跳ね返ってくる特殊性を持っているところなのであります。
木走に置き換えれば、そんな産経コラムを取り上げている当「木走日記」だって、しばしば「外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティー」に問題があることは強く自覚しているところであります。
もう一段階層を深くすれば今ここを読まれている読者のみなさんだって、「外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティー」をいつも持ち合わせている人など希有でありましょう。
つまりこういうことです。
うがって言えば「外部からの指摘に余り真摯でない」中国のことを他人事のように述べている「外部からの指摘に余り真摯でない」産経新聞のことを、さらに他人事のように述べている「外部からの指摘に余り真摯でない」木走日記を、「外部からの指摘に余り真摯でない」読者のみなさんが他人事のように読んでいるわけです。(なんのこっちゃ(苦笑))
失礼しました。(汗
ようするに、人間なんてやつはすべからくすべて、主義主張・国籍・人種にはほとんど相関無く、程度の差こそ有れ「外部からの指摘に余り真摯でない」愚かな側面を持っているものなのでしょう。
「中国では間違い自体より、誤りを指摘されることの方に屈辱を感じるらしい。外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティーに欠けるようなのだ」
この文章の主語は、「中国では」でも「韓国では」でも「日本では」でも「朝日新聞では」でも「NASAでは」でも「ライブドアでは」でも「防衛施設庁では」でも「フジサンケイグループでは」でも、そしてもちろん「木走日記では」でも、すべからくすべて成立しちゃうのではないでしょうか。
もちろん組織によって「修正する機能やメンタリティー」に程度の差はあるでしょうし、優秀なガバナンス(統治力)を実現している集団もあるでしょう。
しかしその差(これも考察すれば興味深いのでしょうが)は、今日の議論の本質ではありません。
すべからくすべて普遍的に、人間およびその集団は、外部からの指摘に余り真摯でない側面を持っている点が重要なのであります。
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●メディアも個人も自己の相対化が重要なのだ〜さまざまな意見を相対的に比べて判断する柔軟性
不肖・木走が当ブログでよく展開する論法のひとつに、マスメディアの報道記事、それも正論を振りかざした特定の大新聞の社説に対して反論・批判することがあります。
そこに自分たちの姿勢を顧みることなく白々しく正論を唱えるマスメディアの偽善性を見てしまうと、私はもう、マスメディアよ、お前ら自身「外部からの指摘に余り真摯でない」くせに、よくもこんな他者を批判する正論を書けるなあと、突っ込みたくなるわけです。
で、そうするとコメント欄やリンク・トラバで、木走よ、お前こそ「外部からの指摘に余り真摯でない」くせに、なにえらそうに「メディア批判」しているんだよ、という御指摘をいただくことも少なくありません。
で、さらにそのような批判的なコメントに対する批判コメントも出現したりして、「外部からの指摘に余り真摯でない」くせにメディア批判を批判するな、てな具合です。
もう、なにがなんだか、ブログ管理人もお手上げの、正論だらけ、異論だらけの状態になってしまうこともよくあるのであります(苦笑
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ふう。
これはもう、要するに「99.9%は仮説」の世界です。
以前のエントリーより抜粋。
(前略)
●相対的に物事をみるということ〜あなたの頭も私の頭も仮説だらけ
で、他人とのコミュニケーションにおいて、この本はとても簡単な事実を啓蒙しています。
よく、政治の話や哲学の話で意見がまったく合わないことがあります。
その原因として、同じことについて話しているつもりなのに、実はぜんぜんちがった意味に言葉を使っていたりするわけです。
つまり、話が通じないのは、自分の仮説(常識?)が相手に通じていないということです。また、相手の仮説(常識)を自分が理解していないということでもあるのです。
●わたしの頭のなかは仮説だらけ
●あなたの頭のなかも仮説だらけ
この事実を理解することが重要なのであります。
著者は本書の本文の結語を次の言葉でしめています。
科学的態度というのは、「権威」を鵜呑みにすることではなく、さまざまな意見を相対的に比べて判断する”頭の柔らかさ”なのです。
P.233より抜粋
つまり、所詮あなたの頭も私の頭も仮説だらけなのだから、さまざまな意見を相対的に比べて判断する柔軟性を身につけようね、ってことなんですね。
(後略)
■[書評]あなたの頭も私の頭も仮説だらけ〜「99.9%は仮説」を読んで
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060226
真摯な批判言論はもちろん必要だと思います。
それに対する反論言論も含めてでありますが、言論には言論で対抗する自由も必要だと思います。
しかし、メディアも個人も自己の相対化が重要なのであり、さまざまな意見を相対的に比べて判断する柔軟性、ときに自分自身の意見にも批判的に対峙する冷静な姿勢だけは失わないように心掛けたいものであります。
産経コラムには、今回はささやかに(苦笑)一点だけ反論しておきましょう。
「間違い自体より、誤りを指摘されることの方に屈辱を感じ」、「外部からの指摘を真摯(しんし)に受けとめ、素早く修正する機能やメンタリティーに欠ける」のは何も中国だけではないのだと思いますヨ。
(木走まさみず)