木走日記

場末の時事評論

靖国参拝問題〜大局的見地に立って考える(5)

 以下のエントリーの続きです。

靖国参拝問題〜大局的見地に立って考える
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050521
靖国参拝問題〜大局的見地に立って考える(2)
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050523
靖国参拝問題〜大局的見地に立って考える(3)
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050525
靖国参拝問題〜大局的見地に立って考える(4)
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050527

 当ブログにおいて、靖国参拝問題に関して過去4回にわたりみなさまと考察してまいりました。
 初回は、主に代表的なジャーナリスト(立花隆氏、櫻井よしこ氏)の論説を靖国参拝に対する賛否両論を併記するかたちで検証いたしました。
 二回目は、主に国内マスメディアのプチ偏向報道と国内世論の動向(アンケート結果)、最近の呉儀副首相の会談ドタキャン報道を取り上げました。
 三回目は、主に呉儀副首相の会談ドタキャン騒動における海外メディアの反応と全国紙5紙の社説を比較検証いたしました。
 四回目は、主に国会議事録から参院予算委員会における靖国関連発言を細かく検証してまいりました。変なおまけの検証もありました。(苦笑
 
 その間にも、毎日のようにメディアでは新たな動きが報じられています。 いやあ、正直疲れました。素人が「大局的」に考えるには話題として旬すぎたかも知れません。エントリー内容が事実に追いつかないアリ地獄のようないたちごっこ展開になりそうで少し後悔しております。(汗



●昨日の産経社説〜靖国神社は昔も今もこれからも

 昨日日曜日の産経社説から・・・

■【主張】靖国神社 首相参拝は日本の慣例 戦没者に敬意を払いたい

 今年は戦後六十年の節目の年にあたる。また、日本の国連安保理常任理事国入りの問題もある。こうした中、中国は、ことあるごとに、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題を取り上げて激しく批判する事態が続いてきた。小泉内閣は、中国の内政干渉には動じない覚悟と準備が必要である。改めて首相の靖国参拝の意味を考えてみたい。

≪伝統踏まえた政教分離

 現在、東京や大阪などで小泉首相靖国参拝に反対する訴訟を起こしているグループは、首相の靖国参拝憲法違反と決めつけている。いずれも一審判決で、原告側が敗訴している。首相の靖国参拝違憲としない司法判断が定着したといえる。

 唯一、福岡地裁だけが国に損害賠償を求める原告の請求を棄却しながら、主文と関係のない傍論の中で、首相の靖国参拝違憲とする判断を示した。しかし、傍論には拘束力がない。

 日本では、憲法政教分離規定は政治と宗教の厳格な分離を求めていないとする解釈が、津地鎮祭最高裁大法廷判決(昭和五十二年)で示され、その判例が踏襲されている。

 米国では、大統領が選出されると、その大統領は就任式で、聖書に手を置いて宣誓する。日本でも、歴代首相は毎年一月、伊勢神宮に参拝する。政教分離の原則も、その国の伝統や文化を無視できないからだ。

 首相の靖国参拝も、昭和六十年までは慣例として春秋の例大祭などに行われてきた。それが途絶えたのは、昭和六十年八月十五日の中曽根康弘元首相の公式参拝を、中国が批判してからだ。小泉首相は四年前の平成十三年から、靖国参拝を復活させ、中国の内政干渉を受けない以前の状態に戻った。首相は自信を持って、この靖国参拝の慣例を継続させるべきである。

 中国は「A級戦犯」が靖国神社に合祀されていることを問題視している。いわゆる「A級戦犯」は、東京裁判で裁かれた被告を指す連合国側の呼称である。日本はサンフランシスコ講和条約東京裁判の結果を受け入れたにもかかわらず、その「A級戦犯」を合祀している靖国神社に首相が参拝することを中国は許せないらしい。

 だが、現在の共産党独裁国家の中国は、東京裁判講和条約の当事国ではない。しかも、連合国は「A級戦犯」合祀を問題視していない。

 講和条約で日本は東京裁判の判決を受け入れたが、それは刑の執行や赦免・減刑などの手続きを引き受けたに過ぎない。「南京大虐殺」など事実認定に誤りの多い東京裁判そのものを受け入れたわけではない。講和条約を論拠に、「A級戦犯」合祀を批判する中国の主張は通用しない。

≪「A級戦犯分祀は誤り≫

 日本の一部政治家に、「A級戦犯」を分祀すべきだとする意見もある。日本の神社では、祭神を残したまま別の社に移す「分霊」はあるが、祭神を取り除いて別の社に移すという意味での「分祀」はあり得ないのである。

 靖国神社には、戊辰戦争以降の戦死者ら二百四十六万六千余人の霊がまつられている。「靖国」は「安国」ともいわれ、国の平安を願う意味だ。明治二年の創建時は「東京招魂社」と呼ばれた。「招魂」は日本古来の祖霊信仰に由来し、死者の魂を招きよせる儀式である。

 終戦後、靖国神社国家神道の中心とみなすGHQ(連合国軍総司令部)は、その焼却を計画したとされる。だが、駐日ローマ教皇庁代表だったイエズス会ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある」とマッカーサー元帥に進言し、靖国神社は焼失を免れた。

 戦死者を慰霊する儀式は、世界各国で行われている。米国では、五月末の戦没将兵記念日や十一月の復員軍人記念日に、大統領や閣僚がワシントン近郊のアーリントン墓地に赴き、戦没者らをたたえる演説を行う。フランスでは、第一次大戦の休戦記念日の十一月十一日と第二次大戦の戦勝記念日の五月八日に、大統領が凱旋門の下の無名戦士の墓に献花する。

 日本では、これにあたる重要な儀式が、首相の靖国神社参拝である。靖国神社は昔も今もこれからも、日本の戦没者慰霊の中心施設なのだ。

平成17(2005)年5月29日[日] 産経新聞社説
http://www.sankei.co.jp/news/editoria.htm

 これは産経の本気の社説ですね。全く余談ですが、ちょっとリテラシーしますと、メディアが強く主張したい内容を社説で展開するときは、即時性が問われなければ、もっとも読まれる率の高い日曜日の社説として載せます。さらに、普段なら2つ載せることが多い社説を一本に絞るときも力が入っているときです。今回の場合その2つともに当てはまった日曜日に一本に絞って論説している、産経新聞渾身(?)の主張なのであります。

 社説の結語、「日本では、これにあたる重要な儀式が、首相の靖国神社参拝である。靖国神社は昔も今もこれからも、日本の戦没者慰霊の中心施設なのだ。」

 メディアの社説の結語としてはいかがなものかと思うくらい、他人の意見に耳を傾ける心の余裕はないようなある種の覚悟のようなものまで感じられますです。(汗



●昨日のJANJAN記事〜李下に冠を正さず

 一方、私が市民記者登録させて頂いているインターネット新聞JANJANの記事から・・・

李下に冠を正さず――靖国参拝に思う 2005/05/29

 中国の副首相が小泉総理との約束を土壇場でキャンセルしたことは、日本側が論及をやめる態度を表明したことで一件落着しそうだが、問題の発端となった総理の靖国参拝問題について一言。

 中国侵略が実際にあったことは日本政府も認めており、その非についても謝罪している。後はそれを行動で示せ、というのが中国側の言い分だが、小泉総理は「非戦の誓い」のどこが悪い、内政干渉だ、などと馬耳東風で、中国の言うことを「理解できない」と首をかしげている。

 しかし、一国の政治指導者にしては視野狭窄ではないか。「非戦の誓い」をいくら繰り返しても、そこにA級戦犯が合祀されている以上、中国側にとっては、それが「好戦の誓い」に「見える」のだ。総理やその周辺は「根気良く説明すれば分ってもらえる」というが、そう「見える」ものは、いくら説明しても通じないだろう。

 侵略された相手にしてみれば、理屈ぬきでそれが不快なのだ。

 こんな例は個人の日常生活でもよくあることで、嫌なものは嫌なのだ。だから、他人の嫌がることはやめるべきであろう。そうしたからといって、総理の値打ちが落ちるわけではない。「罪を憎んで人を憎まずとは孔子の言葉だ」と国会答弁しているが、「李下に冠を正さず」という諺も中国からきたではないか。

 内政干渉だ、との言い分にも無理感がつきまとう。中国侵略を心底から内省するのなら、靖国参拝が自国内だけの問題ではないことが分るはずだ。自国民を虐殺した張本人を祀る神社に頭を下げることに抗議することがなぜ内政干渉なのか。国際関係とはそんなものではあるまい。

 この際、靖国参拝をやめてみてはどうか。そんなことをすれば「教科書」「尖閣列島」と次々に難癖をつけてくる、という議論があるが、それでもいいではないか。中国の真意がそこで透けて見える。

(大窪興亜)

http://www.janjan.jp/government/0505/0505277549/1.php
インターネット新聞JANJAN

 うーん、産経社説とは180度反対のご意見ではありますが、JANJANらしい(?)リベラルな論説であります。
 「侵略された相手にしてみれば、理屈ぬきでそれが不快なのだ。」というご指摘はその通りかもしれませんが、「李下に冠を正さず」という諺も中国からきたのもその通りかもしれませんが・・・



靖国参拝問題はまさに日本人自身の問題

 産経社説もJANJAN記事も一応併記いたしましたが、今回は内容の検証をするつもりはありません。なぜって、この容易には埋まりそうにない両者の言い分(しかも双方ともそうとう意固地になってきてるような感があります)には、入り込む隙があまりないような気がしてきました。
 いやあ、しつこさに定評(?)のある不肖・木走をもってしても、ここまで毎日いろいろなところで賛成派の主張と反対派の主張を繰り返し拝読していると、もはや脱力なのであります。(苦笑

 一回目にエントリーで記した私の考え方に戻ってみます。

 現段階での私のスタンスは、靖国問題は個人的宗教観の問題であるから個人個人の自由意志で参拝するも参拝しないも決めればよく他者が干渉する問題ではないと思っています。

 しかしながら、中国・韓国だけではなく、欧米などの海外世論の動向には日本として冷静かつしっかり分析しながら日本のイメージをUPするようなしなやかな外交戦略をとってほしいとも願っています。

 したがってこの問題をどう対応するのがベストなのかは、当ブログとしての結論を有してはいません。

 南京大虐殺の問題を考察したときも事実かどうかの検証作業が極めて困難でありましたが、そもそも個人でできる情報収集には限界があります。

 そこで、今回の靖国参拝問題では、広く読者のみなさまの情報提供とご意見をうかがいたいと思っています。

 みなさまの靖国参拝問題に関するご意見をうかがいたいです。

 一素人のブロガーが無謀にも挑んだ「靖国参拝問題に対する大局的考察」なのでありますが、一週間かけて木走なりに悟ったことがあります。

 靖国参拝問題はまさに日本人対日本人、日本人自身の問題である、ということです。

 私は、本来個人の宗教観とかは個人個人の自由意志であり、参拝するも参拝しないも個人が決めればよく他者が干渉する問題ではないという認識でおりました。ただ、海外世論の動向を考慮すれば、やはり参拝は中止すべきであるのではともかんがえておりました。
 しかし賛成派・反対派の各意見をじっくり拝読するとなかなか説得力のある、特に日本国首相という地位にある人間が靖国参拝することの意味(違憲性も含めて)は、いろいろな意味でやはり考えさせられるわけです。

 (以下続く)



●緊急エントリーいたします。 2005/05/30 12:15

 すみません、今確認したのですが、27日のコメント欄が満杯で書き込みできなくなっているようです。
 とりあえず、エントリー記事として作成途中でしたが新しいエントリーをしておきます。
 (今日午後しかるべきタイミングで更新いたします。)(汗

 *すみません。続きは別エントリーとさせていただきました。

<テキスト修正履歴>
2005.05.31 12:40 更新が日をまたいでしまいましたので一部記述を変更しました。

(木走まさみず)