木走日記

場末の時事評論

「霧社事件」と「高砂義勇兵」と「靖国参拝」

kibashiri2005-04-11


 当ブログとして、ここの2回ほど台湾問題をとりあげてきたわけですが、今日もしつこく台湾についてあれこれと考えてみたいのです。

 一昨日、台湾原住民について調べてみたりしたのですが、コメント欄でLL様から貴重な情報とともに、台湾原住民に関して勉強するなら「霧社事件高砂義勇兵についてもお調べを」とありがたいご助言をいただきました。

 まずは「霧社事件」から。

霧社事件

 1930年(昭和5年)10月27日、台湾中央部の山地「霧社」で、多数の原住民(いわゆる「高砂族」、当時日本人は 「蕃人」「蕃族」と呼んでいた)が蜂起した。参加したのは、霧社分室管内の「霧社蕃」11社(部落)の うち、マヘボ社、ボアルン社、ホーゴー社、ロードフ社、タロワン社、スーク社の6社を中心とする男たち約300名であった。当日は霧社公学校で、恒例の公 学校・各蕃童教育所・小学校の連合運動会が開かれる日だった。そのため霧社の人口はかなりふくれあがっていた。蜂起した原住民は、その会場を襲撃するとと もに、霧社分室をはじめ、学校・郵便局・各職員宿舎・民家および分室を中心とする付近の駐在所12ヶ所を襲撃して、日本人(いわゆる「内地人」)134 名、台湾人(当時は「本島人」と呼ばれていた)2名、あわせて136名を殺戮した。それとともに駐在所の多くを焼き払い、銃器180挺、弾薬約2万 3000発を奪い、ところどころに保塁を築いて、日本側の反撃に備えた。

 事件勃発当時、霧社管内の在住者と生死者は次のとおりであった。

   在住者 死亡者 生存者
内地人 227  134  93*
台湾人 142   2  140

*負傷後死亡2名、避難中罹病死1名、重症6名、軽症12名
 台湾人死亡者2名は、ひとりは日本の着物を着ていたためにまちがって殺された9歳の少女であり、もうひとりは流れ弾に当たって死んだ者だという。この生死者の数値からみても、霧社事件が内地人/日本に抵抗しての蜂起であったことは明らかであった。
 日本人を対象とする原住民蜂起でありながら、日本側は事件の原因を、原住民が野蛮で、単純で、蒙昧な点にあるとして、突発的に起こった事件として印象づけようとした。
 事件勃発の知らせを受けた台中州では、ただちに警察隊を現場に急行させた。事態を重くみた総督府でも、他州の警察隊の応援を命じ、警察隊支援のため軍 部に対して飛行機ならびに軍隊の出動を要請した。当局では、事件が長期化し拡大化することによって、台湾島内の治安悪化、中国大陸の反日運動への波及、さ らに日本の政界に与える波紋等を恐れたのである。
 事件発生後まる2日で霧社奪還に成功するや、その翌日(30日)、軍司令部は「邦国ノ施政ニ反逆スル兇蕃を殲滅スベシ」という討伐令を発した。これを 境にして、出動以来もっぱら警察隊の支援に任じていた軍隊が、みずから第一線に立つことになった。「鎮圧」は「戦闘」という積極的行動にその姿を変えた。 霧社一帯に大量の兵力と武器弾薬が投入された。かくして反抗原住民対策の主導権は、警察隊の手から軍隊の掌握するところとなり、徹底した討伐が進められて いった。日本軍は「味方蕃」を使役し、山砲から飛行機まで投入して、反抗原住民をマヘボ岩窟に追いつめて、連日集中攻撃を加えた(最近の研究では、日本軍 は霧社事件鎮圧の過程で毒ガスを使用したとされている)。
  いっぽう反抗原住民に投降を呼びかける工作もおこなった。投降勧告のビラ6000枚を空中から散布し、その勧告にしたがって約500名が投降した。
  霧社事件は二ヶ月にわたる長期戦によりいちおう終息した。事件が一段落したあと、抵抗原住民の人口は1,236名から514名と、半減した。警察隊や軍隊 との戦闘で死亡した者もいるが、「味方蕃」と呼ばれた同じ原住民によって殺された者もいる。犠牲者のなかには450名を越す自殺者もいたという。
  衝撃的な事件だけに、激しい報道競争が展開された。ニュース映画も撮られた。報道関係者に対しては電報、郵便、写真、記事などすべて検閲されたが、報道された情報量は多かった。
 日本側に投降した反抗原住民514名は、「保護蕃」と称されて、シーパウ方面、ロードフ方面にそれぞれ収容された。収容所は木柵、鉄条網、掩保に囲ま れていた。霧社分室管内の警察官・警手の数は、事件当時86名だったのが、事件後の1931年4月には4倍強配置されていた。ところが同年4月25日、保 護蕃は突然タウツア蕃230名あまりの襲撃を受けた。これによって保護蕃は、次のように激減した。

収容箇所 事件前人数 死亡者 行方不明 生存者
ロードフ  195    63    6    126
シーパウ  319    147   −    172
  計   514    210   6    298

 保護蕃の死亡者の多さに対して、タウツア蕃の戦死者はわずか1名であった。  「第二霧社事件」と言われるこの保護蕃襲撃事件は、江川博通『昭和の大惨劇・霧社事件』(私刊本、1970年7月)の中ではじめて、当時タウツア駐在所 勤務の一警察官の手紙から、これが山地警察官の煽動によるものだということが立証されるにいたった。「味方蕃」に貸与してあった銃器弾薬をスムーズに回収 するためには彼らに報復の機会を与える必要から、警察官によって仕組まれた事件だったのである。
 この保護蕃襲撃事件を契機にして、保護蕃に対して移住計画が急速に進められ、5月6日、一部残留者を除く約300名の川中島強制移住が敢行されたので あった。かつて反抗原住民が所有していた土地は官有となり、その一部分を「味方蕃」だったタウツア・トロック両蕃に分与して彼らの半数300名近くをこの 地に移住させた。難を逃れて下山した台湾人には再び霧社に戻ることが許されなかった。
 こうして、霧社事件は霧社の地から消滅がはかられ、また総督府の台湾統治史からも消滅されていくのだった。

(後略)

日台交流センター 霧社事件 解説 河原 功
http://www.koryu.or.jp/center/ez3_contents.nsf/0/9a4ea62298efbb7749256eba003c5f66?OpenDocument

 霧社事件に関してはいろいろなサイトで取り上げているのですが、私が見たところ、上記の説明がまあ比較的中立的に説明されていてよろしいかなと思いました。

 まず、やはり当然でしょうが統治者日本が必ずしも台湾原住民に好かれていたわけじゃないことが良く理解できました。 まあ、霧社事件自体は台湾における原住民の反乱なわけですが、これだけ内地人ばかり殺戮したということは、それなりの恨みを買っていたのでしょう。

 で、興味深いのはタウツア蕃という別グループが起こした「第二霧社事件」と言われる保護蕃襲撃事件であります。 どうも、同じ原住民同士でも、敵対関係というか統治者日本に対しての距離感がことなるようでありますね。また、日本側もそれを利用しているふしがあります。

 うーむ、勉強になりました。このような経験から現在までも反日的な原住民の方々がいらっしゃるのも無理ないことなのですね。

 で、次に「高砂義勇兵」であります。これも調べてみると2チャンネルから本物(?)右翼サイトまで、いろいろなところで論じられているのですが、木走的には以下のサイトが一番しっくりきました。
 少し長いですがとてもわかりやすくまとめてあるので引用してみます。

高砂義勇兵

高砂義勇兵」慰霊碑"撤去"の危機
太平洋戦争に「日本兵」として出征した台湾先住民出身の「高砂義勇兵」の戦没者を祭る慰霊碑に、"撤去"の危機が迫っている。
慰霊碑の敷地を提供していた台北郊外の観光会社が、昨年の新型肺炎(SARS)流行による日本人観光客激減で倒産、月内にも土地を「更地」にして売却する意向を固めたためだ。
地元関係者は碑の移設を検討しているが、五百万台湾元(約千六百万円)と見積もられる移設費用の捻出(ねんしゅつ)に頭を抱えている。

産経新聞7月4日
http://www.sankei.co.jp/event/takasago/0704.html

最近のニュースで高砂義勇兵の慰霊碑が今にも撤去されるかもしれない状況にあることを知りました。
高砂族とは台湾の原住民族の総称です。
台湾が日本の領有だった時代、高砂族は志願し、「日本兵」として東南アジアに出征しました。
不慣れなジャングル戦に苦しめられていた日本軍を、山岳民族であり、ジャングルでの生活に長けた高砂族は幾度も救ったそうです。

勇猛、忠実で知られた高砂族義勇兵にはこんな感動的なエピソードがあります。

「・・・あの墓には、Bという高砂義勇隊員が眠っているのです。
ニューギニアの作戦の当初から、 われわれはBとともに戦ってきました。食料のない日が何日も続きました。
ある日、Bはずっと後方の兵站基地にさがって、食料を運ぶことになりました。 ところが、その次にBに出会った時には、Bは死んでいました。
五十キロの米をかついだまま、 Bはジャングルの中で飢え死にしていたのです。背中の米には一指もつけずに・・・・・・」

高砂族に捧げる/中央公論社

高砂族と隼人
日本統治時代、タイヤル族ルカイ族アミ族パイワン族などオーストロネシア語族の9つの原住民族を総称して高砂族と名付けられました。
主に山岳地帯に住み、勇猛な性質と、首狩りの習俗を持つことで恐れられていました。
各民族の言語は言語学的に大きな隔たりがあるため意志の疎通は不可能です。
そのため戦前に日本の教育を受けた世代の共通言語は今でも日本語です。

高砂族が属するオーストロネシア語族とは太平洋に散らばる島々で話されている諸言語です。
かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていました。
最近になって高砂族の諸言語が、マレー・ポリネシア語族と近似関係にあることが判明し、語族の地域を拡大し、オーストロネシア語族(南島語族[南(Austro)の島(nesia)])と呼び方が変わりました。

オーストロネシア語族に属する言語は非常に広範囲です。
西はアフリカ大陸の南東に位置するマダガスカル島から東はモアイで有名なイースター島まで、北はハワイ諸島から南はニュージーランドまで分布しています。

その中で台湾の高砂族の諸言語は、言語学的にオーストロネシア語族の中でもっとも古い形を留めています。
オーストロネシア語の故郷は中国南部または東南アジアとされており、台湾にオーストロネシア語の古い形が残されていることから、オーストロネシア語族の先祖はまず台湾に渡り、そこから各地へ広がったのではないかと考えられています。
航海に長けたオーストロネシア語族の先祖は季節風などを利用して各地へ分散し、4世紀頃にはイースター島に、5世紀にはマダガスカル島に到達しました。

6世紀初めに書かれた記紀古事記日本書紀)には、九州南部に勢力を持っていた隼人と呼ばれる種族について書かれています。
隼人はインドネシアポリネシアの民族と類似する点が見られることから、黒潮に乗って海を渡って来たのではないかと考えられています。
例をあげると、勇猛で知られた隼人の盾に描かれた逆S字の文様は、インドネシアの山岳地帯にある高床式住居の彩色彫刻の文様と酷似しており、盾の形もよく似ています。
また、隼人の顔面への入墨の記述は、高砂族に残る入墨の風習に似通っています。

記紀に書かれた山幸彦と海幸彦の兄弟の物語で、失われた釣り針を求めて海の向こうにある国へ探しに行くくだりはインドネシアミクロネシアの諸島に伝えられている物語とそっくりです。
記紀では、隼人は海幸彦(兄)の子孫であり、天皇家は山幸彦(弟)の子孫であると書いています。
物語は古くから海洋民族が日本に居住していたことを伝えており、日本もこの海洋国家群のひとつであったことがわかります。

日本統治時代
歴史は下って1895年。
台湾は清から割譲され、日本領土に組み込まれ、日本による台湾統治(1895〜1945年)が始まります。
当事の台湾には、漢民族高砂族高砂族のなかで漢民族に同化した平埔族(へいほぞく)がいました。
日本政府は台湾に対して近代化と教育を柱に台湾統治を推し進めます。
鉄道、道路、下水道建設、産業振興などの近代化政策は、のちの工業国としてとの足がかりになります。
西欧では、宗主国に対して反抗を起こさないよう愚民政策をとるのが一般的でしたが、日本は台湾を沖縄や北海道などと同じと考え、初等教育の普及に力を入れ、日本国民同胞としての皇民化教育を行います。
この結果、日本統治時代の就学率は最高で92%にまでに達しています。
なお、400年もの間オランダの植民地であったインドネシアではわずか3%でした。
現在のラオスは77%です

当然のことながら、台湾に突如現れた外来政権への抵抗は激しいものがありました。
台湾に住んでいた漢人高砂族は帰順を拒み、独立運動や抵抗運動を各地で起こしました。
反乱と鎮圧が幾度なくとも繰り返され、漢人が恭順を示すようになってもなお、高砂族は遅くまで抵抗運動を続けました。
無数の犠牲者を出しながら、徐々に平定され、時の経過ともに高砂族は日本国民として同化していきます。

高砂義勇兵
1941年、太平洋戦争突入。
翌1942年、ジャングルでの密林戦に悩まされていた日本軍は、山岳地帯で生活し、森に詳しい高砂族の力に着目します。
当時はまだ徴兵制度も志願兵制度もありませんでした。
高砂族を対象に志願兵を募ると、募集をはるかに上回る志願者が殺到しました。
彼らは高砂義勇隊として戦地に赴きます。

森に暮らす彼らにとってジャングルは庭のようなものです。
卓越した身体能力に、ジャングルの中で生き抜くための動植物の知識。同じオーストロネシア語圏である現地住民とのコミュニケーション能力。
そして何よりも生来の勇猛さと死をも恐れない勇敢さで目覚しい成果をあげます。

しかし、その勇敢さゆえに、戦死者も多く、4000人が出征して、3000人が戻ることがなかったと言われています。

1945年、日本ポツダム宣言受託。台湾「放棄」
「日本人」として戦った彼らの戦後は悲劇でした。
日本人は去り、大陸から国民党がやってきます。
日本国籍中華民国国籍となります。
国民党による統治は、反日政策が採られたため、日本のものを持っていることさえも禁じられました。
日本人として当然受けられるはずだった軍人恩給や補償も、国籍を失ったため何の手当てもありませんでした。
さらに1972年に、日本が中国共産党率いる中華人民共和国との国交を樹立したため、中華民国の台湾と断交になり日台間は疎遠になります。

最後の日本兵
1974年、最後の日本兵帰還。
横田伍長がグアム島で「発見」されたのに次いで1974年、小野田少尉がフィリピン、ルバング島で「発見」され大きなニュースとなりました。
実はこのすぐ後にもうひとり日本兵インドネシア、モロタイ島で「発見」されています。
高砂族アミ族)出身の中村輝夫(民族名:スニヨン)氏です。
敗戦を知らないまま、ジャングルに潜み30年の月日を孤独に耐えながら生き抜き、故郷の台湾に生還します。
台湾に戻って知ったのは、自分の名前が「李光輝」に変わっていること、高砂族出身であるために自分はもう日本人ではなくなってしまったことでした。
当時の日本は台湾と断交状態になった微妙な時期で、日本政府は日本人として長い間戦いを続けてきた彼を、「日本人ではない」ことを理由に冷遇します。
また当時の台湾は激しい反日政策のため、生まれ育った頃とはまったく違う価値観を押し付けられました。
30年間、信じ守り続けてきたものが崩れさり、帰国してわずか4年後、失意の中で亡くなります。

慰霊碑建立
1992年、慰霊碑建立。
タイヤル族の女性頭目であった周麗梅(日本名:秋野愛子)さんが、大東亜戦争で戦死した高砂族兵士の慰霊のため「台湾高砂義勇隊戦没者英霊記念碑」を建立します。
長い歳月をかけ、多額の借金をしてまで、慰霊事業と記念碑の維持に力を注ぎます。

2004年、慰霊碑撤去の危機。
2003年に東アジアに猛威を振るったSARSがこの慰霊碑の存続に思わぬ影響を与えます。
SARSで日本人観光客は激減、慰霊碑の土地を提供してきた観光会社は立ち行かなくなり倒産します。
そしてさらに慰霊碑を守ってきた周麗梅さんが亡くなったことで、慰霊碑は今、撤去を迫られています。

歴史に翻弄されてきた高砂族
日本人の記憶からはその存在が忘れ去られようとしていますが、高砂義勇隊の生還者や遺族たちは、日本に賠償や謝罪を求めることもなく、志願し日本人として戦ったことを今なお誇りとしています。

かつて日本人として日本のために命をかけた同胞、高砂族の記憶を風化させないためにこの慰霊碑が存続することを願うばかりです。

『クロマニヨン』
http://www.cromagnon.net/whatsnew/topics/takasago.htm

 いやあ、勉強不足でありました。小野田さんの後に発見された旧日本兵中村さんが台湾人であったのはかすかに記憶しておりましたが、彼が高砂族アミ族)出身であったのは知りませんでした。

 こうして考えてみると、台湾原住民の方々は、まさに近代の歴史に翻弄されてきたわけですね。単純に親日とか反日などのレッテルを張るだけでは、とても割り切れません。

 台湾某政党の靖国神社への参拝問題でも国論を2分する騒ぎになっているようですが、JANJANの私が尊敬する中国人記者が、本日とてもクリアな記事を載せています。

台湾政党幹部が靖国参拝 分れる島内世論 2005/04/11

 台湾の与党連立の一角をなす独立派政党・台湾団結聯盟の蘇進強主席らが4日、靖国神社を参拝した。台湾の政党トップが靖国神社を参拝したのは初めて。

 李登輝前総統を後ろ盾とする台湾団結聯盟(台聯)は2001年に発足し、「台湾優先」「台湾精神」などを党の基本要綱に掲げている。

 靖国神社には旧日本軍兵士、軍属として死亡した約2万8000人の台湾人が合祀されており、中には李登輝前総統の兄も含まれている。今回の参拝について、台聯は「(台湾出身者を含め)戦争で亡くなられた英霊に敬意を表すためにきた」「(靖国参拝に対する中国政府の批判は)台湾の立場を代表していない。いつまでも恨みを持ち続けることは納得できない」などと説明している(共同通信・4月4日)。

 中国や韓国などから靖国神社参拝に強い批判を受けている小泉首相にとって、台湾政党幹部の参拝は“援護射撃”となりそうだった。

 が、台聯の靖国参拝が台湾内で大きな議論を巻き起こしている。「親日的な存在」と見なされる台湾では、靖国問題をめぐって、台日関係にある曖昧な部分が浮かび上がっている

 野党から非難

 中国と韓国は日本が国際安全における役割を強化する動きに警戒を示しているのに対し、台湾は日本が「正常国家」になることを支持する姿勢を示している。小泉首相靖国神社参拝に対しても、民進党政権が「未来志向で対応する」とアピールし、中韓とは異なる対応をとってきた。

 しかし、今回の台湾政党幹部の靖国参拝に対し、台湾島内の反発が強かった。

 日本統治時代に抗日蜂起事件を起こした過去をもつ原住民や、日本政府を相手に訴訟を起こしている台湾籍元慰安婦らは、台聯の行為を「裏切り」とし、抗議活動を展開している。参拝した台聯一行が5日、台湾に戻ったところ空港で抗議者らに生卵を投げつけられた一幕もあった。

 最大野党である国民党側は5日、「靖国神社は日本軍国主義と象徴であり、政党の代表が参拝すべき場所ではない」と非難した。同党出身の馬英九台北市長は、台連側に謝罪を求めた。

 第2野党・親民党の宋楚瑜主席も同日、「台湾人兵士は戦争に参加することを自ら志願したものではない。植民統治時代の日本のために戦っただけで、台湾のために戦ったのではない。(台連の参拝は)台湾人民の尊厳を踏みにじった」と批判した。
 
 与党・民進党は批判勢力と与党連合への配慮の板挟みになっている。民進党の頼清徳幹事長は5日、「蘇進強氏は政党のリーダーであり、特に日本と台湾の特殊な関係を考慮して言動は慎むべきだ」と述べるにとどまった。

 各紙の論調に差が

 台湾の主要3紙『中国時報』・『聯合報』・『自由時報』は、いずれも社説・評論で台聯の靖国参拝を取り上げたが、論調に差がある。

 『聯合報』(4月7日付)は「“反中”から“媚日”へ 見失われる台湾の主体性」という見出しで、「“反中”を大義で、日本支配時代を正当化するのは、論理の破綻である。台湾の尊厳を犠牲にして日本に台湾防衛への協力を交換しては、台湾の主体性を見失うことになる」と論じた。

 『中国時報』(4月7日付)は「台聯の靖国参拝に対して、台湾島内の批判は中国大陸の反応よりも厳しいものだ」と指摘した。台湾出身者の合祀取り下げを求める声を伝えた。

 独立志向の強い「自由時報」は、「北京政府と同じ目線で靖国問題を見るべきでない。合祀されているのは同胞であり、台湾人に参拝の自由がある」「現在、台湾の最大の脅威の軍覇主義は中国の方だ」などと台聯に声援を送った(『自由時報』4月7日付:「旧軍国主義と新軍覇主義」)。

 一方、『中国時報』の世論調査(10日現在)では、台聯の靖国参拝が適切かという質問に対し、「適切でない」は89.9%、「適切」は7.5%、「どちらでもいい」は2.4%となっている。
http://poll.chinatimes.com/chinatimes/main.htm

 多様な日本観

 今回の論争では、直接日本にむける反日感情ではなく、台湾内部で歴史認識を整理しようとする動きに見える。台湾輔仁大学日本語学部主任・何思慎教授の署名記事「仇日、親日……日本研究が欠席」の分析によれば、台湾における日本観が一枚岩ではなく、変化と多様性に富んでいる。
http://udn.com/NEWS/OPINION/X1/2605524.shtml

 戦後の歴史の流れの中で、台湾には2種の日本観が存在しており、お互いに対立している。すなわち、『侵略された者の日本観(日的)』と「殖民化された者の日本観(親日的)」である。国民党政権時代は、戦争の傷跡から、「侵略された者」の角度で日本を見るという姿勢が強く、世論と文化などでは反日意識があった。また、米国中心の外交政策をとっており、日本との関係を定義しようとしなかった。

 国民党の独裁政権が崩れ、李登輝氏が政権をとってから、李氏個人と日本の繋がりから、台湾政府と日本の距離が急速に縮まった。また、1990年代後半以降に流入した日本大衆文化の影響で、「哈日族(ハーリーズ)」と呼ばれる若者を中心に、日本に対する親近感が高まってきた。しかしながら、台湾学界において長い間、日本研究が欠席しており、日本について系統的な思考・研究が整理できていない。

 何思慎教授は、「親日も仇日も正常な日本観ではない。今回の靖国参拝が呼んだ論争では、台湾というコミュニティが多様で複雑な日本観を持っていることが表に浮かび上がってきた」と指摘し、「台日関係を整理できるように日本総合研究が急務だ」と呼びかけた。

(曾理)
インターネット新聞JANJANhttp://www.janjan.jp/media/0504/0504070457/1.php

 余談ですがこの曾理記者は、不肖・木走と同じJANJAN市民記者でありまして、日本に留学中の中国人女性であります。しかし、彼女の記事には、いつもとても感心させられています。
 私より日本語上手であるのも感心するのですが、なんというか聡明でイデオロギーにそまっていなくて、それでいてマスメディアが取り上げないようなするどいアングルから中国関連情報を提供してくれます。中国語がわからない木走にとってとっても貴重な中国関係情報源なのであります。

 それはさておき、なるほど、「台湾というコミュニティが多様で複雑な日本観を持っている」のがよく理解できました。

 どうなんでしょう、朝鮮半島や中国本土で行われている反日教育および反日デモなどの動きを見るに付け、複雑な日本観かも知れませんが台湾のほうが健全に見えてしまいます。

 知れば知るほど、台湾という国は興味深いです。



(木走まさみず)