木走日記

場末の時事評論

[メディア]ネットリテラシー考(2)〜構造相転移したネットメディアの優れた特性

 一昨日エントリーした以下のレポートの続編です。

ネットリテラシー考(1)〜メディアに構造相転移が起こっている
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050408

 前編では、毎日新聞記事への反論の形で既存メディア側からのネットメディア批判に対して2点にしぼり論説を試みてきました。

 ①ネットリテラシーの確立は能動的に達成できる
 ②メディアで構造相転移(Structural phase transition)が起きつつある


●構造相転移が起きている以上、リテラシーの確立は能動的に達成するしかない
 さて、ネットがメディアとして認知されるかどうかの将来の予測をする際には、テレビや新聞などの既存メディアとネットメディアの融合の技術的方法論、さらにはネットメディアは経済的商業的側面において新しいビジネスモデルを確立できるのかなど、議論されるべきテーマはじつに多岐に渡るのであります。

 しかし、今起きている現象を表層的に捉えるだけでは正しく将来の予測をすることは不可能であり、たとえば先の毎日新聞の記事のように、匿名性や信頼性の低い情報の氾濫がもたらす犯罪への危惧や若年層への悪影響などは、表面的にはネットの持つ特性の暗部を確かに捉えてはいますが、しかし深層で起きていることを把握していないために、その対処療法も的外れなものに終始してしまうわけです。

 なんらかのリテラシー教育が必要であることまで全否定するものではないのですが、今ネットで起きていることは不可逆的構造相転移ともいえる変化であり、世界規模で情報発信が不特定多数の人々に爆発的に解放されつつあるわけで、一部業界が自主規制すれば済んでいた「構造相転移」前の手法で論じても全く意味をなさないのです。特定の政府が規制できるような性質のものではありません。

 私が「ネットリテラシーの確立は能動的に達成できる」と論じたのは、その深層で起きている変化を考えた場合、他の規制的な対処は技術的にも不可能であるという強い思いからです。ネットリテラシーの確立は能動的に達成するしか方法はないと考えます。

 国境を越え世界的規模で爆発的に広まりつつある無数の情報発信者に対し、規制的なネットリテラシー教育を施すような机上の空論は、まったく幻想であり非現実的であると言わざるをえません。


●興味深い水越助教授のインタビュー記事

 「メディアで構造相転移(Structural phase transition)が起きつつある」についてもう少し深く考察してみたいと思います。

 先ほども述べましたが、ネットメディアの将来の可能性を論じるには、今起きている現象をしっかりと分析しておく必要があるのであり、またその上でこれからのネットリテラシーを考察しなければ意味のない机上の空論になってしまいます

 さて、ここでは一昨日の毎日新聞水越伸・東大情報学環助教授のインタビュー記事を取り上げてみます。

ネット時代のジャーナリズム:新聞は大衆からステータスに
インタビューに答える水越助教

 近著、「メディア・ビオトープ」(紀伊国屋書店)で、現在日本のメディア事情を生態系になぞらえ、手製のイラスト付きで分析した水越伸・東大情報学環助教授(42)。今回はメディア研究者の立場から、ネット時代を迎えてジャーナリズムの今後の方向性を聞いてみた。【柴沼 均】(◆が水越助教授の発言)

−−堀江貴文ライブドア社長の行動が批判されているが。

 ◆ 日本的商風土にそぐわないといえるが、日本的風土が良いかの議論は抜け落ちている。私は彼のやったことがおかしいとは思わない。確かに洗練されていない坊やのようなところがあり、発言もぶれている。それでも彼のやったことに比べて、メディアの商風土はおかしい。放送局の第三者株名義問題も、業界にとっては大変なことで、違反もしていたのにナアナアでこれまですましていた。

−−今の日本のメディアをどう思うか。

 ◆ 森林に例えれば全国紙、東京キー局、NHKは人工的に植えられた杉の巨木のようなもの。他の植物がほとんど生えておらず、森林としてのバランスがとれていない。それにより東京一極集中の弊害などが出ている。私は金沢出身だが、金沢のイメージは「古都」。東京の旅行番組のイメージで、実際に今生活している人たちの様子は反映されていない。金沢のイメージはまだいいが、東京のメディアが悪いイメージを伝えている地域もある。東京中心にイメージが生産されているから、地方が疲弊し、文化が均一してしまう。視聴者、読者から見ても、メディアから張られるイメージに違和感を感じ、不信感が生まれてしまう。

 メディアと地域は循環型であるべきだ。メディアの情報を受けて、自分たちのコミュニケーションを促し、またメディアに循環する。受け手と送り手が角に離れると相互不信が進んで機能できなくなる。読者と共同体を作らなければダメだ。

−−ではどうすれば良いのか。

 ◆ 2つ考えるべきことがある。一つの視点は外国ではどうなのか。欧米では地方の新聞社で活躍した人がニューヨーク・タイムズなどの大手メディアに入る。日本ではまだまだジャーナリストの流動性が少ない。

 もう一つの視点はネットメディア、市民メディアだ。身近なところをカバーできるメディアの多様性がなければならない。全国ニュースをカバーするメディアも必要だが、杉の木立からもれる情報をキャッチする多様なメディアがなければ。ネットでは誹謗中傷などダークサイドの問題があるが、メディアと市民が一緒になって、ネットメディアをどのようにしていくべきか考えなければならない。権力に対する砲撃を既存メディアとブログなどネットメディアが連携するなどやり方はある。

 ジャーナリズムの階層は4種類あると思う。(1)ルポルタージュのようなプロが長文で突っ込んで取材したもの(2)新聞・NHKなどの全国ニュース(3)市民メディアやオルタナティブメディア(主流ではないメディア)(4)地域のコミュニケーション活動。3、4をカバーするジャーナリズムがこれまでなかった。新聞も最初は錦絵だった。ラジオもテレビも最初はジャーナリズムに向かないといわれていた。ネットがメディアに向かないというわけはないだろう。

−−既存メディアがネットに殺されてしまうとの議論もあるが。

 ◆ 経営的にいうと、一般のメーカーも同じだが今までは拡大モデルにあった。ところが、今後は均衡縮小せざるを得ない。部数が減った場合ウェブで稼ぐという考えもあるが、世界的に例のない数百万部の発行部数が半減した場合どうすればよいのかのモデルはまだない。ネットに殺される前にネットを新聞にしてしまうなど新しいモデルを作る必要がある。自動車業界で環境や安全性といったこれまでにない発想が利益につながっているように、今は利益にならないものでも利益にするような形がいる。

 つい最近まではパソコンで情報を得るというのはハイカラで皆が新聞を読んでいた。しかし、20年〜30年すると、モバイルや電子ペーパーが主流になり、新聞を読むことが、今の葉巻のようにステータスになるのではないか。ネットが大衆化しても、紙の新聞を高値でいいからほしいという層はいる。メディアは市場原理だけではできない。

 たとえば、新聞は整理・編集という活動の資産価値に気づくべきだ。情報の取捨選択がメディアの真価を問う。一覧性、レイアウトの妙味はロボット検索でニュースを拾うことではできないことだ。

 韓国ではネットニュースが広まったが、その代わり既存の大木のようなメディアが折れてしまった。CNNで情報を得ている人も多い。いきなり大木が倒れたら大混乱となり、悪性の植物が広まる可能性もある。日本のやりかたがいいとは思わないが、いきなり変えることはできないし、10年、20年かけてメディアのポジションを考えるべきだ。メディアは市民の代弁者であり、新しいジャーナリズムを、ネット、市民、地域などをキーワードとしてともに考えていくべきだ。

2005年4月8日 毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/it/net/news/20050408org00m300089000c.html

 興味深い内容なのですが、現在のメディア状況を「森林」に喩えているところを注目してみましょう。

 「森林に例えれば全国紙、東京キー局、NHKは人工的に植えられた杉の巨木のようなもの。他の植物がほとんど生えておらず、森林としてのバランスがとれていない。それにより東京一極集中の弊害などが出ている。」

 情報発信する行為そのものが免許事業制度なり、記者クラブなり既存の規制の中に閉じこめられている現状をよく表現していると思います。

 また、既存メディア・ジャーナリズムをネットメディアがどう補完すべきなのか、興味深い分析が為されています。

 「メディアと地域は循環型であるべきだ。メディアの情報を受けて、自分たちのコミュニケーションを促し、またメディアに循環する。受け手と送り手が角に離れると相互不信が進んで機能できなくなる。読者と共同体を作らなければダメだ。」

 「ジャーナリズムの階層は4種類あると思う。(1)ルポルタージュのようなプロが長文で突っ込んで取材したもの(2)新聞・NHKなどの全国ニュース(3)市民メディアやオルタナティブメディア(主流ではないメディア)(4)地域のコミュニケーション活動。3、4をカバーするジャーナリズムがこれまでなかった。新聞も最初は錦絵だった。ラジオもテレビも最初はジャーナリズムに向かないといわれていた。ネットがメディアに向かないというわけはないだろう。」


●構造相転移(Structural phase transition)したネットメディアの優れた特性
 今までの既存メディアは、「個体・液体」のような自由度のない。地域数的にも情報発信数的にも閉鎖的な存在でありました。従って、上記の水越教授の指摘する「メディアと地域は循環型であるべき」という指摘に対しては、ほとんど一部地方紙を除いては実現されていませんでした。

 電子空間的に爆発的に広まりつつあるネットメディアは、実世界の地域性においても物理的にほぼずべての人の住む土地に「気体」のように無数に散らばった状態であるわけであり、既存メディアの情報発信ネットワークが「点」と「点」を結びつける脆弱な硬直したものだったのに対し、ネットメディアは柔軟に「面」をカバーできるのです。

 最近の具体的例を示してみると、東武線の『竹の塚踏切事故』における、既存メディアの一面的報道に対し、 ネットブログ上(『大いなる夢』さん)では、実際にその駅を利用している人たちの多くの情報をネット上から集約する形で、既存メディアを凌駕する精度の高い情報発信がシリーズでされていました。

 同じ事を既存メディアで可能でしょうか? 人員的にも紙面スペース的にも極めて難しいでしょう。

 こだわるわけではありませんが、私は、今、メディアにおいて起こっている変化は物性物理学でいう構造相転移に近い、劇的な爆発的な変化だと考えており、メディアの持つ特性そのものが質的に変わりつつあるのだと解釈しています。

 上記の例では、ネットメディアがローカル地域を面的に捉える特性を持っている話をしましたが、水越助教授の「森林」でのたとえ話からは見えづらいネットメディアのもうひとつの特性、メディア構造相転移説から説明可能であろう優れた特性についてここから述べてみたいです。

 それは、旧来の「構造相転移」前のメディアに比し、ネットメディアは空間的「次元」(Dimension)が異なるということです。

 つまり、ネットメディアは現実の空間から超越した情報発信ネットワークを構築可能であるということです。

 当然のことですが、電子空間上では瞬時に世界中のHPやブログにアクセス可能なわけであり、実世界の物理的距離を超越した次元で情報は飛び交っています。

 つまり、ネットメディアは地域ローカル性から完全に離脱した真の意味で情報発信する自由空間を実現しているとも言えましょう。

 最近の具体的例を示してみると、竹島問題について、ネットブログ上(『希望と挫折を繰り返して』さん)で興味深い試みがされています。韓国最大のネットメディア『OhmyNews』の掲示板で韓国人読者と討論し、その経緯を日本のブログ読者に報告する形でレポートしています。

 驚くべき事は、このブログ自体は日本にあるわけですが、ブログ管理者はアメリカ在住の日本人技術者であり、その彼が韓国の『OhmyNews』にアメリカから議論参加し、それをほぼ即時性をもって日本のブログ読者に伝えているのです。

 ネットメディアの優れた特性は、単に特定地域をローカルに面でカバーできるという、既存のものさしで計っては片手落ちであります。その真の意味での特性は、物理的空間的制約から完全に解き放たれた、全く新しい形の情報発信が可能である点であります。


まさに、「構造相転移」的なメディアの特性変化が起こっているのではないでしょうか?


(木走まさみず)


<参考ブログサイト>
●『大いなる夢』
http://blog.goo.ne.jp/ecotaka/e/91812700c84c9ca048e8089ecddbb2f5
●『希望と挫折を繰り返して』
http://blogs.yahoo.co.jp/peace12hope/MYBLOG/yblog.html
<関連テキスト>
●メディア相転移説実践編(1)〜中国反日デモをブログ検証してみる
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050412