木走日記

場末の時事評論

台湾原住民にはまりました。

kibashiri2005-04-09


 今日は雑談であります。

 一昨日、当ブログでは初めてふれてみた台湾ですが、『本省人』と『外省人』の話などを調べてるうちにいわゆる台湾原住民について興味を持ちました。

 インターネット新聞JANJANにおいても、たまたま偶然ですが、台湾原住民の興味深いレポートが掲載されています。

●よみがえる「台湾資料」(上)
http://www.janjan.jp/culture/0504/0504055392/1.php
●よみがえる「台湾資料」(下)過去を再構築する原住民たち
http://www.janjan.jp/culture/0504/0504065434/1.php

 すごく興味深く拝読しました。

 今日は昨日のメディアの話を続けようと計画していたのですが、もうだめであります。私の本当に悪い癖なのですが、またしても脱線して恐縮ですが、今日は台湾原住民に関して調べてみました。

 まず、台湾原住民に関して、ウィキペディアがよくまとめてあります。

●台湾原住民
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91

台湾の先住民族は、言語・文化・習俗によって細分化されており、多くの民族集団に分かれているとされる。台湾が西欧人によって支配されていた1603年に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀ころに至って、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民を「平埔蕃」と呼び、特に漢化が進んだ原住民は「熟蕃」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民を「生蕃」または「高山蕃」と呼ぶようになった。1895年から台湾の植民地支配を始めた日本は当初この分類と名称を引き継いだが、のちに「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と呼ぶようになった。やがて日本の学者によって「平埔族」と「高砂族」を言語・文化・習俗によって民族集団に分類する試みが行われるようになった。現在行われている分類は、おおむねこの時代の研究を引き継ぐ。

台湾解放後、台湾を実効支配する中華民国政府は先住民族のうち、日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を漢語名で「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めたが、90年代以降の民主化の流れの中で「台湾原住民族」として承認し、平地人(漢民族)に対して「原住民」籍を与えた。

サイシャット(賽夏族)
タイヤル(泰雅族、アタヤル族とも)
タロコ(太魯閣族、セデック族とも)
アミ(阿美族
ツオウ(鄒族)
ブヌン(布農族)
プユマ(卑南族)
ルカイ(魯凱族)
パイワン(排湾族)
タオ(達梧族、雅美族(ヤミ族)とも)
これらの民族は「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれている。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族を除き、台湾島の山地に居住し、人口は40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。

2004年1月に、約10万人いるタイヤル族のうち花蓮県を中心に居住する約3万人がタイヤルと言語・文化を異にすることから新たにタロコ族として公認された。これによりいわゆる高山族のうち台湾政府当局の公認する民族の数は10となったが、言語、文化を指標としてさらに細分化する説もある。

 なるほどですね。ところで『本省人』と『外省人』のくくりの中で、これら台湾原住民の方々は『本省人』にカテゴリー的には含まれるのでしょうか?

 で、調べてみたら、あいたた、違うのですね。

●世界民族博覧会 台湾の民族
http://wee.kir.jp/taiwan/twn_people.html

 なるほど、『本省人』も『外省人』も漢民族でありました。
本省人』はビン南人(ビンナンの「ビン」は門がまえ」に「虫」)、福ロー人(福ローの「ロー」は「ニンベン」に「老」)、客家人で、17世紀から18世紀、清朝の時代に渡来してきた漢民族でありましたか。

 で、ウィキペディアで関連リンクを覗いてみたら、こんな戦中の美談がありました。

●語り継がれるサヨンの物語 今でも親日感情強い高砂族
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1509/1509077sayon.html

 サヨンの物語をご存じだろうか。日本統治下の台湾で高砂族の少女と
恩師の日本人巡査を巡る悲しい物語である。60年以上経た今も地元で
子供たちに語り継がれている。

 時は支那事変が勃発した昭和16年、宜蘭県南澳の山中深く、
タイヤル族のリヨヘン社(村)で警手兼教師の任務についていた
田北巡査のもとに出征の命令が届き、山を下りることになった。

 普段から村人の面倒をよく見、慕われていた田北巡査を見送ろうと、
村の青年らが荷物運びを買って出た。

 その日はもの凄い暴風雨が吹き荒れ、リヨヘン社から麓まで行く
途中の南澳南渓は水かさを増していた。それを渡ろうとした青年団
団員であるサヨンは、丸木橋から足を滑らせて漆黒の激流に飲み込ま
れてしまう。年のころ16、7歳だったという。

 この悲劇は間もなく台湾総督・長谷川清大将の知るところとなり、
出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にしたということで、
愛国美談として顕彰されるようになる。サヨンの遺族には長谷川総督
より記念の鐘(この鐘は後日行方不明になる)が贈られ、

 「愛国乙女サヨン遭難碑」

 も遭難場所付近に建てられた。

 (後略)

 なんか、軍国美談ぽくって、木走的にはあまり気に入りません。(汗

 もっと、原住民の伝承とか伝説とかないのかなあと調べてみたら、おお、奇特な日本人がおられました。

 片倉佳史氏というフリーランスのジャーナリストが原住民の伝承を調査されていました。

●台湾特捜百貨店 原住民の伝説
http://my.so-net.net.tw/katakura/genjyumin/densetsu.html#kuma

 すっごく面白いです。中でもこの伝説は強烈に不肖・木走の脳裏にインプレスされました。

月中の人影・哀れな美少女の話  

これは、花蓮県一帯に広く伝わっているアミ族のお話です。この辺りには、豊かな田園地帯が一面に広がっています。古くから農耕の技術をもっていたアミス(アミ族の人々の自称)は、比較的、安定した生活を営んでいました。これはアミ族の最大勢力を誇ったというキビ社で聞いたお話です。

このお話しはずいぶんと昔のことで、いつの時代かを知る人はいません。ある村に一人の美しい少女がいました。でも、不幸なことに、いつもいつも母親にいじめられ、なんとも憂鬱な毎日を送っていました。

ある日、この少女に同情した友人たちが「家にいるとつらいだろうから、浜辺へ行って貝拾いをしよう」と誘ってくれました。ところがその道中、なんとも言えない臭気が襲ってきて、その激しさはとても堪えられるものではありません。それでも「誰か、オナラをしたのでしょう」などと、お互いにからかいながら、後になり、先になり、山道を進み、海岸へ着きました。

少女達は嬉々として海の美しさと戯れ、貝拾いを楽しみました。しかし、どういうわけか、この間も臭気は絶え間なく、漂っていました。

そのうち昼時になったので、皆で集まり、持参した弁当を開こうとしました。ところが、どうでしょう。その少女の弁当は、表面こそ美しい器でしたが、その蓋を開けてみると、中には汚らしい人糞がうんと入れられていたのです。先ほどからの臭気の原因がわかり、皆は思わず、大笑いしました。

しかし、笑い声はすぐに止み、それは同情へと変わりました。そして、それが、少女の母親の仕業とわかると、友人達は大いに憤り、「あなたの母はなんて悪い人なのでしょう。復讐しよう」と息巻きます。それでも、少女は皆を押しとめて、「親切は嬉しいが、母が悪いのではありません」と言う。「すべては、自分の不肖が原因なのです。私さえいなければ、母もきっと善人になります。私は姿を消します」という。友達が、「そんなことは言わずに、もう一度、社に帰ろう。私たちも助けるから」と言っても、娘は一向に聞く様子はありません。そして、「五日後の満月の夜。月の中に、足を延ばして、籠を傍らにして休んでいるものがあったなら、それは私だと思ってください」と言います。友人達は少女の決心が固いことをみて、涙にくれつつ帰っていきました。

この事を聞いた家族は翌日、早々と海岸に行って、少女を捜しましたが、もはやその影さえありませんでした。そして、泣く泣く家に帰ったそうです。そして、それから五日目の夜、社の人間が皆で表へ出ると、月の中には、あの少女の姿がありありと見えるではありませんか。それから、今でもこの社では、満月になると、可憐な少女の姿を月の中に探すのだそうです。

 読者のみなさん、香しい話でございましょう(苦笑)
 ゴッホン、失礼しました。

 さらに、いろいろネット上うろうろしていたら、台北日本人学校のサイトでも、原住民のお勉強されていました。

http://www.taipeijs.org/syakai/p129/css/p129.htm

 うーむ、外国の日本語学校日本人学校でご当地のさまざまなことを勉強することはいいことですね。

 ん? 「李登輝氏初来校」って何よ?

●本校体育館で特別記念講演 「台湾の歴史において日本人がしたこと」
http://www.taipeijs.org/ritouki/naiyou.htm

 驚きであります、李登輝台湾総統日本語学校日本人学校で児童・生徒の前で講演していました。

岩永理事長、佐藤常務理事、垂部長、手賀校長先生、ご来賓の皆様、ご父兄の皆様、先生方及び学生の皆様!
 
 こんにちは!只今ご紹介を受けました李登輝です。
 
 本日は日僑協会岩永理事長および台北日本人学校手賀校長先生のお招きを頂き、初めて貴校を訪問できたことをたいへん嬉しく思っています。昨年九月は又台中日本人学校を訪れ、親しく新校舎の完成を見ることができました。
 その時、学生さんとは「健全な身体に健全な精神を宿らせ、国際感覚を身につけ、試験は満点ばかり、良い子としてお父さんやお母さんを喜ばして下さい」と励まして来ました。
 私は国際感覚を身につけなさいと云って、台湾の歴史についてやさしい話をしました。それで、私も今日は「台湾の歴史に於いて日本人がしたこと」を題にして皆さんに、皆さんの先輩が台湾に於いて何をしたかについて、その実績を述べ、偉大な先輩達が残した有意義な、精神的なものは何であったかをお伝えしようと考えています。その前に、皆さんに伝えたい一つのエピソードがあります。それは最近出版された東京都知事石原先生が書かれた「日本よ!」と云う本の中に、この様な一節がありました。
 “先年に亡くなった、かつての第二次世界大戦での世界撃墜王ゼロ戦のエース坂井三郎さんにじかに聞いた話だが、ある時坂井さんが東京都下中央線に乗っていたら前の席にどこかの大学に通う大学生が二人座ったそうな。
 最近の大学生はどんな話をするものかと瞑黙していたまま聞いていたら、二人の会話が進んでいき、突然一人がもう片方に、
「おい、お前知っているか、日本は五十年前にアメリカと戦争したんだってよう」
云われた相手が、
「嘘っ!」
「馬鹿、それが本当なんだよ」
「エエッ、マジかあ。で、どっちが勝ったんだよ」
 それを聞いて坂井さんはいたたまれずに次の駅で降りてしまい、ホームの端でしばらく一人でつっ立ったきりでいたそうな。何と無残な話ではないか。”
 
 この一節の話は大部分が事実だと思います。これが若し事実であるとしたら、かなり大変なことじゃないかと思います。一つは日本の若い人は余り日本の歴史について、知らないと言えることです。二つは学校の教育が子供達にかなり自己否定的なことを教えてきたことです。一九四五年以降の日本においては、世界的にも、日本にとっても替え難い日本特有の指導理念や道徳規範を示す歴史的事実が完全に否定されました。日本の過去はすべて間違いであり、歴史を見る必要も、知る必要もないというように暴走していったのです。日本の過去には政治、教育、文化の面で誤った指導があったかも知れませんが、又、素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだに信じて疑わないだけに、日本社会の根底部分に渦巻いている、日本及び日本人としての誇りを奪い、自信を喪失させる種々の出来事に心を痛める一人であります。
 このエピソードを何とかして、よい方向に直したいが故に、今日は、「台湾の歴史において日本人がしたこと」について、大いに皆様と話したい訳でございます。
 
 では、台湾歴史において日本人がしたことをお話ししましょう。
 
 一八九四年、清国は朝鮮の主権問題が原因で日本と日清戦争を引き起こしました。戦争に負けた清国は日本と馬関条約を結び、何の関係も無い、しかも北京から二〇〇〇キロ以上も離れた台湾を日本に割譲しました。しかし、台湾の官民はもろともに不服を表明し、当時の台湾巡撫(じゅんぶ)唐景松を総統に推し立て、「台湾民主国」を成立させました。日本の接収に対抗したが長続きせず、一八九五年には台湾は日本に接収され、日本の植民地となりました。
 台湾総督がおかれ、その後第二次大戦終結の一九四五年まで日本による五十年間の植民地統治が統いたのであります。
 
 この五十年間、台湾を植民地として統治した日本および日本人は、台湾に対して何をやり、何を残したでしょう?
 
 台湾が満州異民族である清国の統治を離れた後、結局はまた新たな異民族である日本が変わって統治したことになります。このとき、新帝国主義の日本は明治維新に入り、旧帝国の清王朝よりも遥かに近代的でありました。これは台湾にとって不幸中の幸いとも言えます。
 
 一八九八年に第四代総督児玉源太郎が民政長官に後藤新平氏を起用したことによって、初めて各項目の近代化建設が計画的に進められるようになりました。二十世紀に入る前すでに、台湾は幾つか最も重要な基礎建設を始めたのです。例えば、一八九九年には台北市で水道工事がすでに竣工されました。同じ年、台湾初めての現代化した金融機構である台湾銀行が正式に設立されました。これによって、台湾資本主義化の基礎が確立されました。台湾の南北を走る縦貫鉄道も同じくこの年に起工されました。二十世紀に入るにおよんで、衛生改善で最も重要であると見なされている下水道工事も開始されました。後藤新平氏の任期内に更に完成した主なものは、土地、林野、戸口の調査であります。度量衡と貨幣の統一、郵政、通信、航運、港湾、鉄道、道路などの運輸事業を積極的に建設し、または拡張をしました。総長四〇五キロにおよぶ縦貫鉄道は終に一九○八年に全線開通されました。一方、中国大陸においては、清国政府はまだ倒れていない、中華民国もまだ誕生していない一九一一年には、世界三大登山鉄道にあたる阿里山登山鉄道がすでに開通を見ました。
 もとより、これらの建設はその資本主義と植民主義政策を推進するためであり、物産の流通を容易にするためでありますが、これによって全島の疎通が大いに加速されたのは言うまでもありません。これで、十九世紀の末葉には台湾全土の全島的または国造りの観念が生まれ始めました。
 産業方面では、二十世紀当初十年間までには、新式を誇る製糖会社が六つも相次いで成立し、台湾の製糖事業は近代化工業生産に仲間入りしました。工業発展に使われる電力は二十世紀初頭に開発を開始しました。最初の水力発電所は台北深坑にある亀山発電所であります。一九〇三年に起工し、二年後に完成、電気を供給し始めました。
 特筆すべきは、台湾の財政は一九〇四年には完全に自立更生を成し遂げたことです。台湾はもはや日本本国の中央に補助を仰ぐ必要がなくなりました。
 すなわち、台湾は二十世紀に入って、完全にその姿を変えたといえます。ニ十世紀の前半期に、台湾は各レベルの厳密な政府、司法機関、警察機構、戸政制度、農業組合系統、金融組織、大規模な農田水利、道路、鉄道などの交通網、電力及びその輸送系統などのインフラを作り上げました。そのうえ、全土あまねく、普通教育を普及させました。
 そのうち、基礎教育の普及は最も大きな影響をもたらしたと言っても過言ではありません。「帝国臣民」の意識形態を一応さておいて、本世紀にやっと始まった現代新式教育は、台湾社会に対して間違いなく相当な質的変化を及ぼしました。一九四三年、台湾の学齢児童の就学率は既に七一・二%に達していました。(山地では八六・四%)。
 文盲が減り、識字率の向上によって、台湾の人は新しい現代教育を通して、近代西方文明、基本科学技術と新しい思想観念を受け入れました。古い農業社会体質を変えたばかりでなく、過去の旧暦に基ずく農業社会の生活方式から七日を一週とする生活に変わり始め、過去の伝統的農業社会の悪習を受け継がなくなりました。例えば、時間を守らない、約束を守らない、法治観念が無いなどはこの教育により、相当の改善が見られました。それで台湾社会は逐次庸俗(ようぞく)な社会から市民社会へと移り変わっていきました。
 半世紀にわたる日本統治は台湾人の文化と価値観及び台湾社会の近代化などに相当な変化をもたらしました。一般がみるとこころでは現在台湾と中国大陸の落差は頗る大きく、台湾は各方面において中国大陸を凌いでおり、三十年は進んでいると言われています。
 先ほど、私は日本統治時代に大規模な農田灌漑(かんがい)水利事業を興したことに触れましたが、ここで台湾の歴史に於いて、日本人が成したことの一例として八田与一氏が成し遂げた未會有の大事業「鳥山頭水庫(うざんとうダム)、嘉南大しゅう十五万町歩の土地に三年輪作の灌漑制度」を取り上げ、これが八田与一によって表現される「日本人の精神」であることをある講演会でお話しを致しました。
  その時、私が挙げました八田氏によって表現される日本人の精神とは、「一、公に奉ずる精神 二、その精神に宿る公義と 三、義を重んじ誠をもって率先垂範、実行躬行(きゅうこう)すること」でした。日本統治五十年間は上述したように非常に重要な台湾近代化の事業を完成したのですが、ここで働く日本人一人一人が八田与一氏に見るような精神で個人を律し、台湾の人の模範となるべく奮闘したと思います。つまり、台湾で働いた殆どの日本人は八田与一氏と同じ精神でやって来たと思います。植民地としての台湾人に対する差別待遇もありましたが、きちんと自己を厳しく律する日本人の教師、警察官、公務員、司法官はいつでも尊敬されていました。
 アメリカの学者ダグラス・メンデルが「日本政府は台湾人を日本人に変えるよう努力したが、成功しなかった、だが、台湾人をして中国人と違ったものに変える事に成功した。」と云っておりますが、これは歴史の真実だと思います。
 このように、五十年間の日本統治は台湾の近代化をもたらし、物質面の基本建設ばかりでなく、最も重要なことは、台湾人に文化と価値観をもたらし、国家単位の真実感を形成したと言うことができます。
 
 以上で私の今日の話しを終ります。ご清聴有難うございました。

 すばらしい!

 しかし、これって小学生には、少し難しかったんじゃないかなあ?(苦笑

 ・・・・・・

 なんか、最後のは台湾原住民とは全然関係ないのであります。(汗

 今日は台湾がらみの雑談でありました。

 ますます台湾が好きになってしまいそうな木走なのでした。

 台湾、がんばってほしいですね!



(木走まさみず)

<テキスト修正履歴>
2005.05.12 10:30 台北日本人学校日本語学校と誤記しておりました。当該箇所を修正しました。