木走日記

場末の時事評論

ネットリテラシー考(1)〜メディアに構造相転移が起こっている

 堀江氏の一連の騒動を通して、メディアとしてのネットの役割が今盛んに議論されているようです。当ブログにおいても、以下のエントリーなどで考察してきました。

産経新聞メディア論に対するメディアリテラシー的考察
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050327

 さて、メディアとしてのネットの将来性に関してですが、ここへきて既存メディア側から批判的記事が多く見られるようです。そのひとつとして一昨日の毎日新聞の記事を取り上げてみます。

ライブドア問題:融合への道はネットリテラシーの確立

 ライブドア問題を機に、改めてネットとテレビの融合の在り方についての議論が活発化することになった。融合による新しいビジネスが生まれることには大いに期待したいが、どうもネット側にはテレビほどの歴史が無いせいもあってか、本当の意味でのリテラシーの尺度が確立していないように思える。【西正】

■ネットの弊害

 ライブドアとフジテレビによるニッポン放送の争奪戦が活発に行われていた際に、堀江社長の発する言葉の数々から大いなるネット至上主義の考え方を感じた。「ネットを活用すれば何でも出来る」というメッセージであったと思うが、インターネットはあまりにも急激に普及してしまったことから、本当の意味でのリテラシーの尺度が確立していない点に注意を要する。逆に言えば、そこの部分が改善されない限り、ネットとテレビの融合も簡単には進まないということになる。

 ここでいうネットのリテラシーとは、パソコンの取り扱いが巧みで、自由自在にインターネットを使いこなす技量のことを言っているのではない。ネットから得られる大量の情報の中から、正しいものと間違っているものの違いをきちんと判別できる能力を指している。

 分別のある年齢を重ねた大人ならばともかく、小学生ですらネットを自由に使いこなしてしまっている現状では、ネットが子供にもたらす悪影響の部分を問題にせざるを得ないように思われる。堀江流の考え方であれば、新聞やテレビの報道に頼らなくても、面白い情報を発信するところには多くの人が集まるので、ネット内での自浄作用があるということであった。

 しかし、面白い情報と、正しい情報とでは明らかに大きく違っている。正しく伝えるよりも、事実を誇張したり脚色したりすることによって、面白い情報が作り上げられてしまうことは多い。ある程度の情報選別能力が備わってからでないと、受け手側が面白さと正しさを混同してしまいかねないことは明らかである。

 あまり善悪の判断がつかない段階でネットの世界に埋没してしまう結果として、ネットでのやり取りが引き金となって小学生が友人を刺してしまうとか、見知らぬ人同士が心中するといった事件が後を絶たなくなっている。

 そもそも若年層がメディアの影響を受けやすいことは間違いない。若ければ若いほど、その度合いは強くなる。ある意味で純粋だからである。テレビ局がゴールデンタイムの編成でF1、M1層を中心にターゲットを設定しているのは、CMを見せるに当たって、彼らに購買力があるからという理由ではなく、メディアの影響を受けやすい年齢層である点に着目しているからだとも言われている。

 時代の変遷とともに、子供の成長段階において有害なメディアと呼ばれるものは変わってきている。大人向けの週刊誌を子供に見せてはいけないと、駅に週刊誌の回収ボックスが置かれていた時期もあった。テレビ番組についても、「8時だヨ ! 全員集合」が高視聴率をマークしていた当時、あんな番組を見ていたら不良になると、PTAから大ブーイングが寄せられたこともあった。その次は、テレビゲームがやり玉に挙げられ、生死に関わる問題にはリセットボタンが効かないことを分からなくさせていると指摘された。

 後になって考えてみると、どれも大した問題ではないように思えるし、歳を取ると「今の若い者は」と言い始めることの材料でしかないようにも見える。しかし、よくよく見てみると、ネットの取扱いの難しさとは大きく異なることが分かってくる。

 雑誌やテレビやゲームは、発信側、すなわち子供に影響を与える側の当事者は明確である。それ故に、世間の糾弾を受けると、それなりの自粛をしなければならなくなり、その結果として、何らかの自浄作用が機能する。

 しかし、ネットの場合には、情報の発信側も受信側も、極めて匿名性が強い一面がある。いい歳をした大人までが、匿名でないと自分の主張を述べられない始末である。逆に言えば、匿名であることを逆手に取って、とても相対では言えないことを掲示板に書きこんでいる感が強い。他人とのコミュニケーションが上手に出来ない人間に対して、苦労してでも改善させるようにするどころか、より一層、症状を悪化させている結果に陥っているのではないかと心配される。

 大人ですらそうなのだから、発育途上の子供たちにとっての悪影響は、既存メディアの比では無いことが明らかだ。

 インターネットが急速に普及した理由が、何の規制もかけられないところにあるとすれば、いずれ犯罪の温床となるマイナス面が出てくることは予想されたが、具体的な対策案が講じられる見通しはない。これまでネットに対する評価を行うに当たって、陽の当たる部分だけを協調し過ぎてきてしまった感があることは否めない。

■テレビとの違いが融合を妨げる

 インターネットには産業構造を変えるだけの利便性も多く、また表現の自由言論の自由とも関わることから、安易に規制をかけることは許されない。一方、発信者が特定されないことから、自粛を求めることも難しい。

 そういう意味では、あくまでも利用する人のモラルに期待するしかないのだが、情報の正誤についての選別眼を持たない子供に対しては、それを養うような教育も求められることになる。その手段としては、新聞やテレビのように、きちんと取材をして、確かな裏づけを取り、正確な報道を行っているメディアに触れさせる必要があるだろう。面白おかしいバラエティー番組も見ていて構わないが、時にはニュースにも目を通し、むしろ新聞やテレビの報道姿勢に疑問を感じるくらいの情報感度を身につけさせることが必要である。

 ネットの普及の速さに学校教育が追いついていなければ、親がそれを補うことも必要であるし、周りにいる大人が上手に指導していくべきであろう。難しい話のようにも思われるが、単純に善悪の判断をする力くらいは子供でもすぐに身につけることは可能である。ここでも、ある意味での純粋さが物を言う。そうした情報の選別眼を持つことが、本当の意味でのリテラシーなのであって、パソコンの取扱いの巧拙などは別次元の話である。

 ネットがそういう状況にある以上、ネットとテレビの融合が進まないのも当然である。携帯電話機で地上波デジタル放送を受信できるワンセグ放送の規格を決める際に、テレビとネットの混在表示をテレビ局側が嫌ったのも、そうした文化の違いに起因するところが大きい。同じ一つの画面の中で、例えばテレビ放送が地震の現場を中継しているのと同時に、ネット上の無責任な流言飛語が危機感を煽るようなことになれば、重要な災害情報が混乱を招くための材料になってしまいかねないからだ。

 ネットの利便性しか主張しないネット至上主義者の言い分では、とてもテレビ局との連携ビジネスが進まないことは明らかである。放送側には免許事業としての自主規制がある。羽目を外せば、放送局の責任が問われる姿を何度も目にしてきた。ネットには自主規制の論理が通らない以上、利用者のリテラシーを上げていくことが、ネットとテレビの融合を進める最短の方法であると思われる。

 放送は文化の世界であり、通信は技術の世界である。それ故に融合は難しいと指摘されてきたが、お互いが融合を求めていることは間違いないのである。本当の支障は何処にあるのかを察するところから、新たなビジネスを生み出すスタートラインが見出されるのではないか。

2005年4月7日 毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/it/coverstory/news/20050407org00m300079000c.html

 私としてはこの記事の内容に、2点、反論したいのです。

●ネットリテラシーの確立は能動的に達成できる

 まず、若年層がメディアの影響を受けやすいことは間違いないでしょうし、匿名性が確保された自由な言論環境がある種の犯罪の温床となるマイナス面が出てくることは可能性として否定するものではありません。

 しかし、メディアリテラシー教育論として、では具体的にネットリテラシーを高めるにはどうするべきなのか、この記事の示す方法論では全く効果がないと思うのです。

 「新聞やテレビのように、きちんと取材をして、確かな裏づけを取り、正確な報道を行っているメディアに触れさせる必要があるだろう」とありますが、既存のメディアが手本になるかどうかは別議論としても、このことがリテラシー能力を高める根拠がわかりません。毎日、朝日新聞を読ませていれば、あるいは産経新聞を読ませていれば、能力が高まるのでしょうか? NHK特集を見させて感想文でも書かせればリテラシーの訓練をしたことになるのでしょうか?

 私は、IT関連業者としてまたある教育機関に関わる者として強く主張しますが、ネットリテラシーを身につけさせる方法は実践しかないと思っています。

 たとえば、小学生や中学生に、新聞の記事のリテラシー能力を高めさせるには、朝日や読売の記事を切り抜いて読ませても、ほとんど効果はありません。
 それよりも、班ごとにテーマに従い「壁新聞」を作成させ、クラスで互いの「壁新聞」を発表させ評論させるほうがはるかに学習になるはずです。
 生徒は、実際に自分でメディア(情報発信)側にたち、記事を作成・編集する作業を通じて、事実を記事にして編集する作業そのものを体験します。いかに、「真実」と「記事」が似て非なるものなのか実体験できます。
 そしてこのメディアとして経験が、次に他の班の記事を批評するときのオーディエンス(読者)としての立場でメディアを評価するときの、確固たる「ものさし」として役立つのです。

 若年層にネットリテラシーを身につけさせる最良の方法は、ネットに参加させ、自らHPあるいはブログを運用させ、あるいはコメントを書く行為に参加させ、ネット上のメディア(情報発信者)としての経験を積ませることです。そして、他サイトの情報を収集したり(ときにだまされたり)、他サイトにコメントを書いたり(ときに誤りを書いたり)しながら、オーディエンス(読者)としてのリテラシーを実践を通じて高めていくことが最良の道だと考えています。

 私は、そして現在それは確実に日々現実のインターネットの世界で実践されているのであり、この記事が指摘するマイナス面での弊害が存在することを認めつつも、時間経過をもってネットリテラシーは着実に高められていくと考えています。

●メディアで構造相転移(Structural phase transition)が起きつつある

 次にこの記事ではより根元的な視点が欠落していると思うのです。

 それは、今、インターネットで起こっていることは、劇的なメディアの変動期の始まりを意味しているのではないかということです。

 すなわち、一部のジャーナリストが特権として与えられていた「情報発信」という行為が、インターネットの普及により、広く一般市民に解放されつつあるのです。

 最近の既存メディア側からのネットメディアに対する批判にほぼ共通して言えることですが、ネットの匿名性とともにジャーナリズム論を駆使してネット情報の劣悪な信憑性について批判することが多いようです。そこでは、既存メディアを上段に上げてネットメディアを見下す論法が目に付くのですが、これは、「情報発信」という行為が一部既存メディアの特権として閉鎖的に位置づけられていることを、暗黙のうちに肯定しているものの見方に他なりません。

 しかし、現実に起こっていることは、一般人による情報発信が世界的規模でかつ急速に激しく不可逆的にはじまっている変化なのです。

 それは、物性物理学でいうところの構造相転移(Structural phase transition)に似た現象がメディアの世界で、起こり始めていると言えましょう。

 構造相転移とは、物質の持つ構造(その構造の状態:相)が、外的条件によって他の構造へ変化することを意味します。

 わかりやすい例では、物質の熱変化があります。固相である「氷」が加熱処理することにより、液相である「水」に、さらに加熱することにより気相である「水蒸気」に構造と性質を変えます。

 構造相転移が起きると同じ物質でも、形態も性質も全然かわります。液体の水分子が互いに拘束しあいその振る舞いに制約があったのに対し、気体となった水分子が自由に振る舞えるようにです。

 今まで免許事業制度や記者クラブのような閉鎖的な一部の限られた既存メディアに与えられていた情報発信という行為が、まさに「構造相転移」が起きたように、急速に不特定多数に広まりつつあるのが、今のネットメディアの状況なのではないでしょうか?

 これだけ急速に広がれば、当然質的な問題も生じましょうし、「構造相転移」する前の状態を懐かしむ者にしてみれば、全く新しい状態を素直に受け入れるわけにはいかないのでしょう。

 しかし、興味深いことに、既存メディアに比べても、それを凌駕するような情報発信が一部ネットメディアで見られるようになっています。

 「構造相転移」的変化が起きていることを想定すれば簡単に説明できます。

 いままで液体の水のように互いに拘束をされながら限られた数の情報発信しかできなかった既存メディアは、それが職人としてよく訓練されたエリートジャーナリストが中心であったとしても、その発信能力は有限でありました。

 しかし、ネットメディアにおいては「構造相転移」して気体となった水分子のように空間的に爆発的に広がり、それぞれ独立した無数の分子として自由に情報発信ができるのです。

 限られたエリート集団が情報収集し考察した上で発信する情報と、烏合の衆が情報収集し発信する情報では、もちろん、その精度は雲泥の差があるのでしょう。

 しかし、「構造相転移」的変化が起きているとするならば、話は全く変わります。

 烏合の衆100万人の発信する情報群の中には、限られたエリート集団100人の発信する情報よりも、高精度の情報も含まれるでしょうし、別角度の有益な考察も含まれるでしょう。
 これは物理学的統計学的現象論として考えた場合、理解しやすいことです。

 もちろん、現状は、既存メディアがほとんどの一次ソースを押さえていますし、大多数のネット上の情報がメディアが扱うのに値しない水準であることは否定できません。

 しかし、今メディアに起こっている変化は世界規模の不可逆的変化であることは間違いないのであり、その意味でネットメディアが世間に認められるのかは、時間だけの問題なのだと思います。



(木走まさみず)

<関連テキスト>
●ネットリテラシー考(2)〜構造相転移したネットメディアの優れた特性
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050410
●メディア相転移説実践編(1)〜中国反日デモをブログ検証してみる
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050412