満州医科大学の白米とコーリャンの話〜やはり満州事変以降の日本の振る舞いは「侵略」だと思う
今回は、身内の話からはじめましょう。
生前長らく神戸で開業医をしていた私の叔父は、温厚な人柄で幼い私にもとても優しく接してくれました。
彼が医学を学んだのは当時の中国大陸の満州国であります。
叔父が学んだ満州医科大学(現:中国医科大学)は、おそらく当時の中国大陸で唯一の先端西洋医学を学ぶことができる医科大学であったのでしょう、戦後1949年には共産党政府により国立中国医科大学として改称、現在まで中国屈指の医科大学として存在しております。
叔父が満州医科大学の学生であったころは、もちろん満州国内の唯一の医科大学であり、日本の国策で作られた大学でありました。
当時の満州医科大学の学生は、国策大学でもあり、内地からたくさんの日本人が学んでおり、正確な比率はわかりませんが、日本人(内地)、日本人(朝鮮)、日本人(台湾)、満人(中国人・満州族)、華人(中国人・漢族他)の順に学生は構成されておりました。
『五族共和』の名のもと、満州医科大学においても多民族で構成される学生に学ばせていたのであります。
叔父の話で印象的だったのは三つあります。
当時の学生は上記した構成でしたが、当然ながらすべての授業は日本語、講義する先生もすべて日本人でありました。
で、ひとつめは、日本人(内地)に対して日本人(朝鮮)、日本人(台湾)、満人(中国人・満州族)、華人(中国人・漢族他)などの出身の学生が押しなべて、学業がすこぶる優秀であったのとのことでした。
叔父曰く「私を含めて内地出身者は、学費だけでなく生活費も含めて国が負担してくれる満州医科に、もろもろな家庭事情で仕方なく来た者が多かったが、朝鮮出身者や地元の満州族の学生は、難関を突破して学びに来るものがほとんどで、目つきが違っていた」そうです。
二つ目はその当時の食糧事情です。
当時満州には100万を超える内地からの開拓民が移住しており、米を中心に農業生産がやはり国策として行われていたのですが、全寮制である満州医科大学の食事はそれはさもしかったそうです。
叔父曰く「内地ほどではないが、開拓地で生産される白米などの農産物はまずその大半が軍に買い取られ、白米はかなり貴重であった。主食は満人が生産していた価格の安いコーリャン(もろこし)が中心だった」そうであります。
そして三つめは『五族共和』の実態であります。
たまたま貴重な白米が学生寮で出されるときに、それは出現いたしました。
叔父曰く「たまたまお米が出るときには、一等日本人(内地出身)は白米のみ、二等日本人(朝鮮出身・台湾出身)は白米+コーリャン、満人・華人はコーリャンのみ、という差別的な配膳がされた」のだそうです。
そんなこと本当にあったのかと聞く幼い私に、叔父は「全員白米の時もあれば、全員コーリャンの時もあったが、白米の量が限られた時にはそれが日常だったね」と言いました。
叔父に言わせれば、満州国は日本の傀儡(かいらい)国家というよりも「日本人による統治」そのものだった印象しかないそうです。
卒業後軍医になった叔父は中国戦線を日本軍とともに転戦し、幸いにも終戦後日本に無事帰国できました、叔父曰く「同窓生のほとんどが軍医になったが、南方に配属になったものはほとんど帰ることがかなわなかった」そうです。
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さて身内の話をだらだらとして恐縮でしたが、ここから本題です。
安倍首相の70年談話で「侵略」という言葉が含まれるかどうか、議論を呼んでいます。
当ブログとして、満州事変以降の中国大陸での日本の振る舞いは「侵略」に当たると考えます。
異論もありますことは承知していますが、いかなる理由にせよ、日本軍のしたこと、日本の統治手法は、「侵略」という表現がもっとも適当であると思われます。
ただ、叔父の記憶が正しいならば、少なからずの朝鮮半島出身者も戦争末期、軍医として従軍して、日本兵の治療・介護に命を賭して懸命に当たっていたことも忘れてはいけないことでしょう。
叔父の話では、彼らの多くは日本人(内地人)以上に勤勉でありました。
いきおい、日本人(内地人)以上に、中国人にきつくあたったりもしたそうです。
今にして考えれば、半島出身者が日本人以上に蛮勇をふるったのは、自らが「皇民」であることを「日本人」であることをしめす行為だったのかも知れません。
ちょうどアメリカにて日系人部隊がヨーロッパ戦線において、どの部隊より勇敢に戦ってアメリカに忠誠を示したのと、似ていたのかも知れません。
(木走まさみず)