木走日記

場末の時事評論

ブログは、「記事」なの「日記」なの?

 ホリエモンの話からネットメディアは既存メディアに対抗できるのかなどと思いをめぐらせ、ここ2日ほどはブログ論になっているわけですが、まあ、読者のみなさまも当ブログの一貫性の無さにもだいぶ慣れていただいたと都合良く解釈させていただき、今日もブログの話から脱線気味に雑談したいと思います。(汗

 ブログがらみでいろいろ覗いていたらこんなテキストを見つけました。
『ARTIFACT ―人工事実―』さんの『うざがられる自分語り』(http://artifact-jp.com/mt/archives/200503/mydiscourse.html

(前略)
ここでいう「自分語り」というのは、自分の生活に対する話ではなく、映画や音楽などの各種メディア上の作品に対する感想の中で、その対象作品についてより、自分の事情について語っていることが多いものとしておきます。そういうタイプの自分語りが一番嫌われている、というかうざがられていると思うので。

 まず、自分語りがすべて嫌われる訳ではありません。自分語りをしている人に対して興味があるならば、面白く読めます。でも、まったく知らない人の自分語りというのは当然ながら興味は持てません。だから、文章を書いた人を読者がどれだけ知っているか、または興味を持っているかによって、嫌われる度合いが変わってきます。
 ですから、ブログの場合、運営の期間が関係してくるでしょう。始まったばかりのブログの管理人というのは、誰にとっても知らない人。でも、長く続けているブログの管理人ならば、興味を持っている人も多いでしょう。

(中略)

 もう一つ嫌う理由でよく見かけるのが、そういうことを公共の場であるWebに書くなというもの。悪口としては2chでよく見かける「チラシの裏にでも書いとけ」となります。
 大塚ギチ氏を嫌う人たちもよく「雑誌という公共の誌面を私物化するな」と言っているのを見かけました。雑誌の誌面というのは、誰にでも書けるチャンスがある訳ではないから、そこに公共性が出てくるというのはわかります。ただ、雑誌というのは価値観のパッケージングであり、個人の価値観が全面に出たほうが面白いとは思っているので、公共性だけで考えるのはそれはそれで不自由だと、雑誌を作っていた人間としては思いますが。
 それはさておき、ネットというのはテレビやラジオ、出版物などのマスメディアの媒体と違い、基本的に誰にでも開かれた場所です。そこで出てくる「公共」というのは、誰にでも開かれているからこその公共性です。
 しかしネットといっても、すべてが同じ特性ではありません。掲示板なら、そこはコミュニティであるから、利用者全体のものであり、公共の場というのはわかりやすいです。でも、個人の管理しているブログやレンタルサーバーのスペースでどこまで公共の場なのか?
(後略)

 ブログ上で「自分語り」することの善し悪しに関しては、難しい問題ではあります。アメリカの場合、社会時事性ブログが主流になりつつあり、日本の場合、まだまだ、個人日記風ブログが主流であるわけですよね。

 社会一般の出来事を実証的に記事風論説をするならば、これは一般紙でいう「記事」に当たるわけでして、メディアリテラシー的には、しっかりとした内容であるべきでしょうから、へたに「自分語り」をしてしまうと、テキストの実証性に悪影響必至であります。
 しかし、コラム風に自己主張するならば、コラムニストもよく日常の出来事などを雑記風に書いていたりしてるので、ありなのかなと考えています。

 木走としては、当ブログはコラム風「自分語り」と記事風「論説」が交互に顔を出すように配慮していますが、文体を工夫することによって分けています。お気づきかも知れませんが、「自分語り」部分は、この文章がまさにそうですが、くだけた「ですます調」で表現し、JANJANに掲載するような、記事風「論説」とは明示的に区別しています。
 どうなんでしょう。木走・個人としては、多彩な個性を発揮できるブログなのですから、新聞の記事のような客観的解説風文体だけでは味気ないような気がするのです。かといって、「自分語り」だけでは、それこそ「チラシの裏にでも書いとけ」としかられそうですしねえ。

 う〜ん、このあたりも読者の皆様の意見を参考にしながら、じっくり考えてみたいですね。