木走日記

場末の時事評論

香ばしいことば『平和』〜反戦・反核・反改憲

 少し「自分語り」しちゃいますと、木走はインターネット新聞JANJANに市民記者登録させていただいていますが、JANJANといえば、知る人ゾ知るリベラル系新聞でありまして、反戦反核・反改憲などの記事が満載であります。

たとえば、昨日掲載の記事では、南京大虐殺問題を扱っているこんな記事があります。

『国を想うなら学ぼう、自虐的な?歴史! 南京大虐殺について』
http://www.janjan.jp/government/0503/0503124559/1.php

 以前、木走はこの記事の記者ともだいぶ激しく議論したのですが、今日は記事の内容に踏み込むのではなく、雑談ですので、参考までにURLを付けておくだけにしておきます。(汗

 で、私が語りたいのは、嘆かわしいことに、『平和』とか『人権』という言葉そのものが、とても最近、色が付いてしまったというか、臭いが付いてしまった香ばしい言葉に変質してきたのではないかということなんです。

 反戦反核・反改憲などと同様に、たとえば『平和への誓い』などの表現が、あるグループからは真剣にアピールされるわけですが、別のグループからはうがった、ある意味で揶揄の対象となるような表現とみられてしまうんですよね。

 そのレベルの議論・討論などはJANJANでは、それこそ日常茶飯事なのですが、で、木走が何をいいたいのかっていいますと、この『平和』とか『反戦』ということばの属性にすっかり臭いが付着してしまい香ばしくなってしまったのは、個人的にすごく迷惑だなあと思っているのです。リベラルな人からも保守派の人からも、批判されそうですが・・・

 木走は戦争は大嫌いであります。原子力発電の問題でも反対の立場です。ようは、気が小さいだけかも知れませんが、人を殺すのも殺されるのも嫌でありますし、原発なんかもいちおう理系の人間としてプラント建設設計のシステムにも関わったことがありますが、おっかなくてしょうがないです。はい。

 でも、『反戦』とか『反核』とかを口にすると、すぐにイデオロギー的反発を買いかねないんですよね。 

 ウヨとかサヨとかのレッテル張りには何の関心もないのですが、日本だけなのか知らないですが、何かレベルが低いところで揉めているような気がしませんか?