木走日記

場末の時事評論

韓国が連帯する日本の「良心勢力」に本当に良心はあるのか?

 韓国は日本の「良心勢力」と連帯するそうですが。



扶桑社教科書採択 韓国マスコミ、非難の大合唱

 鮎川様の『世の中驚くことばかり』から・・・

もう疲れたよ
2005-07-15 / 国際的なこと
扶桑社教科書採択 韓国マスコミ、非難の大合唱 「阻止募金」に政府職員も参加
2005年 7月15日   産経新聞
ソウル=黒田勝弘】栃木県大田原市教育委員会が扶桑社版の中学歴史・公民教科書の採択を決めたことについて韓国マスコミは“興奮気味”に非難報道を展開し、韓国政府も外国の一地方自治教育委員会の動きであるにもかかわらず、国家的次元で非難の公式論評を発表するという破格ぶりだ。
 一方、扶桑社版に対し採択阻止・妨害活動を展開している韓国の関連団体の募金運動に、外務省や国防省など政府職員が参加し注目されている。
 この募金は日本社会に扶桑社版採択阻止を訴えるための意見広告を日本の新聞に出すのが目的。十億ウォン(約一億円)の目標にこれまで約三千万ウォン(約三百万円)が集まったが、あらたに外務省と国防省からまとめて約二千万ウォンが送られたという(十四日付ハンギョレ新聞)。
 大田原市での扶桑社版採択のニュースは日本より韓国で大きく報道されている。テレビは十三日夜から十四日にかけ繰り返し採択非難のニュースを伝え、新聞も「極右対良心…日本の教科書攻防始まる」(朝鮮日報)などとして、反対派の声を中心に伝えている。
 韓国では近年、日本の動きについて政府もマスコミも韓国の立場を支持する勢力を「良心勢力」ともてはやし、その反対派は「極右」とか「右翼勢力」という図式で終始伝えている。扶桑社版反対勢力を内部分析して「左派」とか「左翼勢力」と表現することは決してない。
 韓国政府は扶桑社版採択決定を「深く遺憾」とする外務省の長文の公式論評(十三日)を発表、ここでも「日本の良識を守るため日本国内の多くの保護者、知識人、市民団体が不断の努力を傾けている点を高く評価する」とし「市民間交流による採択阻止」を訴えている。
 盧武鉉政権の対日外交は日本の「国民」ではなく韓国に同調する「良心的市民」を念頭に日本を動かそうというスタイルだ。政府、マスコミとも扶桑社版採択に“危機感”をつのらせ「日本の良心勢力は歴史歪曲(わいきょく)勢力に屈服してはならない。日本の良心勢力と市民社会の奮発、団結がさらに必要な時だ」(中央日報社説)などとしている。

まじ?
もう、やめない?


世の中驚くことばかり! より
http://blog.goo.ne.jp/melody777_001/e/3fdb97dc708725527d78eff5dbb43527

 鮎川先生も「お疲れ」のご様子ですが、韓国のこの過剰とも思える反応はどうなんでしょうか?
 扶桑社版教科書の是非については改めて議論したいところですが、日本の教科書検定制度に、国家ぐるみで「日本社会に扶桑社版採択阻止を訴えるための意見広告を日本の新聞に出すのが目的」の募金活動まで始めてしまうのは、内政干渉とか非難する気力も奪われてしまい、正直脱力なのであります。

 しかしなあ、「日本の良心勢力は歴史歪曲(わいきょく)勢力に屈服してはならない。日本の良心勢力と市民社会の奮発、団結がさらに必要な時だ」と中央日報社説にエールを送られている日本の「良心勢力」って誰のことなんでしょうねえ(苦笑

 さしずめ私が記者登録させていただいているインターネット新聞JANJANなんかも扶桑社版教科書に反対の立場のようですから、韓国からすれば「良心」新聞JANJANなのでしょうか。

 ・・・

 そうすると不肖・木走も「良心」市民記者なのかなあ(苦笑



●「良心勢力」とか「進歩的文化人」とか、いかにも胡散臭いです

 そもそも、「良心勢力」とか「進歩的文化人」という言葉の響きが胡散臭くて、しんどい感じがしてしまうのは、私だけでしょうか?

 そういうグループに限って、「反戦」とか「平和」とか「民主主義」とかを、「断固守れ!」と声高に叫んでいて、何か「反戦」とか「反核」とか、一般人が語りづらくなってしまうほど、香ばしい言葉に変質させてしまっっていますよね。

 荏原様の『荏原仲信のブログ』から・・・

平和と民主主義が好きだ
 「平和」「民主主義」という言葉が大好きだった。何歳くらいの時だっただろう。たぶん小学校の教室で、日本は戦争に負けて平和な国になったと教えられ、いまはもう徴兵制がない国だという事を知ったとき、
 総じて身体的に弱く、後に就職の際は決定的となったハンデもぼんやり自覚していた私は、体力だけが頼りの軍隊では生きていけないだろうと感じていた。
 それを知ったときの、こどもながらに解放されたような気持ち、すばらしい安堵感は、いはゆるガキ大将だった人には分かって頂けないだろうと思う。戦後の日本に生まれてきて良かったとおもった。
 爾来、「平和」も「民主主義」も何をおいても守るべきものと考え、若い頃は発言し、投票し、運動(協力)してきた。
 いまは、「平和」も「民主主義」も手垢にまみれた言葉に成り下がってしまった。「平和と民主主義」と言えば特定の政治勢力の定番の言葉になった。平和団体、民主団体はけっこう暴力もお好きな方々がつくっていて近寄りがたい。
 言葉遣いは、およそ平和とは正反対。「糾弾」「ヤジと怒号」「取り囲む」「抗議」。はては「攻撃」「反撃」「総決起」で相手を「粉砕」「殲滅」するのがお好きとは・・・。
 ある日ある団体の「書記長」という方とお話した事がある。「書記局」って何だ。セクレタリアートか云々。いつの間にか「ソビエト」の話になった。ソビエトとは労働者の協議会であり、一般名詞だ。書記長氏は固有名詞としてのソビエト連邦共和国)のことしか知らなかったので、あとは酒を飲んで別れた。
 いつの日か「平和」という言葉も「民主主義」という言葉も、彼らから取り戻す事が私の目標だ。


荏原仲信のブログ より
http://ebara.air-nifty.com/ebara/

 うーん、木走としてはこの感覚すごく共感できます。
 以前、私も似た感覚でエントリーしたことがあります。

 で、私が語りたいのは、嘆かわしいことに、『平和』とか『人権』という言葉そのものが、とても最近、色が付いてしまったというか、臭いが付いてしまった香ばしい言葉に変質してきたのではないかということなんです。

 反戦反核・反改憲などと同様に、たとえば『平和への誓い』などの表現が、あるグループからは真剣にアピールされるわけですが、別のグループからはうがった、ある意味で揶揄の対象となるような表現とみられてしまうんですよね。

 そのレベルの議論・討論などはJANJANでは、それこそ日常茶飯事なのですが、で、木走が何をいいたいのかっていいますと、この『平和』とか『反戦』ということばの属性にすっかり臭いが付着してしまい香ばしくなってしまったのは、個人的にすごく迷惑だなあと思っているのです。リベラルな人からも保守派の人からも、批判されそうですが・・・

 木走は戦争は大嫌いであります。原子力発電の問題でも反対の立場です。ようは、気が小さいだけかも知れませんが、人を殺すのも殺されるのも嫌でありますし、原発なんかもいちおう理系の人間としてプラント建設設計のシステムにも関わったことがありますが、おっかなくてしょうがないです。はい。

 でも、『反戦』とか『反核』とかを口にすると、すぐにイデオロギー的反発を買いかねないんですよね。

香ばしいことば『平和』〜反戦反核・反改憲
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050318/1111126050

 なんだろう、私は扶桑社版教科書や産経グループとは歴史認識をはっきり異にしている人間ですが、合法的に採択されるのであれば、それはそれで構わないと思っているし、実際読みましたが、神話の部分が大きく取り上げられているのには苦笑せざるを得なかったけれども、言われているよりもずっと真っ当な読みやすい教科書だと思いました。
 歴史認識はそれこそ多元的なわけでいろいろであってよいと思っています。



●「良心勢力」には多価値社会を認める包容力がほしい

 その辺の歴史認識の多元性については、くまりん様が『くまりんが見てた!』で、ザッパリと論破されています。

各国の戦争観を平等に扱ってみる
あの小田実氏がこんなことを言うなんてなどと思う人はあまりに日本の戦後思想史に無知過ぎるのだろうが、昨今「中国や韓国と歴史認識を共有出来れば」などという話題が出る中でまるで正反対のことを書くようで申し訳ないが自国を正当化しようする態度の前で歴史認識の共有などクソ喰らえだよね。それぞれが自国を正当化するならそれを併記するのが良いんじゃないか?そうやって中高生に歴史を教えるのも悪くないかも知れない。例えば毛沢東はどうしても日本と戦争をやりたかった。戦争をやってバカな人民の熱気で皇帝になりたかった。だから周恩来を遣わして西安蒋介石を幽閉して無理矢理国共合作を成し遂げた。日本軍のふりをして同胞である中国人を襲ったりもして中国人の反日感情を高めた。目的のためには手段を選ばないのが共産主義のやり方で文化大革命の時だってそうしたのだよ。それが中国共産党の伝統的で正当なやり方であり、正義なのだとちゃんと中国人民に教えればいいのです。ウイグルチベット見たってわかるでしょ!


くまりんが見てた! より
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=845

 そうなんですよね、韓国がいう「良心勢力」が誰を指すのかは別として、「日本の右傾化」教科書ばかり非難しては片手落ちなのでありましょう。この辺りは「未来を開く歴史」書評としてJANJANにも記事投稿したので1両日中に掲載されるかもしれませんので、その時あらためて当ブログでも議論したいです。
 他国に排外的な狭義の愛国主義は、私の最も嫌悪するところでありますが、おのおのの歴史認識の差分を認め合い、差分も含めて理解し合い尊敬し合うような大人の関係が望まれるのだと思います。

 そう言う意味で「良心勢力」に本当の良心があるのならば、多価値社会を認める包容力が求められるのではないでしょうか?

 読者のみなさまは、いかが考えられますでしょうか?



(木走まさみず)

<関連サイト>
『世の中驚くことばかり』
http://blog.goo.ne.jp/melody777_001/e/3fdb97dc708725527d78eff5dbb43527
『荏原仲信のブログ』
http://ebara.air-nifty.com/ebara/
『くまりんが見てた!』
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=845

<関連テキスト>
●香ばしいことば『平和』〜反戦反核・反改憲
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050318/1111126050
●こりゃ歴史観の共有などは夢のまた夢?
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050712/1121139213
●「未来を開く歴史」は未来を開けるのか?
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050717/1121571654