木走日記

場末の時事評論

ブログ雑感

 昨日、『ブログの時代がやって来た?』で書いたテキストなんですが、まあ、アメリカのことについての話題が中心ではありましたが、いまひとつ実感が持てなくて、書いたあとで無責任ではありますが、いろいろネット内をぶらつきつつ再考してみました。

 現状の日本のブログ界(そんな世界あるのか?)の状況はどんなものなのだろう。

 くまりんさんが『くまりんが見てた!』の3月14日のたわごと(http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=775)で述べています。
私の拙稿についての話題にからんでの話題で恐縮ではありますが

(前略)
 ところがネット一般ではどうだったのか。ブログでこの件を扱っているところは多数だったけれど殆ど読むに値しないような、昔の 愛さん 風に言えば「普通につまらなくて居眠りしてしまいました」ようなエントリーが多かった。ブログの普及は確かにネットを面白くしたと思う。html の知識がなくても読み書きのリテラシーの高い人はすぐに面白い人気ブログを作ることが出来る。その反面「普通につまらなくて居眠りするような」ブログはもっと増えて、結局ネットが実社会により近づいたのかも知れない。
(後略)
『くまりんが見てた!』の3月14日のたわごとより引用

 ブログが普及してその数が多くなっていき、質(クオリティー)と量(クオンティティー)の問題が顕在化しつつあるということでしょうか。

 このあたりの問題意識をおもしろい視点で考察されているのが、『階層社会の美学』さん(http://d.hatena.ne.jp/mikill/20050316)でありまして、

(前略)
 特別な情報や、着眼点、発想、文章スキル、そういういわゆる既存媒体でも求められる明確な能力以外に、人気ブログを支える条件というのはあるはずで、これが「移籍」をしても継続性のあるものなのか微妙なところである。とはいえ既存媒体でも求められる能力が明確に認められるならばそれなりに人気は継続するのだろう。ブログとはいえ全くつまらないものが人気を博すことなどないだろうし、また人気があるというそのことがブランド化し、それは「部分」という流動的性質を固定化させるから、まあ概ね丈夫なんじゃないの、ということだ。
(後略)

 で、御自身を謙遜されながら、こう続きます。

 しかしこういう低レベルな文章であっても金銭の発生する既存媒体と違い、打ち切られることなくダラダラと続けられ自由さがブログなりインターネットのいいところである。

 木走的にまとめてみると、やはりブログとはいえ、時事評論などのように、パブリックに対しある程度影響力を持つコメントを発信しようとするならば、それなりの着眼点と内容が求められるわけで、競争原理とまではいかないまでも自然に人気の優劣ははっきりしていき、淘汰の過程があってもしかるべきなのでありましょう。

 かたや、私的日記風ブログや趣味のブログなどを中心に、小さなコミュニティーの場としてのブログは、さきの競争原理とは無縁に、その数を増やしていくことでしょう。

 ブログの持つ多様な特性の中のひとつとして、『階層社会の美学』さんいうところの、「打ち切られることなくダラダラと続けられる自由」があるわけですから。

 kourickさん(http://kourick.net/news.htm)経由でこんなテキストも知りました。

『blog のここが嫌い』(http://homepage3.nifty.com/fwjd1945/column-2/2005-01-06.html

(前略)
blog のどこが好きになれないかというと、一言で言うなら、そのコミュニティ性でしょう。

私がこのサイトを blog の仕組みを利用して作ったとしましょう。そうすると、多くの blog サービスやツールでは、読者の皆さんは、私が書いたものに対してコメントを付けることが出来ます。それも私だけに対してコメントを送るのではなく、掲示板のように誰もが見られるような形で。

これがイヤなんですよね。メールなどで私個人宛にコメントを頂くのは歓迎なのですが、コメントを不特定多数と共有したいとは全然思わないのです。コメントが誉め言葉であれ、批判的なものであれ、有用な情報であれ、です。ちょっと背中がモゾモゾする感じです。

学術的な議論の場などでは、コメントの共有は意義のあることでしょうが、私がここで書いているようなことに関しては、共有に意義を見出せません。むしろ、イヤです。言いたいことは、メールなどでお願いしたいですね。もし仮に、そのコメントが共有するに値すると私が判断し、コメントした方の了解が頂ければ、私がここに載せますから。「デフォルトではコメントが共有される」のがイヤなんですよ。「デフォルトでは個人宛コメントで、サイト・オーナーの判断で共有」ならば良いのですけど。
(後略)

 なるほどねえ、「ちょっと背中がモゾモゾする感じ」なのは共有できる感覚ではあります。

 この意見は個人的見解なのでそれに対する批評は控えますが、テキストに対するコメントひとつとってもいろいろな解釈があるわけで、まあしかし、木走としては、コミュニティーを活性化させるブログの持つ特性をポシティブに捉えたいですね。

 今のブログの機能に不満がないわけではないですが、リンクしあったり、トラバしあったりしながら、ちょうど、今日のこのテキストの形態がそうですが、複数の人の意見を取り入れつつ情報発信していくことが可能であり、しかも即時性を有していて、インタラクティヴな双方向性も併せ持つ媒体として、ブログの特性を私としては、高く評価しています。
 ひとつひとつのブログは『部品』にすぎないかもしれませんが、ネット網としての『部品』群のもつ情報発信能力は、既存メディアに対抗できる潜在的可能性があると思っています。

 読者のみなさまのブログ論も伺いたいところであります。

●追記。(2005/03/17 20:15)

 くまりん氏が当テキストのリレーエントリーをされました。
 くまりんさん、ありがとうございます。

『ブログ雑感 木走さんへのリレーエントリー』http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=778

 う〜ん、さすがであります。分析が深い! 「大乗仏教批判」から「PHPWordpress」まで語ることのできるくまりんさんならではのエントリーです。

 読者のみなさんも、驚異のくまりんワールドを味わってくださいませ。

 あと、コメント欄で、drondron氏が、情報提供していただきましたが、『ネットは新聞を殺すのかblog』の湯川氏の本日のエントリー『プロのジャーナリストでなければできないのか』が、話題が関連しています。とても興味深い記事であります。

『プロのジャーナリストでなければできないのか』http://kusanone.exblog.jp/1756542

drondron様、情報ありがとうございました。


<関連テキスト>
●ブログの時代がやって来た?
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050316