木走日記

場末の時事評論

あらゆる反証不可能な政治的主張は「科学」ではない

私が非常勤講師をしている学部は理工系であります。

もちろん会社経営をしながら非常勤講師を務めてきた私などは、学術の王道からは遥かにはずれており学者にとって名誉職でもある『日本学術会議』会員になどなれるはずもありませんし、推薦されることも100%ありません。

日本学術会議のホームページをみれば、「科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的」としていると高らかに謳っております。

日本学術会議とは

日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立されました。職務は、以下の2つです。

科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

http://www.scj.go.jp/ja/scj/index.html

うむ、では「科学」とはなんぞや、非科学とは何が根本的に異なるのでしょうか。

工学系エンジニアの端くれとして自然科学における科学的方法に基づく学術的な知識、学問について、私見を述べさせていただきます。

科学の定義は反証可能性−つまり、反証できるかどうかということです。

カール・ポパー(1902〜94年)が『科学的発見の論理』のなかで、「科学は、常に反証できるものである」という定義を初めて示しました。

一般の人が考えている科学のイメージというと、実験によって理論が「検証」されるといったイメージがあります。

ある種の実験をすると、ある理論が正しいということが決定的に決まる、証明される、というようなイメージがあるわけです。

ポパーは逆説的に科学を考えたのです。

もしその理論がうまくいかないというような事例が一回でもでてしまえば、つまり反証されれば、その理論はダメになってしまうということです。

つまり、100万回実験を行って100万回理論を支持するような実験結果がでてきたとしても、その次の100万1回目に否定的な結果、理論がうまくいかないことを示すような精密実験データがでてきたら、もうその時点でその理論は通用しなくなる。

要するに、決定的な証明などということは永遠にできない、ということです。

反証可能性を持つ仮説のみを科学的な仮説とみなす科学哲学上の立場を反証主義と呼びます。

反証主義によれば、科学理論は反証可能性を持ちつつ未だ反証されていない仮説の総体であると定義されます。

そして、厳しい反証テストに耐え抜いた仮説ほどより信頼性が高いものとみなされるわけです。

ニュートン万有引力の法則は、火星などの惑星の軌道を説明するのに矛盾なく見事にその軌跡を計算できました。

しかしもっとも太陽に近い水星の軌道のわずかなゆらぎを説明することはアインシュタイン相対性理論によらなければならなかったのです。

ニュートンの法則は反証されました。

アインシュタイン相対性理論も現在は反証されていませんが、「仮説」に過ぎない点では科学的には平等な扱いを受けています。

ようするに、科学的仮説は永遠に真理には届かないのであり、ここが数学と科学との決定的な違いなわけです。

もちろんポパーはこのような科学の持つ宿命的限界を持って、科学的思考を否定しているわけでは断じてありません。

仮説と真理は切ない関係、つまり仮説は永遠に真理にたどり着けない宿命にあるわけですが、科学が反証可能性を有しているからこそ、その他の非科学的論説といわれるものと区別できるのだと言っているのです。

たとえば疑似科学とか宗教とか共産主義などの政治思想は、反証可能ではないとポパーはいいます。

たとえば、共産主義の国がうまくいかずにつぎつぎと崩壊したのは記憶に新しいですよね。もし共産主義が科学的であるならば、うまくいかなかったんだから共産主義はという考え方はダメだったんだ、ということになるわけです。

しかし、実際はそうはなりませんよね。共産主義の国が倒れても、共産党は存在します。日本にも存在するし、ロシアにも残っています。

つまり、まったく反証されていないわけです。

あれは本当の共産主義ではなかったんだとか、やり方が悪かったとか、いろんな言い方をすることで共産主義自体は存続するわけです。

だから、ポパー曰く、共産主義は科学ではないんです(私は共産主義に反感をもっているわけではありません。あくまでも、科学か否か、という区別の話をしているだけです。科学ではないからといって悪い、というような価値判断は一切関係ありません)。

ですからあらゆる反証不可能な宗教的主張や政治的主張は「科学」ではありません。

例えば「軍事的安全保障研究」を否定する声明は、何をもって軍事的研究なのか定義があいまいで反証できません、これは科学的態度とは言えません。

軍事的安全保障研究に関する声明(2017年3月24日)
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/gunjianzen/index.html

これは全く合理性のない科学的ではない物の言い方です。

なぜなら、ある仮説の科学論説は、他者がその仮説の反証実験するための唯一の科学的拠り所であり重要なデータであり真摯に誠実に科学的事実に忠実に語られなければなりません。

「軍事的安全保障研究」を否定するこの声明は、科学的に反証することは不可能です、何をもって軍事的研究を指すのか明確化されていないからです。

こうなると「戦争」を否定する声明と同値です、誰も反証できません点で、もはやある種の「宗教」と化しています。

工学系エンジニアの端くれとして、科学が論ずるべきは、あくまでも自然科学のように純粋に研究対象であってほしいと思うのです。

その意味で、自然科学者であったノーベルが、文学賞(経済学賞は後に新設)以外に、人文科学、社会科学に賞を設けなかったのは深い理由があると思えるのでした。



(木走まさみず)