木走日記

場末の時事評論

政府は名護市長選の結果は無視せよ〜「地域エゴ」的基地反対運動は国民への求心力を持たない

 20日付け読売新聞紙面2面において、松本宏朗読売新聞政治部長が「地方選を悪用するな」という記事を掲載しています。

地方選を悪用するな

政治部長 松本宏朗

1月20日付け読売新聞 紙面2面

 ネットでリンクが貼られていませんが、たいへん興味深い内容なので、要旨を読者にご紹介しましょう。

 記事は沖縄名護市長選と東京都知事選において「地方の首長選挙で国政の是非を前面に掲げて争うことは、現行憲法下の地方自治体の仕組みからみて、好ましいことではない」と指摘して始まります。

 沖縄名護市長選は、米軍普天間飛行場の移設問題が主要な論点となった。東京都知事選でも、細川護熙元首相が「脱原発」を掲げて出馬準備を進めている。
 だが、地方の首長選挙で国政の是非を前面に掲げて争うことは、現行憲法下の地方自治体の仕組みからみて、好ましいことではない。

 続いて地方自治法第一条を取り上げ「日本の平和と安全に欠かせない在日米軍基地の確保も、あらゆる経済活動の基盤となるエネルギー源の確保も、すぐれて「国家としての存立」にかかわり、「全国的な視点に立って」行われるべきもの」と論を展開します。

 地方自治法は、国と地方自治体の役割を次のように整理している(第1条)。
 地方自治体=住民の福祉の増進を図ることが基本。身近な行政はできる限り自治体に委ねる。
 国=国家としての存立に関わる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動、全国的な視点に立って行われなければならない施策を担う。
 日本の平和と安全に欠かせない在日米軍基地の確保も、あらゆる経済活動の基盤となるエネルギー源の確保も、すぐれて「国家としての存立」にかかわり、「全国的な視点に立って」行われるべきものだ。

 さらに地方の首長選は「住民投票」のように発想するのも間違いであると主張します。

 地方の首長選を国政の是非を問う機会−−−いわゆる「住民投票」のように発想するのも間違いだ。
 憲法が規定する住民投票は、一つの自治体に適用される立法行為を行う場合に限られる。地方自治体は、住民投票による「議会の解散」「議員の解職」「首長の解職」を定めているが、一定数の署名を集めるという制約を課している。自治体によっては、条例で住民投票を定めているところもあるが、投票結果には法的な拘束力はない。
 これを見ても、地方の首長選で国政の課題を争点化することはなじまないし、まして選挙の結果で、国政を揺るがすようなことはあってはならない。

 名護市長が基地移転を妨害するならば憲法に照らして「首長による権限の乱用以外の何物でもない」と断罪します。

 確かに、首長が自身の権限を使えば、国政をマヒさせることは可能だ。名護市長が港を資材置き場として使うことを許可しなければ工事が滞る。燃料タンクの設置を許可しなければ、基地ができても輸送機を配備できなくなる恐れがある。
 だが、これは「地方自治体の本旨」(憲法92条)に照らして、首長による権限の乱用以外の何物でもない。

 都知事選においても「行政府の長を経験した元首相の2人に、この認識が極めて乏しい」と批判します。

 都知事選もしかり。「東京電力の株主だから・・・」「脱原発住民投票を知事が許可すれば・・・」。こうした発想自体が大きなあやまりであることを、都知事選の候補者たちには正しく理解して欲しい。
 残念なのは、行政府の長を経験した元首相の2人に、この認識が極めて乏しいことだ。
 「原発ゼロでも日本は発展できるというグループと原発なくして日本は発展できないんだというグループの争いだ」(小泉元首相)
 「原発の問題は、知事として非常にやりがいのある仕事だ」(細川元首相)

 記事は「地方の首長選を悪用してはならない」と結ばれています。

 原発政策を左右したいのなら、新党を作って、国政選挙で国民に問えばよい。
 地方の首長選を悪用してはならない。

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 松本宏朗政治部長のたいへん興味深い内容の記事です、「原発政策を左右したいのなら、新党を作って、国政選挙で国民に問えばよい」というのは明快な主張でありましょう。

 地方自治法憲法まで持ち出して言いたいことは理解できるのです、できるのですがただこの主張は少々暴論のそしりは免れないでしょう。

 松本政治部長のこの強固な主張は誤解を与えかねないのです、地方自治体の首長選で何を争点に主張するかは候補者の勝手です、そこに何ら制約を受けないことは、それこそ憲法で保証されています。

第二十一条
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 いわゆる表現の自由ないしは言論の自由の日本における根拠条文であり、集会の自由ないしは結社の自由も、表現の自由に類するものとして本条により保障されているのです。

 地方選であれ候補者(政治家)の主張はいかなる制約を受けるものではありません。

 地方自治とはまったくなじまない「世界平和」を主張しても「非核宣言」を主張しても自由です、そもそもその候補者の主張を審判するのは選挙戦の有権者達です、とんちんかんなら落選するだけです。

 ・・・

 地方自治体議会において、地方自治体が自身を非核地帯(Nuclear Free Zone)と宣言するか、または核兵器の廃絶を内外に訴える宣言を表明することで、その宣言を発した自治体を「非核宣言自治体」と呼びますが、これ、日本非核宣言自治体協議会によれば、298の自治体がすでに宣言しています。

日本非核宣言自治体協議会
(現在の会員自治体数 298)
http://www.nucfreejapan.com/

 これですね、本来、外交や国防は国の専管事項なのですが、核戦争の危機のなかで、住民の生命と財産を守ることを使命とする自治体が国家にすべてを委託できないとして、国家に対して行う「異議申し立て」の企てなのだそうです。

 東京都中野区なんかも条例まで作って宣言していますが、隣接区在住の私などは、中野区議会はアホか、こんな宣言まったく時間と税金の無駄でしょ、と評価しませんが、それでも「世界平和」を主張するのは各自治体の勝手です、憲法で保証された自由です。

 ・・・

 さてこの問題、少しアングルを変えて考察してみたいです。

 話は8年前にさかのぼりますが、当時、山口県岩国市の住民投票で、在日米軍再編に伴う米空母艦載機移駐計画に「反対」とする票が多数を占めたことが、大きな議論を呼びました。

 当時ネット新聞の記者をしていた私はこの問題を「地域エゴVS国家エゴ」の対立構図として記事にしました。

岩国住民投票は地域エゴVS国家エゴ
木走まさみず2006/03/17

米軍再編計画の対象地域での反対運動は、多数の傍観者から見れば「地域エゴ」。各地でばらばらに行われ広がりが見えない運動は、国民への求心力を持つことはない。

http://voicejapan2.heteml.jp/janjan/government/0603/0603160904/1.php

 記事の中で当時私は「国家エゴ」と「地域エゴ」の衝突で「地域エゴ」に勝利はない」と主張しています、少し長いですが、当時の記事の主要部分を抜粋して紹介。

●「国家エゴ」と「地域エゴ」の衝突で「地域エゴ」に勝利はない

 現在の日本は議会制民主主義の国であり、言うまでもなく多数決の論理により多数意見が政策に反映される仕組みになっている。その点で少数意見は軽視されがちであるのは万人の認める民主主義の欠点でもある。

 多数意見が必ずしも正しいわけでもなく、またポピュリズムの弊害を指摘する評論もよく見聞きするわけだが、上記の産経社説のように、少数意見を押さえ多数意見を支持するときの主として保守派の論説のひとつの根拠が「国益にかなう」ということであろう。

 この「国益」という概念は、おそらく古典的功利主義に根ざす「最大多数の最大幸福」という概念を「国」「国民」という範囲でとらえたものなのであろう。

 功利主義の主唱者はベンサムJeremy Bentham:1748〜1832)で、「道徳および立法の原理の序論」を書き、幸福は量的に測定可能だとし、人生の最大の目的は「最大多数の最大幸福」にあるとした。「一人でも多くの人の少しでも多くの利益(幸福)を目指す」ことを提唱する功利主義的政策は、今日広く世界の民主主義国家で認められている政府・国家の役割のひとつとされている。

 「国益」というのは、国家単位での利益優先、その意味では「国家エゴ」と呼べるものだろう。そして、この功利主義の最大の問題は、幸福(利益)の配分の不公平という点にあることも有名な話ではある。「みんなの利益は特定個人の利益よりも優先されるべき」だから。

 現在の民主主義などと言うモノは、決して「自由」でも「平等」でもない未完成の政治システムであることのひとつの証左ではあるのだろうが、ときにしばしば、「国益」の名のもとに、多数派の利益のために少数派の意見が無視されることは、別に日本だけでなく各国の政策でほぼ共通してみられる現象でもある。

 功利主義的な側面を持つ議会制民主主義国家において、政府が「国益」を優先させる政策を行いかつ、特定地域の主張がその国益優先政策とぶつかった場合、少数意見が勝てる見込みはほとんどないのだ。

 つまり、「国家エゴ」と「地域エゴ」の衝突ならば、残念ながら少数派の「地域エゴ」に勝利はない。

●「地域エゴ」的基地反対運動は国民への求心力を持たない

 岩国をはじめとした日本の基地反対運動は、このように「地域エゴ」と捉えられ、国民の支持を得られていないように思う。その具体的な事由について考察してみよう。

 日本各地の反対運動はバラバラである。先頃、沖縄では普天間基地の代替地として、日米両政府は、名護市辺野古に建設することで合意した。沖縄県民の多数の声は完全に無視された。そして今、岩国でも、厚木基地の機能移転が、これまた関係自治体の反対を無視して強行されようとしている。

 岩国と沖縄との違いは、反対の声を上げているのが直接被害を受ける関係自治体に限られ、県を挙げての動きはまったくないことである。このほか、米軍再編計画の対象とされる地域でも、沖縄、岩国と同じような反対運動が行われているが、運動の広がりは狭い範囲でしか起こっていない。

 このように各地の反対運動が互いに個別で独自な形でしか行われていないという現状は、まさに多数の傍観者から見れば「地域エゴ」にしか映らないわけである。

 それは、国民の多数派が日米安保は日本を外敵から守るためのもので、それが故に必要とする従来からの安保肯定論の認識を有していて、したがって、米軍の日本駐留は必要、日本が在日米軍に基地を提供するのもやむを得ないという総論的判断に傾いているからだ。

 このような「総論賛成」が前提となりそれが「国益」とみなされると、しかし自分の住んでいるところに基地が移転したり強化されたりすることには反対という主張に対しては、「地域エゴ」という烙印が簡単に押されてしまうのは自明であろう。

 結果として、基地問題に悩まされない幸運な立場にある日本のほかの地域も、各地の反対運動に無関心を決め込むことになる。

 ・・・

 まとめです。

 政府は知事の承認を受け、今年は埋め立てのための測量調査や普天間の代替施設の設計を進める予定です。移設実現までには、基地の燃料タンク設置や河川切り替えの許可や協議など、名護市長がかかわる権限が約10項目あります。

 稲嶺氏はこれを移設阻止に利用しようとするでしょう、それが彼の選挙公約だからです。

 アメリカとの公約を守り「国家エゴ」すなわち「国益」を優先すべき政府は、このような「地方エゴ」を無視すべきでしょう、反対行動には法律を変えてでも毅然と対処するべきです、それが善し悪し含めて近代民主主義国家です。

 これは自民党安倍政権の覚悟の問題でもあります。



(木走まさみず)