木走日記

場末の時事評論

首相のいない九月


 
 平成22年9月7日、午前海上保安庁に緊急電が入りました。

 午前10時56分ごろ、尖閣諸島久場島(くばじま)から北西約15キロの日本領海内で、違法操業の中国のトロール漁船「ミンシンリョウ5179」(166トン)と同船に立ち入り検査を行おうと停船を命じながら追跡してきた日本の巡視船「みずき」(197トン)が衝突したとの報でありました。

 幸い双方の船に大きな損傷はなくけが人もありませんでしたが、衝突の原因が立ち入り検査を行おうと停船を命じながら追跡してきたみずきに中国のトロール漁船がかじを左に急操作したため、外国人漁業規制法違反の疑いだけでなく、公務執行妨害の疑いで漁船の船長で中国籍ヂャン・チーシォン容疑者(41)の身柄を洋上で捕らえるとともに、乗組員14人を乗せた漁船を拿捕いたします。

 海上保安庁は悪質な公務執行妨害の疑いもあり船長逮捕の方針を固め、政府に打診します。

 連絡を受けた民主党政府内は代表選最中のことでもあり、海上保安庁を所管する前原誠司国土交通相(当時)と岡田克也外相(当時)、それに仙谷由人官房長官のおもに三人の間で話し合いがあったようです。

 政権内の意見は割れていました、前原国交相は事件発生直後から強硬路線を主張、また 岡田外相も「我が国の領海内における公務執行妨害なので、法執行しないわけにはいかない」と主戦論を唱えます。

 対して「仙谷由人官房長官は最初は逮捕しなくてもいいんじゃないか。と言っていた」(政府筋)が、岡田、前原両氏の意向も踏まえ、逮捕後に略式起訴の決着を探ることで、海上保安庁の船長逮捕の方針にゴーサインを出すことになります。

 衝突事故発生から約12時間が経過後の午後10時30分、政府からやっとゴーサインを受けた海上保安庁那覇地裁に中国人船長の逮捕状を請求しました。

 8日未明に逮捕状を洋上で執行します。

 この初動のドタバタ逮捕劇に、後に中国を硬化させる要因となるいくつかの判断ミスがあったのです。

 政府関係者は、「あそこまで強硬にやるとは……。海上保安庁の船長逮捕の方針にゴーサインを出した時、甘く見ていたかもしれない」と、そもそも「初動」に判断ミスがあった、と苦々しげに振り返っています。

 ミスのひとつは外国人漁業規制法違反だけでなく公務執行妨害という国内法を尖閣諸島領海内で適用することの重大な外交的意味を正しく認識していたのか、認識していたとして中国政府がこれをどう受け止めるのか覚悟の上での適用だったのか、この点であります。

 後の中国のかたくなな強行策からこの国内法適用が必要以上に中国を刺激したことは想像に難くありません、「日本は尖閣で守られてきた一線を越えた」と中国側は認識したはずです。

 もうひとつは「強制送還」という選択肢を無自覚に自らつぶしたことです。

 小泉政権時に尖閣諸島に強行上陸した中国人を2日後に強制送還したケースがありましたが、これと比較すると、あの強行上陸は違法入国扱いであり偽パスポートやオーバーステイなどと同様の「強制送還」は妥当であったし公務執行妨害などの悪質な行動もなかったわけですが、今回の場合、公務執行妨害というより重い罪状の疑いを適用することで、短期間で「強制送還」することは厳しい状況になることをどこまで認識していたでしょうか。

 誤算は続きます。

 仙谷官房長官は逮捕後に略式起訴による早期決着を探るつもりでいたのですが、送検された船長は容疑を否認し続けます。

 容疑者が否認する場合、略式起訴は当然不可能であり、逮捕後の拘置が避けられない、事件は一気に長期化いたしました。

 ・・・

 私は今回も小泉政権時のように短期に「強制送還」すべきだったという論に与しているわけではありません。

 不退転の政治姿勢で国内法で粛々と対処すればよかったと今でも思っています。

 だからなおさら、前原国交相や岡田外相など「公務執行妨害」で強硬路線を主張した民主党政権の人達がどこまでの「覚悟」で「国内法で粛々と対処する」との言葉を発していたのか、そこのところを厳しく問いたいのです。

 結果論ですが中国の圧力に耐えきれず「超法規的措置で無条件釈放」という今回の対応を「地検」にさせて国際的に「日本白旗」と外交的敗北となるぐらいならば、短期で「強制送還」という選択肢も、それはそれで当然批判が起こっていたでしょうがまだ傷は浅く済んでいたはずです。

 そして仙谷官房長官です。

 状況判断の甘さは目を覆いたくなるばかりです。

 逮捕後に略式起訴による早期決着を計るならば、本人が否認した場合はどう対応するのか、リスク管理しておくべきです。

 初日の時点ならばいくらでも「外交的配慮」を選択できたはずです。

 外国人漁業規制法違反の疑いだけに絞っての逮捕にしておけば選択肢は残っていたはずです。

 公務執行妨害は隠しておけばよかった、こんなことはお得意の別件逮捕よりも検察の常套手段です。

 つまり調べた結果、公務執行妨害の疑いも浮上したと後付けも可能でしたでしょう。

 民主党政権は、初期の段階から強硬派と穏便派に割れていて、しかも両者とも後々のことを正しくしっかりと考えてはいなかったことが理解できます、そもそも「粛々」と政策を維持していく「覚悟」など端からなかったわけです。

 そして菅総理大臣。

 読者に特に留意していただきたいのは、この事故発生初期の段階で日本国政府の基本的行動の指針は政権内の仙谷官房長官を中心とした極めて限られた少数の人間により決定をされていた事実であり、付け足すならば代表戦中とはいえ菅総理大臣が完全に部外者・門外漢扱いになっていたということです。

 菅氏本人にもちろん報告はいっていたでしょうが、報道によれば、この重要な方針の決定に最高指揮官であるべき菅氏の姿は最後まで登場しません。

 後にも触れますが、責任の所在なき民主党政権の無責任体質はこの事件の初日から実に顕著だったと言えそうです。

 ・・・  

 ・・・

 始まりからして無責任なら、終わりは無責任の極みといった展開が待ち受けていました。

 那覇地検は24日、突然、中国漁船船長を処分保留で釈放すると発表しました。

 那覇地検は処分保留とした理由について「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮した」と述べます。

 この発表を受けて、仙谷官房長官民主党・岡田幹事長は24日、あくまでも那覇地検の判断だったと強調します。

 仙谷官房長官那覇地検の判断ですので、それを了としたい。私自身は、粛々と国内法に基づいて手続きを進めた結果、ここに至ったと、こういう理解です」

 岡田氏「那覇地検でそういう判断をしたということであれば、それについて憶測を交えてものを言うことはできないと思う。地検の判断というものは尊重されるべきだと思います」

 日中間の大きな外交問題に発展していた案件の重大な日本国家の方針を、なぜ一地検の次席検事が発表するのか、そもそも一官僚が政府になり代わり「わが国国民への影響や今後の日中関係を考慮」と表明するなど前代未聞であります。

 筋論で言えば、政治主導で検察を動かすならば柳田法務大臣が指揮権を発動すべきであります。

 政府が検察に代弁させたな、つまり地検を矢面にしたと、誰しもが思う当然の疑問でありましょう。

 実際に「船長釈放」に動いたのは、仙谷官房長官と前原外相だったとされています。

 那覇地検が船長を釈放すると発表したその半日前の23日朝(ニューヨーク時間)、日中関係の行方を懸念するクリントン国務長官と向かい合った前原外相は、こう自信ありげに伝えているのです。

 「まもなく解決しますから」

 穿って見れば、菅首相と前原外相が揃って訪米しているこの時期は責任回避のタイミングとしては絶好であったのではないでしょうか。

 現時点では推測の域を出ませんが、政府に代わり那覇地検が船長を釈放すると発表するこのシナリオを描いたのは、仙谷官房長官本人と前原、岡田の3名がやはり中心だったのではないでしょうか。

 ・・・

 ここでも菅首相の姿は一向に本件にて見えていません。

 それも当然です。

 これは日経記事によりますが、菅氏は訪米前に仙谷官房長官に苛立ちを隠さず本件に関してこう指示したというのです。

 「何とかしろ」

 驚くべき他者発言です。

 国会召集前にこの問題の幕引きを図るように命令したといいます。

 自分では何の責任もリスクも負わない内閣総理大臣

 閣僚達も一地検を矢面に立たせて涼しい顔をしている政権。

 ・・・

 ・・・

 リーダーがリーダーの責任と覚悟で方針を示すことができない、リーダーシップが不在の組織、それが今の民主党政権であります。

 リーダーが責任も取らないし方針も示さないから、構成員は無責任にバラバラな行動をするつまりフォロアーシップ(リーダーを支える力)も不在になります。

 リーダーシップもフォロアーシップも不在の組織は誰も責任を取りません。

 悲しいことにそれが日本国の現政権の実態だということです。

 現在この国に国権の最高責任者たる「総理大臣」はいないのです。

 いるのはその肩書きを守るだけに汲々としている男がいるだけです。
 
 この国が将来存続できていればですが、今回の事件はこの国の歴史に刻まれることでしょう。

 2010年9月にこの国に責任ある政治リーダーはいなかった。

 「首相のいない九月」だったと。 



(木走まさみず)



<<参考記事>>
【7日】
海保巡視船、尖閣諸島で中国漁船と接触 けが人なし
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/100907/dst1009071216003-n1.htm
【 8日】
尖閣諸島近海 海保巡視船に接触の中国人船長を逮捕 石垣島
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100908/crm1009080226001-n1.htm
漁船衝突で丹羽大使に抗議=「妨害」中止を要求−中国
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201009/2010090700615
【 9日】
巡視船衝突の中国漁船船長、公務執行妨害で送検
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100909-OYT1T00455.htm
【11日】
ガス田交渉、中国が延期発表 衝突船長逮捕に抗議
http://www.asahi.com/politics/update/0911/TKY201009110102.html
【12日】
中国漁船衝突:中国・国務委員、丹羽大使を未明呼び出し
http://mainichi.jp/select/world/news/20100912k0000e030001000c.html
【13日】
中国漁船衝突:官房長官が「遺憾」 丹羽大使呼び出しで
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100913k0000e010039000c.html
中国人船員14人が帰国=船長釈放を要求−漁船衝突
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201009/2010091300598
【16日】
中国漁船・尖閣領海内接触:強まる反日感情 日本人社会に不安感
http://mainichi.jp/select/world/news/20100916ddm002040072000c.html
国交相、漁船と衝突の巡視船視察 衝突は「強い衝撃と認識」
http://www.47news.jp/news/2010/09/post_20100916120022.html
【17日】
尖閣衝突に抗議 中国、1万人訪日旅行中止
http://www.asahi.com/international/update/0917/TKY201009170193.html
尖閣沖衝突 中国船長を起訴へ 検察「厳正に処分」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100917/trl1009170131000-n1.htm
【19日】
中国人船長の拘置延長=尖閣沖漁船衝突−石垣簡裁
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201009/2010091900170
尖閣沖衝突 中国で反日デモ相次ぐ 柳条湖事件79年に合わせ 当局、自制呼び掛け
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/198418
【21日】
漁船衝突:海保ビデオ公開に慎重 仙谷官房長官
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100922k0000m010068000c.html
【22日】
前原外相、「中国は大事な隣国」 政府対応の説明に意欲
http://www.47news.jp/news/2010/09/post_20100922114901.html
漁船衝突、国内法で対応=尖閣は「わが国の領土」−前原外相
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201009/2010092200164
官房長官は「ハイレベル協議が必要」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100922/plc1009221229007-n1.htm
「日中知事交流」も延期、中国側が通告
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100922/plc1009221948016-n1.htm
SMAP上海公演延期…漁船衝突事件余波
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100922-OHT1T00038.htm
【23日】
中国がレアアース対日輸出を禁止か、尖閣問題で NY紙
http://www.afpbb.com/article/economy/2758993/6215610?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics
【24日】
中国当局、フジタ社員ら4人拘束 漁船衝突に絡み長期化も
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092401000081.html
中国首相「主権や領土、妥協せず」 国連総会で明言
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959CE0E6E2E2808DE0E6E2EBE0E2E3E2E2E2E2E2E2E2
尖閣日米安保適用対象」クリントン長官、明言 日米外相会談で
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100923/plc1009232313021-n1.htm
周辺は安保対象と米軍制服組トップ 国防長官も「責任果たす」
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100924/amr1009241011002-n1.htm
「対中関係、緊密に連携」 日米首脳会談で認識一致
http://www.asahi.com/politics/update/0924/TKY201009240130.html
中国人船長を釈放へ 那覇地検日中関係考慮」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100924/crm1009241445019-n1.htm
旅行博出展取りやめ=尖閣理由に−中国
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010092400929
【25日】
官房長官「地検の判断」、政界からは批判
http://news24.jp/articles/2010/09/25/04167401.html
釈放決定直前、首相に報告
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010092500044
中国、謝罪と賠償要求 漁船衝突
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010092502000200.html?ref=rank
謝罪・賠償「納得いかない」と岡田氏=鳩山氏、政府に説明要求−漁船衝突事件
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010092500323
【中国人船長釈放】石垣空港からチャーター機で出国
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100925/crm1009250200003-n1.htm
政府全体の政治的判断=中国人船長釈放で−片山総務相
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010092500167