木走日記

場末の時事評論

小沢支持者の「バイブル」が読売グループから出版されている皮肉

 小沢一郎、この男ほど現在の日本で評価が二分されている者もいないでしょう。一連の不祥事で急降下する内閣支持率ですが、民主党支持からアンチ民主党に移った人々や野党支持者の多くは小沢氏を否定的に評価しているでしょうし、残った民主党支持者の間でも、割合はさておき、小沢支持者とアンチ小沢派に割れているわけです。

 海水を煮沸すると真水は蒸発していき残った海水はどんどん塩分が濃くなるように、小沢氏や一連の民主党の「政治とカネ」の不祥事に嫌気がさし政権不支持者が増加する中で残った民主党支持者の中では、熱心な「小沢支持者」の割合が増してくるのは自然の流れでしょう、もちろんそれは彼らが増えていることを意味はしないのですが、が結果として熱心な小沢支持者の声は日増しに強くなり、彼らの主張は他者から見ると「唯我独尊」、濃い食塩のようにしょっぱすぎてとても飲めたシロモノではない一般人からは異質なとしかいえないある意味で熱狂的ともいえる論説が増している状況です。

 いわく、一連の検察とメディアの動きは守旧派の陰謀であり、明治以来日本を支配してきた官僚システムを打破しようとしている民主党政権は無血革命とも言える尊い意義のある政権なのであり絶対に守っていかなければならない、彼ら熱心な小沢支持者はどうも崇高なストーリーを心に持っていて、異口同音に「小沢がいなければ事をなしとげることは不可能だ」と考えてると推測されます。

 彼らに言わせれば、小沢を批判する者は守旧派(官僚・マスメディア・財界等既存秩序の己の利権を守ろうと必死なやから達)もしくはその片棒担ぎであり、民主党支持率低下は一連の検察・マスメディアが結託した作為的な違法な捜査とその恣意的報道により大衆が揺動・洗脳された結果である、あるいは中にはマスメディアの世論調査など信憑性ゼロでその数字自体信じる価値などないという者までいます。

 一方、民主党不支持者、そして民主党支持でもその中のアンチ小沢派の人々は、これら熱狂的小沢支持者のある意味で偏狭な(ここであえて「偏狭」と表現するのは異説をまったく受け付けないという意味ですが彼らと議論しても建設的に意見の一致をみることは不可能という点では決して言い過ぎではありますまい)そして必死で小沢氏を守ろうと意固地になっていることが、まったく理解できず、困惑を隠せないでいます。

 10億に及ぶ個人名義の不動産を政治団体を通じて資金運用している政治家など他に誰もいないという一点に関しても、その小沢氏側の二転三転変わってきた弁明に関しても、一般の人々からすればまったく疑惑が解消などされていないのは明々白々なのにもかかわらず、熱心な小沢支持者は、捜査そのものが検察側の極めて恣意的な悪質なものでありしかも不起訴だったではないか、何も問題はなかったと、多くはこの件で議論すら成り立ちづらいのであります。

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 このタイミングにおいて、中央公論4月号においてカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の『日本政治再生を巡る権力闘争の謎』という論考が掲載され、小沢支持者を中心に話題となっております。

 長文ですがネットでも公開されています。

日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレ
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html
日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その2)=カレル・ヴァン・ウォルフレ
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-02-0501.html
日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その3)=カレル・ヴァン・ウォルフレ
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100318-03-0501.html

 うむ、知日派オランダ人ジャーナリストのウォルフレン氏の小沢氏及び民主党政権礼賛の論文であり、読み物として十分価値があると思います。

 小沢支持者の間で「バイブル」と呼ばれそうな勢いで特にネット上で取り上げられているわけですが、この論文は彼ら小沢支持者がどのような思いで小沢を守ろうとしているのか理解する上でアンチ小沢の人々にも読む価値があると思います。

 小沢氏を賛美する下りを抜粋。

小沢の価値

 日本の新聞は、筆者の知る世界のいかなるメディアにも増して、現在何が起こりつつあるかについて、きわめて均質な解釈を行う。そしてその論評内容は各紙互いに非常によく似通っている。かくして、こうした新聞を購読する人々に、比較的大きな影響を及ぼすことになり、それが人々の心理に植えつけられるという形で、政治的現実が生まれるのである。このように、日本の新聞は、国内権力というダイナミクスを監視する立場にあるのではなく、むしろその中に参加する当事者となっている。有力新聞なら、いともたやすく現在の政権を倒すことができる。彼らが所属する世界の既存の秩序を維持することが、あたかも神聖なる最優先課題ででもあるかのように扱う、そうした新聞社の幹部編集者の思考は、高級官僚のそれとほとんど変わらない。
 
 いまという我々の時代においてもっとも悲しむべきは、先進世界と呼ばれるあらゆる地域で新聞界が大きな問題を抱えていることであろう。商業的な利益に依存する度合いを強めた新聞は、もはや政治の成り行きを監視する信頼に足る存在ではなくなってしまった。日本の新聞はその点、まだましだ。とはいえ、日本の政治がきわめて重要な変化の時を迎えたいま、新聞が信頼できる監視者の立場に就こうとしないのは、非常に残念なことだ。これまで日本のメディアが新しい政府について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人すべての未来にとって何が重要か、という肝心な視点が欠落していたのではないか。
 
 なぜ日本の新聞がこうなってしまったのか、原因はやはり長年の間に染みついた習性にあるのかもしれない。普通、記者や編集者たちは長年手がけてきたことを得意分野とする。日本の政治記者たちは、長い間、自民党の派閥争いについて、また近年になってからは連立政権の浮沈について、正確な詳細を伝えようと鎬を削ってきた。
 
 かつてタイで起きた軍事クーデターについて取材していた時、筆者はことあるごとに、バンコックに駐在していた日本人の記者仲間に意見を求めることにしていた。タイ軍内部の派閥抗争にかけて、日本人記者に匹敵する識見をそなえていたジャーナリストは他にいなかったからだ。したがって、鳩山政権が成立後、連立を組んだ政党との間に生じた、現実の、あるいは架空の軋轢に、ジャーナリストたちの関心が注がれたのは不思議ではなかった。まただからこそ、日本のメディアは民主党の閣僚たちの間に、きわめてわずかな齟齬が生じたといっては、盛んに書き立てるのだろう。自民党内部での論争や派閥抗争がジャーナリストたちにとって格好の取材ネタであったことは、筆者にもよく理解できる(筆者自身、角福戦争の詳細で興味深い成り行きを、ジャーナリストとして取材した)。なぜなら日本のいわゆる与党は、これまで話題にする価値のあるような政策を生み出してこなかったからだ。
 
 小泉は政治改革を求める国民の気運があったために、ずいぶん得をしたものの、現実にはその方面では実効を生まなかった。彼はただ、財務省官僚の要請に従い、改革を行ったかのように振る舞ったにすぎない。だがその高い支持率に眼がくらんだのか、メディアは、それが単に新自由主義的な流儀にすぎず、国民の求めた政治改革などではなかったことを見抜けなかった。
 
 彼が政権を去った後、新しい自民党内閣が次々と誕生しては退陣を繰り返した。自民党は大きく変化した国内情勢や世界情勢に対処可能な政策を打ち出すことができなかった。なぜなら、彼らには政治的な舵取りができなかったからだ。自民党の政治家たちは、単にさまざまな省庁の官僚たちが行う行政上の決定に頼ってきたにすぎない。ところが官僚たちによる行政上の決定とは、過去において定められた路線を維持するために、必要な調整を行うためのものである。つまり行政上の決定は、新しい路線を打ち出し、新しい出発、抜本的な構造改革をなすための政治的な決断、あるいは政治判断とは完全に区別して考えるべきものなのである。こうしてポスト小泉時代、新聞各紙が内閣をこき下ろすという役割を楽しむ一方で、毎年のように首相は代わった。
 
 このような展開が続いたことで、日本ではそれが習慣化してしまったらしい。実際、鳩山政権がもつかどうか、退陣すべきなのではないか、という噂が絶えないではないか。たとえば小沢が権力を掌握している、鳩山が小沢に依存していると論じるものは多い。だがそれは当然ではないのか。政治家ひとりの力で成し遂げられるはずがあろうか。しかし論説執筆者たちは民主党に関して、多くのことを忘れているように思える。
 
 そして山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。小沢がいなかったら、一九九三年の政治変革は起きなかっただろう。あれは彼が始めたことだ。小沢の存在なくして、信頼に足る野党民主党は誕生し得なかっただろう。そして昨年八月の衆議院選挙で、民主党が圧勝することはおろか、過半数を得ることもできなかったに違いない。
 
 小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりであることは疑いない。ヨーロッパには彼に比肩し得るような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
 小沢はその独裁的な姿勢も含め、これまで批判され続けてきた。しかし幅広く読まれているメディアのコラムニストたちの中で、彼がなぜ現在のような政治家になったのか、という点に関心を持っている者はほとんどいないように思える。小沢がいなかったら、果たして民主党は成功し得ただろうか?
 
 民主党のメンバーたちもまた、メディアがしだいに作り上げる政治的現実に多少影響されているようだが、決断力の点で、また日本の非公式な権力システムを熟知しているという点で、小沢ほどの手腕を持つ政治家は他には存在しないという事実を、小沢のような非凡なリーダーの辞任を求める前によくよく考えるべきである。
 
 もし非公式な権力システムの流儀に影響されて、民主党の結束が失われでもすれば、その後の展開が日本にとって望ましいものだとは到底思えない。第二次世界大戦前に存在していたような二大政党制は実現しそうにない。自民党は分裂しつつある。小さな政党が将来、選挙戦で争い合うことだろうが、確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権があらわれては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、恐らくは自民党政権下で存在していたものよりもっとたちの悪い行政支配という、よどんだ状況が現出することになろう。

 そして山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。

 小沢がいなかったら、一九九三年の政治変革は起きなかっただろう。あれは彼が始めたことだ。

 小沢の存在なくして、信頼に足る野党民主党は誕生し得なかっただろう。そして昨年八月の衆議院選挙で、民主党が圧勝することはおろか、過半数を得ることもできなかったに違いない。
 
 小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりであることは疑いない。

 ヨーロッパには彼に比肩し得るような政権リーダーは存在しない。

 政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
 小沢がいなかったら、果たして民主党は成功し得ただろうか?
 
 民主党のメンバーたちもまた、メディアがしだいに作り上げる政治的現実に多少影響されているようだが、決断力の点で、また日本の非公式な権力システムを熟知しているという点で、小沢ほどの手腕を持つ政治家は他には存在しないという事実を、小沢のような非凡なリーダーの辞任を求める前によくよく考えるべきである。

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 これ以上の評価はないだろうと思われる小沢礼賛が続くのであります。

 そしてもし小沢がいなくなれば、「確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権があらわれては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、恐らくは自民党政権下で存在していたものよりもっとたちの悪い行政支配という、よどんだ状況が現出することになろう」と危惧しているのです。

 この反米リベラル派として知られる知日派オランダ人ジャーナリストのウォルフレン氏の小沢氏及び民主党政権礼賛の論文でありますが、これはもう小沢教という宗教に近い熱心な小沢支持者の間では「バイブル」となることでしょう。

 実に興味深いです。

 さらにこの論文は日本の権力者たちには「システム内部には自らを守ろうとする強力なメカニズム」が存在すると断定し、それは具体的には「この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察」であると結論付けています。

官僚機構の免疫システム

 明治以来、かくも長きにわたって存続してきた日本の政治システムを変えることは容易ではない。システム内部には自らを守ろうとする強力なメカニズムがあるからだ。一年ほど日本を留守にしていた(一九六二年以来、こんなに長く日本から離れていたのは初めてだった)筆者が、昨年戻ってきた際、日本の友人たちは夏の選挙で事態が劇的に変化したと興奮の面持ちで話してくれた。そのとき筆者は即座に「小沢を引きずり下ろそうとするスキャンダルの方はどうなった?」と訊ね返した。必ずそのような動きが出るに違いないことは、最初からわかっていたのだ。
 
 なぜか? それは日本の官僚機構に備わった長く古い歴史ある防御機能は、まるで人体の免疫システムのように作用するからだ。ここで一歩退いて、このことについて秩序立てて考えてみよう。あらゆる国々は表向きの、理論的なシステムとは別個に、現実の中で機能する実質的な権力システムというべきものを有している。政治の本音と建前の差は日本に限らずどんな国にもある。実質的な権力システムは、憲法のようなものによって規定され制約を受ける公式の政治システムの内部に存在している。そして非公式でありながら、現実の権力関係を司るそのようなシステムは、原則が説くあり方から遠ざかったり、異なるものに変化したりする。
 
 軍産複合体、そして巨大金融・保険企業の利益に権力が手を貸し、彼らの利害を有権者の要求に優先させた、この一〇年間のアメリカの政治など、その典型例だといえよう。もちろんアメリ憲法には、軍産複合体や金融・保険企業に、そのような地位を確約する規定などない。
 
 第二次世界大戦後の長い期間、ときおり変化はしても、主要な骨格のほとんど変わることがなかった日本の非公式なシステムもまた、非常に興味深いケースである。これまで憲法や他の法律を根拠として、正しいあり方を求めて議論を繰り広げても、これはなんら影響を受けることはなかった。なぜなら、どのような政治取引や関係が許容されるかは法律によって決定されるものではないというのが、非公式な日本のシステムの重要な特徴だからだ。つまり日本の非公式な政治システムとは、いわば超法規的存在なのである。
 
 政治(そしてもちろん経済の)権力という非公式なシステムは、自らに打撃を与えかねない勢力に抵抗する。そこには例外なく、自分自身を防御する機能が備わっている。そして多くの場合、法律は自己防御のために用いられる。ところが日本では凶悪犯罪が絡まぬ限り、その必要はない。実は非公式な日本のシステムは、過剰なものに対しては脆弱なのである。たとえば日本の政治家の選挙資金を負担することは企業にとってまったく問題はない(他の多くの国々でも同様)。ところがそれがあるひとりの政治家に集中し、その人物がシステム内部のバランスを脅かしかねないほどの権力を握った場合、何らかの措置を講ずる必要が生じる。その結果が、たとえば田中角栄のスキャンダルだ。
 
 また起業家精神自体が問題とされるわけではないが、その起業家が非公式なシステムや労働の仕組みを脅かすほどの成功をおさめるとなると、阻止されることになる。サラリーマンのための労働市場の創出に貢献したにもかかわらず、有力政治家や官僚らに未公開株を譲渡して政治や財界での地位を高めようとしたとして有罪判決を受けた、リクルート江副浩正もそうだった。さらに金融取引に関して、非公式なシステムの暗黙のルールを破り、おまけに体制側の人間を揶揄したことから生じたのが、ホリエモンこと堀江貴文ライブドア事件だった。
 
 いまから一九年前、日本で起きた有名なスキャンダル事件について研究をした私は『中央公論』に寄稿した。その中で、日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるやたちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である、と結論づけた。当時、何ヵ月にもわたり、株取引に伴う損失補填問題を巡るスキャンダルが紙面を賑わせていた。罪を犯したとされる証券会社は、実際には当時の大蔵省の官僚の非公式な指示に従っていたのであり、私の研究対象にうってつけの事例だった。しかしその結果、日本は何を得たか? 儀礼行為にすぎなくとも、日本の政治文化の中では、秩序回復に有益だと見なされるお詫びである。そして結局のところ、日本の金融システムに新たな脅威が加わったのだ。
 
 検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。薬害エイズ事件で、厚生官僚に真実を明らかにするよう強く迫り、日本の国民から絶大な支持を得た菅直人は、それからわずか数年後、その名声を傷つけるようなスキャンダルに見舞われた。民主的な手続きを経てその地位についた有権者の代表であっても、非公式な権力システムを円滑に運営する上で脅威となる危険性があるというわけだ。
 
 さて、この日本の非公式な権力システムにとり、いまだかつて遭遇したことのないほどの手強い脅威こそが、現在の民主党政権なのである。実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない。そこで検察とメディアは、鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。

 そのとき筆者は即座に「小沢を引きずり下ろそうとするスキャンダルの方はどうなった?」と訊ね返した。必ずそのような動きが出るに違いないことは、最初からわかっていたのだ。
 
 なぜか? それは日本の官僚機構に備わった長く古い歴史ある防御機能は、まるで人体の免疫システムのように作用するからだ。

 第二次世界大戦後の長い期間、ときおり変化はしても、主要な骨格のほとんど変わることがなかった日本の非公式なシステムもまた、非常に興味深いケースである。

 つまり日本の非公式な政治システムとは、いわば超法規的存在なのである。
 
 政治(そしてもちろん経済の)権力という非公式なシステムは、自らに打撃を与えかねない勢力に抵抗する。

 そこには例外なく、自分自身を防御する機能が備わっている。

 検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。

 さて、この日本の非公式な権力システムにとり、いまだかつて遭遇したことのないほどの手強い脅威こそが、現在の民主党政権なのである。

 実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない。そこで検察とメディアは、鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。

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 うむ、検察とメディアにより民主党政権を打倒しようとしていることは「実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない」だからであり、「政治(そしてもちろん経済の)権力という非公式なシステムは、自らに打撃を与えかねない勢力に抵抗する」のであると。

 このような「大儀」を信じる小沢信者に対して、一般のアンチ小沢論者は事実を持って、例えば小沢氏の4億円の説明のブレとかを突きつけて彼の疑惑を指摘するわけですが、「大儀」を信ずる者にとりそのような「事実」など極めて小さい事に写るわけです、なぜならば「検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す」のであり、多くの国民はそれらに乗せられているのだからであります。

 この「大儀」を信じる者には論理的反証など無意味になってしまうのです。

 私はそこに「宗教」とその「信者」に極めて近い強烈な排他性・独善性を感じてしまいます。

 「大儀」の信者に陥ることなく「真実」の追求者でありたいと考える者にとり、これら「大儀」の「信者」ほど恐ろしい存在はありません。

 彼らは「法律」よりも「大儀」を信じ、「報道」よりも「大儀」を信じます。

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 メディアと検察による改革を志す民主党政権への策略を断定するこの論文に論理的に事実で反証することは簡単です。

 この論文を掲載した『中央公論』という媒体自体が、読売新聞社という日本最大の発行部数を誇るマスメディアからによるものであるという事実ひとつで十分です。

 メディアは確かに偏向報道をします、作為的な世論誘導もありましょう、しかし同時にこのような論説を掲げるキャパシティも持っています、この国は「言論の自由」が広く保証されている証でもあります。

 同様に、検察は小沢氏ならびに民主党政権に熱心に捜査を恣意的にしているとかんがえることは可能でしょう、しかしそのことは小沢氏が潔癖であることを何ら証明するものではありません。

 法に従い事実を積み重ねて検証する行為は、誰かれかが属するそして信じるローカルな「大儀」によってなどで否定してはいけません。



(木走まさみず)