政権政党として「暗黙知」がない民主党と負の「暗黙知」しか認知されない自民党
●「暗黙知」と「形式知」〜「形式知」しか共有化できないKMS(ナレッジ・マネジメント・システム)の限界性
先週17日(金曜)ですが、日経新聞で「暗黙知」と「形式知」についての経済記事が掲載(残念ながらネットでは公開されていないようです)してありましたがたいへん興味深かったです。
『知識創造経営』を唱える竹内弘高・一橋大学教授のこの記事ですが、その唱えるパラダイムのキーワードこそ「暗黙知」と「形式知」であります。
企業の知識創造のためには「暗黙知」と「形式知」をサイクリックに循環させるべきという論ですが、不肖・木走の個人的経験も交えて、この「暗黙知」と「形式知」について考察いたしましょう。
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過日、東京・大田区にある金型工場を訪ねたときの話からであります。
その会社は創業40年ほどで従業員20人弱の典型的な中小零細工場なのでありますが、この不況の中でも売り上げを維持している優良中小企業でもあります。
長年培った独自の技術力によりこの不況下でも海外からも発注が途絶えることはなく、私が訪れたときも工場内はベテランの工員達が巧みに機械を動かしていてそれは活気に満ちていました。
社長の話によるとこの会社の有する技術力というのは、ひとえに「職人芸」ともいうべき、ベテランの工員達が有する熟練した機械制御の技にあるのだそうです。
よく見ると各機械のそばには汚いぼろぼろになった大学ノートが何冊か置いてありました。
そのノートには各製造工程における細かい作業内容とか各機械のちょっとした癖とかが、イラスト付きメモでびっしり書き込まれていました、ベテラン工員達が自分たちが体得してきたノウハウを気づく範囲でそのノートに書き込んできたのだそうです。
多くの町工場と同様、この工場でも工員の高齢化が進んでおり、各ベテランの有するノウハウの会社組織としての共有化と技術の若手工員への継承は喫緊の問題であるとのことで、このノウハウノートも技術継承の一環として活用されているのだそうです。
しかしながら、現実にはノートに書くことが不可能な機微(きび)な勘所(かんどころ)が多々あって、とてもノウハウすべてを文書化・マニュアル化などできないのも事実なのだそうです。
工場内のベテラン工員達の作業を見学させていただき、私はそれはそうだろうと素人ながら納得しました、彼らの正確無比の無駄のない一連の動作は、これはマニュアル化して誰でも継承できるような代物ではない、それこそ世界を相手に発注が途絶えることはないほどの精緻な「匠(たくみ)」の技であると思えたからでした。
それでもこの会社が素晴らしいと思ったのは、数は2人と少ないですが若手工員が着実に育ってきており、ノウハウノートも活用されながら技術の継承もしっかりと計られていることです。
聞けば、若手達はベテランから指導を受け、学習し体得した内容を自分達でもノートを付け整理しまとめているとのことでした、結果としてさらに次世代への継承にも備えつつ、ノウハウノートは見事に活用されているように思えました。
私の本業はITコンサル業でありますが、この工場を訪ねたのは、まさにこの工場が有する技術ノウハウを何とかして最新のIT技術を駆使してデータベース化して会社として共有できないか、という社長からの相談ごとでありました。
うーん、これは難しいな、と私は一人のIT技術屋として直感いたしました。
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欧米で一頃はやったIT技術を活用した知識の共有化、KMS(ナレッジ・マネジメント・システム)がことごとく成功を見なかったのは、この町工場の事例を見れば納得できます。
一言に経営資産としての「技術力」といっても、現実には、「暗黙知」(Tacit knowledge)と「形式知」(Explicit knowledge)に分かれます。
「形式知」とは文字通り文書やイラストなどで表出されたノウハウ、文字や図に記号化された技術であり、数値化したり方程式で表現可能なデジタル化・データベース化に適した技術であります。
一方「暗黙知」とは各ベテラン工員が有する真の技術であり、ちょっとした工作機械のハンドリングの加減や、経験に基づく直感や、ようするに言葉や数式でその機微を表現することは難しい技術の総体であります。
上記の工場の例で見られるように、技術は共有化されるためには、ノウハウノートのような何らかの形で「形式知」化される必要があります。
しかしながら、記号化・文字化した瞬間にその「技術」は大切な部分も含めて全体の「暗黙知」としての真の集合から部分集合にそぎ落とされる宿命にあります。
技術ノウハウをすべて「形式知」化することは不可能だからです。
IT技術を活用した知識の共有化、KMS(ナレッジ・マネジメント・システム)は、当然ですがIT管理しやすい「形式知」をデータベース化するのに成功しました。
それだけでもビジネスにおいては十分有効なツールなのですが、残念ながら各技術者が持つ「暗黙知」までもを共有化することには失敗しました、逆に「形式知」を重宝するあまり、マニュアル重視の風潮は「人」がパーツ化してしまいました、マニュアルさえしっかりしておれば誰がやってもうまくいくという行きすぎたマニュアル偏重主義を招いたのです。
大切な本当に継承すべき「暗黙知」を有している「人」をパーツ化して軽視してしまった点、ここにこそKMS(ナレッジ・マネジメント・システム)の限界があったと言えましょう。
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現実に技術継承や新しいイノベーション技術への発展に成功した会社組織の多くは、この表現しがたい・従ってIT化しにくい「暗黙知」を重視してきました。
ベテランの有する「暗黙知」を「形式知」化して組織として共有、その上で理論的体系化をして再びそれを実践するために新たなる「形式知」を「暗黙知」として熟成、実務を通じてそれを再び「形式知」化する、このような螺旋(らせん)サイクルを通じて技術の継承と共有化と発展を計っているのでありましょう。
長年の経験に裏打ちされたいわゆる「匠(たくみ)」の技術を、ITにより共有化し管理するのは、まだまだ現実には難しいのであります。
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ここで興味深いのは文書化・数値化・マニュアル化された「形式知」は、それ自体限界性を有しているという考え方であります。
「暗黙知」ノウハウを文字化・記号化し「形式知」化した瞬間に大切なあるいは細かいなにがしかの部分が削がれてしまうという考え方は、「匠(たくみ)」の技術の継承という具体例で考えた場合、私には違和感なく説明が付くひとつのパラダイムであると思えるのです。
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●選挙の焦点は「政権交代」なのか、「政権担当能力」なのか〜二分する各紙社説論調
22日付け主要紙社説は一斉に解散総選挙を取り上げています、各紙社説を一本化しての力の入れようです。
【朝日社説】衆院解散、総選挙へ―大転換期を託す政権選択
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
【読売社説】衆院解散 政策本位で政権選択を問え
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090721-OYT1T01049.htm
【毎日社説】衆院解散 総選挙へ=政権交代が最大の焦点だ
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20090722k0000m070118000c.html
【産経社説】衆院解散 国のありよう競い合え 政権担当能力が判断の基準
http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090722/elc0907220254003-n1.htm
【日経社説】政権選択選挙の名に恥じぬ政策論争を
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/index20090721AS1K2100121072009.html
各紙「政権選択」の選挙である今回は堂々とマニフェストによる政策で競えと唱えているのは共通ですが、興味深いのは今回の選挙の焦点を【毎日社説】のように「政権交代」とする見方と、【産経社説】のように「政権担当能力」こそで判断すべきという見方と各紙を大別できるのであります。
内も外も大転換期である。危機を乗りこえ、人々に安心と自信を取り戻すために政治と政府を鍛え直す。その足場づくり、つまりはこの国の統治の立て直しを誰に託すか。これが焦点だ。(【朝日社説】)
「政権交代」の是非の前に、各政党が掲げる主要政策とその実行能力が問われている。投開票までは40日間という長丁場だ。有権者はその間、各党の政策を十分吟味してもらいたい。(【読売社説】)
つまり55年体制ができて以降、私たちは衆院選で有権者が投票によって選ぶという形では、政権与党と首相を交代させた経験がないのだ。そんな選択に初めてなるのかどうか。異例の長い選挙戦となるが、いずれにしても政治の行く道を決めるのは有権者=主権者だ。こんなにわくわくする選挙はないではないか。(【毎日社説】)
問われているのは日本の国のありようであり、内政外交の懸案や難題をどう解決するのかという処方箋(せん)である。「政権交代」気分に浸っている余裕はない。政権担当能力の競い合いを通じ、日本の国家像を提示することこそが求められている。(【産経社説】)
政権選択選挙の名に恥じぬ政策論争を強く望みたい。二大政党の自民、民主両党は速やかにマニフェスト(政権公約)を公表し、有権者に判断材料を示す責任がある。(【日経社説】)
「こんなにわくわくする選挙はないではないか」という【毎日社説】の結語は気分はよく理解しますが、社説全文の醸し出す雰囲気としては、毎日がわくわくしているのは選挙ではなくその結果の「政権交代」ではないのかと、ちょっと大新聞の社説としては浮かれすぎのような印象を持ちましたが、ちょっと穿って考えすぎでしょうか。
それはともかく、読売や産経のように「「政権交代」の是非の前に、各政党が掲げる主要政策とその実行能力が問われている」(【読売社説】)、つまり「政権担当能力」(【産経社説】)こそ判断基準にすべきという論調と、朝日や毎日のように「この国の統治の立て直しを誰に託すか」(【朝日社説】)、「政権与党と首相を交代させた経験がない」(【毎日社説】)我が国にとっての初めての「政権交代」が実現するかどうか、それこそが焦点だとする論調と2分されているのであります。
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●政権政党として「暗黙知」がない民主党と負の「暗黙知」しか認知されない自民党
各紙社説の、マニフェストを掲げて政策で競えという主張そのものには異論ありません。
そこに「政権交代」というキーワードでアプローチするのか、「政権担当能力」でアプローチするのかは、先にご紹介した「暗黙知」と「形式知」のパラダイムで少し強引に分析してみると、そのアプローチが誘導しようとしている論調が透けて見えて興味深いです。
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マニフェスト(政権公約)は典型的な「形式知」(Explicit knowledge)とみなせます。
ただし本来の「形式知」は過去の実務から熟成された「暗黙知」から抽出・改良されるべきであり、民主党のマニフェスト(政権公約)は、土台となっている「暗黙知」はありませんので、「形式知」もどきということになります。
これを産経が主張するように「政権担当能力」というものさしで計ることの意味合いは、実際に政権担当してきた与党には経験から有する「暗黙知」(Tacit knowledge)が背景にあるのに対して、民主党側には当然ながら「暗黙知」は皆無であるという、過去実績の有無が言外に含まれてしまう、そのような懸念があります。
過去50年間事実上の政権交代がほとんどなかった我が国において、各党のマニフェスト(典型的な「形式知」)を「政権担当能力」で競うとすれば、過去実績の有無にも当然焦点が当たるわけで「暗黙知」を有する与党側が有利なことは自明です。
財源が不明確であるとか民主党のマニフェスト(政権公約)の不備は当然議論されるべきでしょうが、過去に一回も政権を担当した経験がない民主党に単純に与党と同じく「政権担当能力」を求めることは少々酷という感じがあります。
実績重視となれば永遠に政権交代など望めないでしょう。
一方毎日のように「政権交代」に焦点を当てるアプローチは、民主党に政権担当実績がない事自体を不問にするためのアプローチです。
換言すれば、過去実績にはとらわれずマニフェスト(政権公約)という典型的「形式知」のみで選択しようという主張です。
自公与党からすれば、批判されてきたばかりではなく不況対策など実績評価されてしかるべき政策(「暗黙知」)もあったはずなのに、「政権交代」というワンフレーズで片づけられてはたまらないという思いはあるでしょう。
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私が思うに多くの国民も民主党の「政権担当能力」には不安がいっぱいでありましょう。
なんといっても彼らには机上の議論であるマニフェスト(政権公約)という「形式知」は示せても、真の政権担当能力である「暗黙知」はない、経験はないのです。
しかるに自公には「暗黙知」はあります。
しかしながら自公の真の問題は、彼らの有する政権与党としての「暗黙知」そのものが、国民からマイナスのイメージでしか受け取られていないことでしょう。
小泉・安倍・福田・麻生と4年間で政権がたらい回しになる中で、明らかになった社保庁の問題や国土交通省やその天下り先の問題、多くの国民は政権はかわれど何一つ解決できていない自公政権に評価すべき「暗黙知」を見いだせてはいないのでしょう。
本来はベテランの有する「暗黙知」を「形式知」化して組織として共有、その上で理論的体系化をして再びそれを実践するために新たなる「形式知」を「暗黙知」として熟成、実務を通じてそれを再び「形式知」化する、このような螺旋(らせん)サイクルを通じて、経験と実績は生かされて行くべきところ、4年前の郵政総選挙で「形式知」化した郵政民営化に対する「暗黙知」への内面化(政策実現)ですら、自民党自身総括できているとは思えません。
つまり、自民党の政権実績、「暗黙知」は、優れた「匠(たくみ)」達が持つ素晴らしい技能としてではなく、どちらかというと、政官癒着と関連する不正問題に対する無策振り、あるいは繰り返し内向きの議論に終始した党内対立などのガバナンスの悪化など、マイナスの印象しか国民に与えていないのでしょう。
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政権担当ノウハウとしては「暗黙知」が皆無の民主党と、負の「暗黙知」しか認知されていない自民党。
有権者は政権担当能力を実績面で考慮するとすれば、「不安だけどチェンジ」と「不満だけど継続」どちらを選択するか、なのだと思います。
そこで有権者は、過去実績にはとらわれずマニフェスト(政権公約)という「形式知」で選択しようという考えに行き着くのかもしれません。
マニフェスト(政権公約)という「形式知」が何も真の政権担当能力を担保していないことは承知の上でです。
(木走まさみず)