マスメディアの欠点を補う公共圏としてのネットの役割
●麻生内閣の支持率急落 もはや「政権末期症状」?〜J−CASTニュースから
8日付けのJ−CASTニュースから。
麻生内閣の支持率急落 もはや「政権末期症状」?
2008/12/ 8新聞各社の世論調査で麻生内閣の支持率が急落し、「危険水域」とされる3割を大きく割り込んだ。民主党の小沢一郎代表と「どちらが首相にふさわしいか」とする質問でも、小沢氏が麻生氏を大きくリードするなど、国民的人気が高いとされていた麻生氏の求心力が地に墜ちたかたちだ。
どの調査でも「支持率急落、不支持率急上昇」
共同通信が2008年12月6〜7日に実施した全国電話世論調査では、麻生内閣の支持率は前月比で15.4ポイント減の25.5%と大幅に急落、不支持率は61.3%と前回から19.1ポイント急増した。朝日新聞が同時期に実施した全国世論調査では、支持率は同比15ポイント減の22%、不支持率は同比23ポイント増の64%まで伸びた。
読売新聞が12月5〜7日に実施した全国世論調査でも、支持率は19.6ポイント減って、20.9%となり、1か月でほぼ半減、「福田内閣末期より低い水準に落ち込んだ」(読売)。不支持率が66.7%で約25ポイント跳ね上がるなど、支持率が急落し、不支持率が急上昇する傾向は変わらない。
毎日新聞の世論調査でも、支持率は10月調査から15ポイント減の21%、不支持率は17ポイント増の58%という結果になった。産経新聞の世論調査(12月4日実施)でも、支持率22.6%、不支持率69.2%とほぼ同水準になっている。
問題発言や失言が響く?
また、麻生太郎首相と民主党の小沢一郎代表の「どちらが首相にふさわしいか」とする各社の調査でも、小沢代表が麻生首相を逆転する現象が出てきている。産経新聞では、麻生氏とするのが31.2%であるのに対し、小沢氏は35.6%と一歩リード。共同通信の調査でも、小沢氏が前月調査から10.1ポイント伸ばして34.5%であるのに対し、麻生氏が33.5%(17.5ポイント減)と、初めて逆転した。朝日新聞の調査でも、麻生氏とするのは19ポイント減らして30%、小沢氏は12ポイント伸ばして35%となった。
支持率低下の背景は、麻生首相の「問題発言」や漢字の読み間違えなどで「資質」に失望感が広がったことにありそうだ。読売新聞の調査では、「首相が問題発言や失言を繰り返していることが政権運営に悪影響を及ぼしていると見る人は77%に上った」。共同通信は「景気対策を優先すると強調していた首相の政策のぶれ、一連の失言を世論が厳しく評価した結果といえそうだ」と分析している。
共同通信が25.5%、朝日新聞が22%、読売新聞が20.9%、毎日新聞が21%、産経新聞が22.6%と、新聞各社の世論調査で麻生内閣の支持率が急落し、この記事によれば「「危険水域」とされる3割を大きく割り込んだ」としています。
私が半年ほど前、過去50年のこの国の内閣最低支持率を調べた結果としては、本当の危険水域は2割であります。
当時のエントリーから。
(前略)
1960年以降ここ50年近くの日本の政治においては、支持率20%割れすると政権は転がる石・ローリングストーンのように支持率を落としていき、最後最低支持率を記録して末期を迎えてしまうのであります。
最初に20%割れしてから1年近く粘る、森政権のような猛者(もさ)もいれば、20%割れしたその月に政権を潔く手放した三木政権まで、末期を迎える時間には政権により差がありますが、小渕政権を例外とすれば次の事実が判明しました。
1.一度20%割れした政権は余命1年ない。
2.一度20%割れした政権は、その後末期までの期間に差はあるものの、ころがる石のように支持率は低下していき、最後最低支持率を記録して末期を迎える。
・・・
任期途中で死去された小渕政権という例外を除けば、過去50年この国の政権で支持率20%を割った政権は、ローリングストーンと化し最低支持率を記録して末期を迎える宿命にあるのです。
(後略)
■[政治]福田政権ピーンチ!内閣支持率20%〜支持率20%割れした歴代政権の悲惨な末期 より抜粋
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20080502
まあいずれにしてもここへきて麻生政権支持率急落は確かなのでありましょうが、この各紙世論調査結果に対するネット上の論客たちの反応が実に興味深いのであります。
一連の失言問題などで麻生首相の政治担当能力の無さが国民にばれた結果だという肯定派と、誤読問題など瑣末な問題を執拗に取り上げたマスコミの揚げ足取り報道の結果だという否定派とに、大きくは二分されているようですね。
そういえば、不肖・木走は零細企業経営者の立場から、当ブログにて一連の麻生首相の経済対策の遅れに対する批判をここのところ強めてきましたところ、まあ私として反麻生の旗を掲げ出したわけですが、興味深いのはエントリーに対する批判として「どうしてマスコミの偏向報道を信じ込むのか」といった意見もいくつかいただきましたことです。
私のブログの立ち位置として、反マスメディアは一貫してきたつもりなので、このようなご批判は少々元気をなくしてしまいましたです(苦笑)。
それはともかく、今日第四の権力といわれるマスメディアの信用凋落はネット上で特に顕著であります。
ネット上では当ブログも含めていろいろな場所でメディア批判が噴出しています。
ところでマスメディアは政治権力に対する監視者でもありその記事の多くはときの政治権力を批判的に報じています。
私などが麻生首相の政策や失言をブログで批判すると、それまで散々批判してきたメディアの論調とシンクロしてしまうという事態が現出してしまうのです。
こうして政治権力を批判するとあたかもマスメディア支持者と一瞬勘違いされてしまう奇妙な現象が起こるのであります。
これはこれで興味深いです。
ネットはマスコミが情報発信を独占してきた既存マスメディアとは違い、双方向がインタラクティブに情報発信できるわけであり、ネットに参加する限り、影響力はともかく誰もが討議に参加できるという意味で広く平等なのであります。
その意味で麻生内閣の支持率をどう解釈するか、これを政権に対する正当な評価と肯定するか、あるいは、マスコミ主導の衆愚政治のミスジャッジと否定するか、その両論が平等に議論されている今回の世論調査結果に対するネット上の議論は、ネットという新しいメディアの存在意義を考える意味でとてもよい事例だと思います。
今日はそのあたりを少しまじめに愚考してみたいです。
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●公共圏としてのネットの役割
公共圏という言葉があります。
公共圏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公共圏(こうきょうけん、ドイツ語: Öffentlichkeit、英語: Public sphere)は、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマス、フランスの哲学者ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコーなどヨーロッパ大陸の哲学や批評において盛んに使われる概念で、私圏(または私領域)の対語。人間の生活の中で、他人や社会と相互に関わりあいを持つ時間や空間、または制度的な空間と私的な空間の間に介在する領域のこと。公共性と訳すこともある。
公共圏とは「公共性」と訳すこともある「人間の生活の中で、他人や社会と相互に関わりあいを持つ時間や空間、または制度的な空間と私的な空間の間に介在する領域のこと」であります。
私は個人的にメディアというのは公共圏の一種であると捉えています。
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公共圏という概念を唱えた一人、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスによれば、市民社会にとって国家とは外部の存在です。
ハーバーマスによれば、国家の実態は政治権力者や官僚で、租税や労役を社会から収奪することで生存しています。
「社会から収奪」とはきつい表現ですが国家の持つマイナス側面を見事についているとも思えますので、この哲学者の論調を継承しつつ、私論を展開していきます。
そのような収奪の実態を隠蔽するために、国家は社会から過剰に収奪し、収奪した一部を社会に返還することで、あたかも市民の格差を是正したり、他の国家から自らの縄張りを守るために必要な業務を遂行する中立的なサービス機関であるという衣装を身につけます。
もっとも産業社会において国家と社会は切り離せない関係にあるので、外国から侵略され、収奪されることを防ぐために、社会は自らが所属する国家と利害を共通する面も確かにあります。
しかし、その本質が収奪機関である国家を社会は監視しなくてはならないわけです。
国家が社会から収奪しようとし、社会が国家を監視しようとする公共圏、そのひとつがメディアなのであります。
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当然ですが、公共圏における討議は、ビジネスによる私人の個別利害とは切り離された、また、収奪機関である国家・官僚側からも距離を置いた、公人(公民)の立場で行われることが望まれます。
したがって公共圏での議論は、ビジネスから切り離された教養を基礎に行われることが良しとされます。
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しかし、今日マスメディアから、一方的に流される情報によって、教養の力は無力にされてしまったのです。
新聞やテレビから入ってくる情報について、市民は自らの教養によって、その真偽を確認することは、理論的には可能であっても、そのためには多くの労力と時間がかかりますので断念します。
その結果、どのような情報が入ってきても、受け止めて流してしまう受動的情報肯定するようになります。
哲学者ハーバマスの言葉を借りれば「順応の気構え」ができてしまうのです。
この「順応の気構え」を担保するのが、「専門家の言うことは間違いない」「何かわからないことがあったら、当該分野に通暁(つうじょう)した有識者が教えてくれる」という受動的意識なのであります。
TVに出てくる訳知り顔の評論家や森羅万象を語る朝日新聞の天声人語などが通暁したコメントを短い言葉で表現するのは、この順応の気構えを強化し、テレビや新聞から視聴者や読者が離れないようにするための必然的機能なのであります。
しかしテレビや新聞は基本的に営利を追求する私企業であります。
公共圏にビジネスの論理が入ることで内側から変質が起きるのは当然です。
公共圏であるメディアが、特定の団体の利得を擁護したり面白おかしくてカネが儲かればよいという場になると、国家に対する監視という機能も果たしにくくなります。
大衆民主主義は事実上、為政者とマスコミによって操作される衆愚政治のようになってしまいます。
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そこに誰もが平等に参加できる新しい公共圏といえるネットが登場しました。
市民の側に、自由な討論に基づく公共圏を回復することで、国家の横暴を規制するという気構えが残っている限り、大衆民主主義は、他の政治体制と比較してよりましな制度となりえましょう。
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私たちが公共圏を放り出してしまうと、そこに残っているのは金儲けしか考えない新自由主義みたいな野蛮な市場と、いろいろな暴力装置を背景に収奪することしか考えない国家による地獄絵しか浮かび上がらないのであります。
私はマスメディアの欠点を補う公共圏としてのネットの役割を最大限評価したいと思います。
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(木走まさみず)