木走日記

場末の時事評論

日銀総裁にはノブレス・オブリジの精神を求めたい


●私の個人的思い出〜中央銀行行員としての崇高なノブレス・オブリジの精神みなぎる日銀行員たち

 東京近郊のJR武蔵野線北府中駅を降りて東芝府中工場の南を10分ほど歩くと、広大な敷地と厳重にガードマンにより警備されている近代的な建物が目に入ります。

 この建物こそ正式名称が日本銀行本店営業所府中分館、いわゆる日本銀行の府中情報センターであります。

 日本銀行のIT基幹システムの開発保守を行っているシステム情報局のプロパーと数百人の各メーカー技術者が常駐し、日々システム開発作業をしています。

 私も仕事柄、年に数回こちらを訪れて各種ミーティングをさせていただいていますが、考えてみればIT技術者として私が初めて日本銀行と関わりを持たせていただいてから20年以上の歳月が流れました。

 当時駆け出しコンピュータ技術屋であった私はあるメーカーに勤務しており、私の所属するグループの大切なクライアントが日本銀行でありました。

 日本銀行内での各局の機械化(←何やら古めかしい表現ですが当時日銀内ではIT化をそう呼称していました)は、すべてシステム情報局の前身組織である電算局が管理し外注しておりました。
 
 当時の電算局は日本橋の日銀本店本館と通りはさんで向かい合わせのビル、日銀別館(今は貨幣博物館になっています)にありました。

 私はある局の経理システムを担当することになりましたが、そのユーザ局は日本銀行本店内にありますので、私は、日本橋日本銀行本館(重要文化財にもなっている日本初の日本人による本格西洋建築だそうです)と併設された新館、そして電算局のある別館と、出入りを繰り返していました。

 当時のユーザー局で担当プロパーであったA調査役(イニシャルも含めて仮名)との出会いこそ、その後の私の人生を大きく左右するきっかけとなるものでした。

 最初のシステム開発でいっしょに徹夜して苦労して以来、息子のような若造のメーカー担当者である私のことを、なぜかA調査役はとてもかわいがってくれまして、その後何度かA調査役の担当システムの開発に私の所属する会社と担当者として私を指名いただくようになり、結果としてそのときの実績が、今独立後の私にとって大きな財産となったのでした。

 それはさておき当時本館で会議を行うときには本館2回の会議室に行くまでの赤じゅうたんの敷かれた長い回廊を歩かねばなりませんでした。

 この回廊が有名なのは、左右の壁に巨大な歴代総裁の肖像画が並んでいるのであります。

 吉原重俊初代総裁から三重野康26代総裁の肖像画を展示しています。

 最近(ここ3代)の総裁の肖像画はありませんのは、時流なのでしょうか、「肖像画の作成にも馬鹿にならない費用がかかるので廃止したのだ」そうであります。

 A調査役や他の日銀行員の方々とよく新館10階の社員食堂で会食しながらミーティングをしました。

 最近ではこの社員食堂併設の売店にここでしか売っていない日銀特製の「一万円札」かわらせんべいや「一万円札」タオルが人気ですが、当時はそんなお土産など売ってなかったのですが、それはさておき、当時の日銀マンたちは、私の知る限りみなすばらしい志をいだいた優秀でまじめな方々ばかりでありました。

 彼らには中央銀行行員としての崇高なノブレス・オブリジの精神がみなぎっていました。

 またときどきは、都内某所にある日銀社員専用のレストランでA調査役や彼の部下の人たちとお酒を飲んだりしましたが、彼らは自分たちの職務に誇りと責任を強く持っておりました。

 「日銀マンはね、実は公務員ではないんだ。我々は政府が55%株主である資本金一億円の法人の行員なんだよ。しかし我々には中央銀行行員としての公務員以上の厳しい内規がある」

 いまも変わらないのでしょうが、当時から彼らは私たち民間業者からは一切の接待や物品贈与を禁じておりました。

 レストランや赤提灯でお酒を飲んでもいつもA調査役のおごりか割り勘でありまして、まあ息子みたいな若造から奢られるのもおかしかったのかもしれませんが、若い私はお客様である人から毎回ごちそうになるのも少し気が引けていたのも事実ではありました。

 ・・・

 その後、A調査役はそれなりの役職に出世され、現在はすでに日銀を退かれ日銀OBとしてさる会社の役員をされています。

 そして私はといえば、あれから20年、独立して小さなIT関連会社を起こして今日に至っております。



●情報提供者日銀OB氏との話

 前回のエントリーで私は次のようなテキストを掲載いたしました。

■[社会]株価暴落まで招いた日銀総裁村上ファンドの関係〜揺らぐ「日本銀行の独立性と透明性」
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060613

 賛否両論、積極的な有意義なコメントを多数いただきました。

 実は、私はここ2日ほど、本件に関して情報提供いただいた私の情報源の方と再度接触を試み情報の確度を再検証させていただきました。

 ご本人の了解も得ましたのでここに情報提供者のご迷惑にならない範囲で詳細を明らかに致します。

 私の情報提供者は上記日銀OBの方です。

 A氏とお会いして確認させていただいた話を引用します。

木走「前回、お話を伺った福井俊彦日銀総裁村上ファンドへの投資とアドバイザリー契約のことですが、新聞報道によれば、総裁就任時にアドバイザーは打ちきったとありますが、まずその点はいかがでしょうか」
A氏「ご本人が国会答弁されてそう明言したならばそれが正なのであろう」
木走「つまり、福井総裁は総裁就任以降のここ3年は村上ファンドに対するアドバイスは行っていないと」
A氏「ご本人がそう明言したならばそれでいいだろう」
木走「それではこの部分は私は自分のブログで書いた内容に一部誤りがあったとして訂正し謝罪します」
A氏「誤り? それは情報提供した僕にとっては少しおもしろくない表現だなあ」
木走「事実誤認があったわけですから該当箇所を訂正するのは当然だと考えます」
A氏「まあそれはそれで当然だが。福井さんと村上さんの関係に特に詳しい者たち以外は、昨日の国会発言を耳にするまで福井さんのアドバイザリー契約が3年前に切れていたとは実は驚きだったのだよ」
木走「といいますと」
A氏「村上ファンド設立以来福井さんが村上さんを後押ししてきたことは周知の事実だし、福井総裁は総裁就任後のこの3年でも、オリックスの宮内氏とともに村上ファンドを擁護発言を繰り返していたし、まして福井さんはここ3年の間も村上氏と接点があり情報を交換してきたことは本人も否定していない公然の事実であり、別に秘匿されている話じゃない」
木走「・・・」
A氏「だから私から言わせれば、アドバイザリー契約が3年前に切れていたという事実のほうが驚きだったのだ。この問題の本質は実質的な両人の関係がこの3年間でどのようなものだったのかだよ」
木走「両者には実質的な関係が継続していたと・・・」
A氏「密な関係かは感知しないがとろうと思えば連絡はとりあえていたのは事実」
木走「日本銀行の中立性・透明性の観点から本件をどう思われますか」
A氏「日銀内規から考えれば中立性をクリアしていない関係だったのではないか。しかし国会答弁にもあるが福井さんが本心から私利私欲のために投資したことではないのは間違いない。彼はこの点で嘘はつかないと思う。彼の収入が何千万ぐらいかは察しはつくだろう。彼にとって1000万は表現は悪いがたいした金額ではない。そしてアドバイスをしてきたことも契約上は打ち切られていた形なのは事実だろう。
木走「はい」
A氏「しかし、本質的な問題は彼はその後も継続して投資していた行為、村上ファンドに対する彼の最近の発言でもわかるとおり、村上氏・村上ファンドとの関係を継続してきていた事実だよ」
木走「最後の質問です。国会答弁によれば福井氏はこの2月に投資契約打ち切りを村上ファンドに申し出たと発言しています。この2月というタイミングについて一部ネット上ではインサイダー情報に絡む疑惑が議論されていますが、どうでしょうか」
A氏「中央銀行の総裁という立場は、景気や金融市場の各種相場を左右しかねないトップ機密の情報を特権的に入手できる立場にある。だからこそ、独立性、中立性、透明性がつよく求められるということ。わきが甘いから契約をやめるときまでいらぬ詮索を受けるのでは」

 A氏には貴重なお時間をさいて取材に応じていただきこの場を借りて感謝いたします。

 ・・・

 さて私の考えは前回のエントリー時点と変わってはいません。

 これは高い身分の権力者に求められる「信用」の問題であり、今求められるのはノブレス・オブリジ(nobless oblige)の精神であります。

 中央銀行の総裁の地位というものはその意味で極めて重いのだと考えています。

 日銀法を改定してまで維持に努めてきた中央銀行の独立性、そして中立性・透明性に、本件は抵触していないのか、事実関係を冷静に検証すべきであると思っております。
 
 日本銀行総裁、その与えられた権限の大きさ、影響の大きさを考えれば、やはり今回の一件は、看過できない検証すべき問題が含まれているのではないのかと思います。



(木走まさみず)



<参考サイト>

改めて福井総裁へ
http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/d/20060614