木走日記

場末の時事評論

「人間爆弾」桜花からの生還〜「出撃した日は、桜が満開でした」

 以下のエントリーの追記です。

●英タイムスが報じたカミカゼパイロット美談
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050607/1118148066

●「人間爆弾」桜花からの生還〜「出撃した日は、桜が満開でした」

 なんでだろう、偶然でしょうが、昨日(9日)の毎日新聞でやはり特攻で生き残られた方の記事が載っております。

戦後60年:
あの日、語り継ぐ/1 特攻隊・4月12日 /愛媛
 ◇「桜花」で出撃し親機被弾、不時着−−渡部亨さん(79)=松山

 ◇今の若者は幸せ−−悲惨さ伝え、話し合い解決を

 「出撃した日は、桜が満開でした」

 1945年4月12日、特攻部隊「神雷部隊」に所属していた当時19歳の渡部亨(とおる)さん(79)=松山市山越4=は、鹿児島県の鹿屋基地から、特攻のために開発された航空機「桜花」で出撃した。桜花は、親機「一式陸攻」の下につられて戦闘空域に運ばれ、上空で切り離されて敵艦に体当たりする“人間爆弾”。二度と生きて戻れないはずだった。

 渡部さんは旧制大洲中(現大洲高)4年生だった42年10月、戦闘機パイロットになろうと海軍飛行予科訓練生に。44年8月、配属先の小松基地西条市)で「特攻隊に志願する者は名前を書いて出してくれ」と言われた。

 「若い者がやらずに誰がやる」。渡部さんは迷いなく志願。茨城県百里原基地に送られ、そこで初めて桜花を見た。全長5・6メートルの小さな機体の先端に1・2トン爆弾が搭載されている。操縦かん1本と簡単な計器が付いているだけで、着陸のための車輪はない。零戦(ゼロせん)で特攻すると思っていたので驚いたが、「うまくやってやる」と決意した。

 45年4月1日、渡部さんは訓練を終え、沖縄に侵攻した米軍への特攻の拠点となっていた鹿屋基地に移動した。出撃命令を待つ間、「生きていたら女性と交際したり、いろいろなことができるな」との思いが浮かんだ。12日未明、鹿屋の町で酒を飲んでいる時に、仲間の隊員から「今日正午に出撃だ」と知らされた。

 正午、一緒に出撃する仲間と冷酒で別れの杯を交わし、一式陸攻で飛び立った。眼下には鹿児島県枕崎市の海岸線が広がっていた。木々の緑がまぶしい。「日本もまんざらではないな」と思った。海上に出た時、一瞬、母親の顔が浮かんだ。1時間ほどで戦闘空域に到着。桜花に乗り移った。冷たい風が体を突き上げ、「とうとう終わりか」と覚悟したが、操縦かんを握ると不思議と落ち着いた。

 前方に米艦が見えた。しかし機体はなかなか切り離されない。見上げると親機の左エンジンが被弾、高度が下がっていた。これでは特攻はできない。親機で引き返すことになった。途中の口之島近くの海上に不時着した。つい先ほどまでいた海上では、米軍が圧倒的な戦力で簡単に日本機を撃墜していた。「特攻なんて成功するわけない。みんな犬死にだ」

 渡部さんは約2カ月後、海軍の海防艦に救助され、無事に帰還。2度目の出撃命令はなかった。予科練同期約600人のうち約350人は終戦までに命を落とした。

 繊維製品製造会社を定年退職後は鹿屋で開かれる追悼式に毎年参加している。「追悼をするのは、生き残ってしまった自分の義務です」

   ◇

 体験した者でないと分からない。ずっとそう考えてきた。だから特攻隊のことは2人の息子にも一度も話したことはない。しかし10年ほど前、生き残った神雷部隊の他の隊員から「体験を話すことが死んだ仲間の供養になる」と言われた。今も積極的に神雷部隊のことを話す気にはならないが、「話を聞きたい」と言われた時には「仲間のために」と応じている。

 取材の最後に渡部さんは言った。「今の若者は幸せですよ。戦争でこれ以上、犠牲者を出す必要はない。何事も話し合いで解決することが一番だと思います」【伊藤伸之輔】

     ◇

 戦後60年。戦争体験者の「忘れられない1日」を軸に、それぞれの平和への思いや、次世代への伝言を聞いた。



 ◆関連年表(1945年)

4月 1日 米軍が沖縄本島に上陸

4月 7日 戦艦大和が撃沈され乗組員ら約3000人戦死

4月12日 渡部さん桜花で出撃

5月 8日 米大統領トルーマンが日本に無条件降伏を勧告

6月19日 沖縄でひめゆり・おとひめ部隊が集団自決

6月23日 沖縄守備隊が全滅し、沖縄戦終結

毎日新聞 2005年6月9日
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2005/06/09/20050609ddlk38040673000c.html

 重い話です。

 渡部さんの発言「追悼をするのは、生き残ってしまった自分の義務です」。

 これは、かなしい、おもい、くるしいお言葉だと思いました。

 木走としてはどうか「生き残ってしまった」などとご自分を責めないでいただきたいとせつに思うのです。がしかし、このあまりにも重い言葉にたいし、おそらく戦争を知らない私などが口を挟むべきではないのでしょう・・・

 「今の若者は幸せですよ。戦争でこれ以上、犠牲者を出す必要はない。何事も話し合いで解決することが一番だと思います」

 先のエントリーで紹介した浜園重義氏のお言葉と通じるものがありますね。

「人間生きられれば生きているほど素晴らしいことはない。残り少ない人生をより有意義に生きたいし、ボケなければ、戦争の苦しさ、みじめさ、むなしさを次の世代の若人達に少しでも語り伝えてゆくことが出来たらと、思っている昨今である」
英タイムスが報じたカミカゼパイロット美談 より抜粋
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050607/1118148066


 先の戦争で日本軍がおこなった人権無視の特別攻撃を、からくも生き残ったお二人が、戦争に対する強烈な嫌悪と今の平和日本がいかに幸福であるかを、語られているわけですね。

 靖国参拝問題での議論が盛んになるに連れ、一部に皇国史観に近い戦前復古調の論説もちらほら見受けられますが、先の軍国主義戦争の悲惨な面を無視した議論は、このお二人の重いお言葉の前では、ただの戯れ言となりましょう。



●BAKA BOMB「桜花」
 ちなみに桜花は750機製造され、米軍からは”BAKA BOMB”と呼ばれていたそうです。

人間爆弾「桜花」

海軍空技廠が昭和19年に開発した火薬ロケット推進方式の特攻機で、いわゆる爆弾に操縦席と翼を付けた人間爆弾。

敵艦船の一撃轟沈を目的として製作された必殺必死の特攻兵器。敵艦船付近まで母機の下部に吊し、目標近くで母機から切り離され、滑空とロケット推進により敵艦船に人間もろとも突入するという飛行機。桜花という名前が悲しい。頭部の爆弾は800キロで命中すれば一撃で艦船を轟沈させる威力があったが、母機(一式陸攻、銀河)もろとも目標地点以前で撃墜される事が多く、戦果はあまりあがらなかった。

米軍からはBAKA BOMBと呼ばれ、終戦時までに750機が製造された。

(桜花11型)
エンジン 発動機4式1号20型火薬ロケット*3、推力800キロ*9sec
全幅 5m       
全長 6m
最大速度 876km/h
航続距離 数十秒
武装 爆薬量1200キロ


日本海軍航空機あれこれ より抜粋引用
http://www.biwa.ne.jp/~yamato/plane.htm

 なんともやりきれないですね。



(木走まさみず)