ヌルイ朝日新聞の検証能力とイタイ産経新聞の検証姿勢
以下のエントリーの追記です。
●戦艦大和の最後までつまらない論争になるこの国のメディアの憂うべき検証能力
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050620/1119259102
●産経社説に強く反論する〜善悪で検証態度を決めては断じてならない
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050621/1119320955
●本日のインターネット新聞JANJANで記事掲載
両エントリーの内容をまとめて構成し直し、ひさしぶりに記事を作成しました。本日、私が市民記者登録しているインターネット新聞JANJANに掲載されました。
インターネット新聞 JANJAN
http://www.janjan.jp/
掲載された木走の記事
http://www.janjan.jp/media/0506/0506218656/1.php
以下は掲載された記事の元原稿です。
産経社説に強く反論する〜善悪で検証態度を決めては断じてならない
●昭和20年4月7日、悲劇の戦艦大和の最期
昭和20年4月1日、圧倒的兵力でもって米軍は沖縄に上陸した。支援兵力は、艦船1,500隻以上、航空機1,700機あまりである。
もはや反撃する組織的兵力をほとんど有さない日本海軍であったが、大本営は4月5日、事実上の水上特攻とも呼べる「天1号作戦」を発令、徳山沖に待機中の大和に出撃命令が下った。
目的地は沖縄。作戦は、片道分の燃料を積んで特攻、自ら沖縄の浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり、敵の陸上部隊を砲撃するものだった。
4月6日午後4時、戦艦大和は出撃した。しかし、4月7日早朝、大和出撃を察知したアメリカ軍は、新鋭空母12隻、艦載機800機でもってこれを迎撃し、大和には1機の護衛機もなかった。
4月7日14時22分、大和は3,000人以上の乗組員と共に海に沈んだのである。
今年の4月7日、60年前に大和が沈没したこの日に、朝日新聞のコラム「天声人語」では、戦艦大和乗組員として奇跡的に生き残った吉田満氏が、終戦直後にてんまつを記した『戦艦大和ノ最期』を引用している。
その中で、「漂流者で満杯の救助艇では、こんなこともあったという」として次の文を引用している。
「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」
引用の後、コラムは次のような文で結ばれている。
「吉田氏は戦後日本銀行に入り、支店長や監事を務めた。『吉田満著作集』の年譜を見る。詳細な記述の中で、あの4月はこう記されている。『沖縄特攻作戦に参加。生還』。参加と生還の間に一文字もない。しかしその字間に、どれほどおびただしい修羅があったことか。大和の最期に限らず、あらゆる戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭(どうこく)を思った」
これに対して、6月20日の産経新聞記事は、朝日新聞の引用部分は信憑(しんぴょう)性のないとした批判記事、「吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き 救助艇指揮官『事実無根』」(http://www.sankei.co.jp/news/050620/morning/20iti001.htm)を掲載した。
「戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、『事実無根だ』と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム『天声人語』でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は『海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい』と訴えている」
この書き出しで始まるこの記事は、やはり当時の生存者である救助艇指揮官の発言から、以下のように反論を展開する。
「これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は『初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない』とした上で、『別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない』と反論」
「その理由として(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した」
「松井さんは昭和42年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、『あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの』と削除を要請した。吉田氏からは『次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい』との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった」
「松井さんは『戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった』と話している」
●社説でも批判を展開する産経新聞
産経新聞は批判記事を掲載した翌日(6月21日)に、「戦争の真実 常に実証的な目で検証を」(http://www.sankei.co.jp/news/050621/morning/editoria.htm)というタイトルの社説を掲載した。
社説の書き出しはこうである。
「戦記文学の名著『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の記述に疑問が提起された。問題とされる個所は、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を、救助艇の指揮官らが軍刀で斬(き)ったと書かれたくだりである」
以下前述の記事の反論をそのまま展開しつつ、朝日新聞の天声人語について批判的に触れている。
「その信憑性に疑問が提起されたとはいえ、戦記文学としての価値が下がるわけではない。しかし、この部分はすでに新聞のコラムなどに引用され、旧日本軍の残虐性を表す一面として、独り歩きする危険性がある。新証言を機に、改めて再検証が必要だろう」
社説の後半では歴史教科書にも偏向があると指摘する。
「同じように不確かな記述は、歴史教科書にも多く見られる」
「南京事件について、中国が宣伝する『30万人虐殺』や東京裁判が認定した『20万人虐殺』は日本の実証研究で否定されたにもかかわらず、これらの誇大な数字が高校教科書で独り歩きしている。慰安婦についても、『従軍慰安婦』という戦後の造語や『日本の官憲に強制連行された』とする誤った記述は中学教科書から姿を消したが、高校では増える傾向にある」
そして社説の結語はこう結ばれている。
「『旧軍の悪』とされる戦争の記述に対し、絶えず実証的な目をもって事実関係を検証する姿勢が、歴史学者やジャーナリストなどに求められる」
●問われる朝日新聞の検証能力
コラムとはいえ、戦史小説の実証性が問題視されている部分を「事実」として引用した朝日新聞には、メディアとしての検証能力が問われるだろう。
産経記事によれば、作者の吉田氏自身の「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書があるわけであり、歴史書でもない戦史小説の引用を事実のようにした後で、「しかしその字間に、どれほどおびただしい修羅があったことか。大和の最期に限らず、あらゆる戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭(どうこく)を思った」と結ばれても、その主張に共鳴するほど、やりきれないものがある。
●問われる産経新聞の検証姿勢
一方、産経新聞の社説での論説もその姿勢が厳しく問われるであろう。
産経新聞は、社説の結語で「『旧軍の悪』とされる戦争の記述に対し、絶えず実証的な目をもって事実関係を検証する姿勢が、歴史学者やジャーナリストなどに求められる」と主張している。
しかし、正しいメディアの検証姿勢は、「旧軍の悪」とされる戦争の記述に対しても、「旧軍の善」とされる戦争の記述に対しても、等しく絶えず実証的な目をもって事実関係を検証する姿勢ではないだろうか?
そもそも、「善」とか「悪」という主観的な分け方自体、冷静に学問的に事実検証する際に必要な「ものさし」とは思えない。
さらに付け足せば、産経の主張する「旧軍の悪」とされる戦争の記述に対してだけ厳しく検証するというその態度そのものが、他者から「偏向している」という批判を浴びることとなるであろう。
「偏向」している教科書の記述を訂正するために、「偏向」した態度で望むとするならば、まさにミイラ取りがミイラになってしまうのではないだろうか?
左右に関わらず、偏った視点からの論説は、読者に真実を伝えるというメディアの最大の使命を放棄する愚かな姿勢であると思う。
ろくな検証もせず「事実」として報道してしまうメディアと、恣意的に基準を設けてある範囲に検証対象を閉じてしまうメディアと、いったいどちらがより大きな偏向報道を生むのでしょうか?
私の考えでは両者は同罪です。客観的・論理的でなく公正さを欠いているという点に置いてもです。
ある人が「私はかつてある現場で幽霊を見た」と主張した本を出版したとしましょう。メディアが事実検証もせず、その本の記述を単純に引用して「幽霊は存在した」と記事にしたら、噴飯ものでありましょう。
これが今回の朝日「天声人語」の手法です。単純である意味でわかりやすい手法ですから、読者のリテラシー能力がある程度のレベルにあるならば、この「偏向」は見破りやすいでしょう。
一方、産経社説の手法はどうでしょう。産経のとった手法はこうです。同じ現場に居合わせていた別の人に「私もその現場でいたが幽霊などいなかった」と証言させた上で、より信憑性があると思われる根拠を3つ上げている。そして、このように疑わしい「幽霊は存在した」発言を検証もぜずに引用するのはメディアとしてダメでしょうと主張する。
ここまでは、産経の手法・主張としてはメディアとしてまったくの正論です。問題はこの後です。
他にも「幽霊は存在する」という「悪の主張」が教科書などにも散見するのでこれは徹底的に検証していかなければならないと主張するのです。
これは危険です。このたとえ話は実証されていない「幽霊」ですから、一見産経が正しく見えますが、これがたとえば現在では実存が確認されている「シーラカンス」におきかえて見たならばどうでしょう。
自分が間違っていると判断した事象に対してだけ厳しく批判的に検証・対峙し自分が正しいと判断した事象を検証対象外にしているという点で、とても危険な姿勢なのです。
ある恣意的なベクトル(しかも善か悪かといったあいまいな基準)を持って事実検証の範囲に、メディア自ら枠をはめることは、決して論理的な姿勢とは言えないでしょう。
メディアは「大義の信者」に陥ることなく、あくまでも「真理の追究者」として、あらゆる事象に対し、批判的に対峙し検証すべきだと考えます。
その意味で、今回の朝日新聞の検証能力は厳しく問われるべきであるのと同様、今回の産経新聞の検証姿勢も厳しく問われるべきであると思いました。
同罪ではありますが、産経新聞のほうが「後出しじゃんけん」だし、社説まで載せて強く自己主張している分、木走としても強く批判してみました。
読者のみなさまのご意見をうかがいたいです。
(木走まさみず)
<関連テキスト>
●朝日新聞はリテラシーが低すぎます
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050226/1109419483
●『大義の支持者』と『真理の探究者』
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050222/1109041662