木走日記

場末の時事評論

田原氏や愛川氏の「反戦思想」に理屈はない、だから彼らを論破は決してできない

 BLOGOSで田原総一朗氏が「天皇陛下の言葉を、僕たちはもっと心して受け止めなければいけない」とのエントリーをされています。

田原総一朗
2015年04月20日 11:28
パラオ慰霊の旅に思う、天皇陛下が背負う使命とは
http://blogos.com/article/110505/

 失礼してエントリーより抜粋。

僕は、天皇陛下の1歳年下である。終戦のときは小学校5年生だった。あの戦争が終わったとき、僕はすごい衝撃を受けた。それまでの価値観が崩れ、何も信じられなくなった。その体験があるからこそ僕も、戦争はもう絶対してはならない、と強く誓っているのだ。

 田原氏は昭和9(1934)年4月15日生まれですから、終戦時つまり昭和20(1945)年8月15日は11才小学校5年生だったわけであります。

 うむ、同じく昭和9年生まれで田原氏と同級生であるタレントの愛川欽也氏(1934年6月25日)ですが、彼も生前は筋金入りの反戦平和主義者でありました。


(参考記事)

「安倍さんに殺される!」愛川欽也が受けた圧力、そして最後まで訴えた反戦への思い
http://lite-ra.com/2015/04/post-1039.html

 上記記事より愛川欽也氏のコメントを抜粋。

憲法を素直に読んでごらんなさいよ。これ、誰がこさえたか、最初が英文だったとか、そんなことはどうでもいいんだ。立派なもんだよ。「戦争放棄」、つまり武力でもってよその国と争うことはしないなんて言っちゃう憲法なんてね、ちょっと嬉しくない?」
「生意気なようだけど、ぼく、変節しないんですよ。憲法とか民主主義とか戦争反対とか。譲れないでしょ? ぼくの原点だから」

 「ぼくの原点」という言葉が象徴していますとおり、田原氏同様、愛川氏の平和を願う気持ちには、自身が経験した戦争体験が根底にあるようです。

 ふう。

 田原氏、愛川氏、この世代の反戦思想は、実体験に基く心に刻まれたものであるだけに、論理的に反論することは不可能に近いでしょう、それこそ彼らの人生の「原点」を否定することにつながりかねないのですから。

 私事で恐縮ですが私の母は昭和10(1935)年3月生まれですから、学年としては彼らと同じで終戦時小学校5年生でした。

 幼少時に私が聞かされた母の戦争体験は、当時母が住んでいた愛知県豊橋市の「空襲体験」でありました。

 昭和19年、サイパンが陥落してそこにアメリカ軍の飛行場が作られ、アメリカの大型爆撃機B−29が直接日本本土の都市に空爆が可能になると、10万人以上の犠牲者が出た昭和20年3月10日の東京大空襲だけでなく、日本各地の地方都市まで「空襲」の惨禍に見舞われたわけです。

 豊橋の空襲は、昭和20(1945)年6月19日深夜から20日未明にかけ、行われ、被災世帯数16009世帯、被災人口68502人、死者624人、全焼、全壊家屋15886戸(市街地の約70%が焼失)と記録されています。

 母の記憶によれば、いつものように空襲警報のサイレンが鳴り(近くに大都市名古屋があり名古屋空爆の際豊橋はB−29の通過点であったためよく警報のサイレンがなっていたとのことです)、自宅庭に作ってあった防空壕に家族とともに退避していたそうです。

 しかしこの日は目標が豊橋であったためにやがてB−29の大編隊による空爆が始まりました。

 「これはまずい」と察した母の両親は、母や妹に着せれるだけの着物をはおらせて持てるだけの手荷物を抱えて郊外へと逃げたのだそうです。

 逃げる途中、母が振り返れば豊橋市街はすっかり火の海となっていたそうです。

 そして橋の上から、B−29が焼夷弾(しょういだん)をそれこそ花火のように豊橋市にたくさん降り注いでいるのがよく見えたそうです。

「それこそ焼夷弾はオレンジ色に燃えながらパラパラ落ちてくるのよ」

 実はこの話はどうなのだろうと子供心に疑問を持っていました、というのはテレビなどで見るB−29の空爆のシーンでは、投下時に爆弾は決して燃えていたりはいないからです。

 余談ですが、調べてみれば実は母の記憶は正しかったのです、多くの焼夷弾は「オレンジ色に燃えながらパラパラ落ちてくる」のでした。

 当時、木造の日本家屋を効率よく焼き払うため、第二次世界大戦時に米軍が開発した焼夷弾はM69焼夷弾であります。

 これは1発あたりの大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2.4kg程度です、で38発のM69焼夷弾を子弾として内蔵するクラスター爆弾「E46集束焼夷弾」などとして投下されたわけです、こいつが投下後上空700m程度でこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐわけです。

 その際、M69には、目標(木造家屋の瓦屋根など)への貫通力を高めるため、姿勢を垂直に保つ目的のリボン(青く細長い布)が1mほど尾ひれのように取り付けられているのですが、上空での分離時に使用されている火薬によって、このリボンに着火し、それがあたかも火の帯のようになり一斉に降り注き、地上からは火の雨が降るように見えるわけです。

(参考資料)

焼夷弾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E5%A4%B7%E5%BC%BE

 焼夷弾というやつは可燃性の油脂が詰まっていますので、本当に良く燃えたそうで人の衣服にでも付着すればたちどころに火だるまになったそうです。

 母と家族は郊外に逃げる途中公園で日本軍の高射砲陣地のそばを通過します。

 そこで母の家族は、豊橋市街地が空襲されているのをただ呆然とタバコを吸いながら見守っている「兵隊さんたち」を目撃します。

 母は幼いながら「なぜ高射砲を撃たないのだろう、なぜB−29をたとえ一機でもいいから落としてくれないのだろう」と思ったそうです。

 これも後日調べればわかったことですが、そもそもB−29は日本の高射砲の射程の遥か上を飛行しており、当時の日本の高射砲では低空飛行していないかぎり撃ち落とすことは不可能だったそうです。

 空襲が終わった翌日豊橋市街に戻った母の家族は一面の焼け野原に変わり果てた町内に愕然とします。

 真っ黒な焼死体が大八車に積まれて運ばれている中で、母の家族は自宅のあった焼け跡に戻ります。

 そこで、母の飼い猫の「みいちゃん」が先月生まれた3匹の子猫とともに真っ黒に焼け焦げて死んでいるのを見つけたそうです。

 ・・・

 さて戦時中のアメリカ軍B−29による日本の都市への大規模の空襲ですが、焼夷弾により民間人をも焼き殺すという意味では、当時の価値観でもってしても、非軍人をターゲットにしている点で「戦争犯罪行為」と言えましょう。

 終戦時、小学校高学年であった母の世代は、愛川氏や田原氏も類似の経験をされているでしょうが、空襲や疎開やあるいは肉親の死など、戦争の「被害者」としての原体験を共有しています。

 したがって、この世代の「戦争反対」論は、愛川氏言うところの「ぼくの原点」なのであり、論理的に議論できうる代物ではまったくないのです、「戦争を知らない世代が何をぬかす」と一括されるのが落ちであります。

 彼らは実際に前線で銃を持って戦ったわけではない、しかしアメリカの圧倒的な物量の前になすすべもなく焦土と化していく日本を、みじめに戦争に敗れていく祖国を、まさに多感な少年期に、原体験したわけです。

 そして終戦を迎えたとき、それまで教えられてきた「八紘一宇」「鬼畜米英」の価値観はすっ飛び、占領軍GHQにより、教科書にはびっしり旧来の価値観を記述している箇所は墨で塗られ、「軍国日本はアジアで悪い侵略戦争をしてきたのだ、負けてよかったのだ」と、真逆の教えを授かるわけです。

 これは彼らには「あの戦争が終わったとき、僕はすごい衝撃を受けた。それまでの価値観が崩れ、何も信じられなくなった。」(田原氏)ほどのショックだったことでしょう。

 思うに、彼らより上の世代は、男なら兵士として戦争に参加していたわけで、また女にしても軍需工場で働いていたり、何らかの形で戦争に対して「被害者」ではなく参画していた経験があります。

 また、彼らより下の世代は、「被害者」としての経験はあっても、当時乳飲み子であったり彼らほど鮮明には記憶されていないし、それまでと180度偏向した戦後教育にも違和感なく馴染めたことでしょう。

 終戦時、小学五年生であった田原総一朗氏と愛川欽也氏。

 私はこの世代の「被害者」としての「反戦思想」とはいろいろな意味で関わりたくありません。

 ひとつは年長者に対し敬う精神を尊重したいからです。

「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことは尊いことであります。

 そしてもうひとつ本当の理由は議論の余地がないからです。

 彼らと軍事防衛の議論をしても決して実りある結論には達しませんでしょう。

 彼らを論破は決してできません。

 この世代の「反戦」は彼らの「戦争被害者」としての「原体験」から来ているからです。

 「焼夷弾」ですべてを失った私の母親も「反戦思想」です。

 「戦争」は絶対「反対」なのです、そこに理屈はありません。



(木走まさみず)