木走日記

場末の時事評論

中国反日デモ〜中国の歴史教育について考察してみる(追記)

 一昨日(4日)エントリーした以下のテキストの追記です。

●中国反日デモ〜中国の歴史教育について考察してみる
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050504/1115197956

 中国の歴史教育に関して批判的に考察させていただいたわけですが、当ブログではいつものことなのですが、コメント欄でブログ管理人(私です)の考察より鋭い考えさせられるご意見をいくつかいただきました。

 せっかくですので、追記の形で読者のみなさまにあらためてご紹介させていただきます。(なんか、最近追記が多いなあ・・・(汗 )



●鮎川龍人様のご意見

# 鮎川龍人 『結局、歴史学と政治のどちらが歴史観構築の動機をもっているかでしょうね。
近現代史といわれる時代史については、歴史学より政治の側の方に理念を形成する動機がある。
また国家史や民族史に較べて世界史的観点っていうのは、より学問的に捉え易いっていうことがあります。
あるいは、政治史とか、文化史とかの限定的分野の歴史(というか、異なった視点からの歴史)は、それぞれに歴史観構築の主体がある。
歴史観っていうのは、優劣ではないんで、独立したように見える歴史事象の間に因果関係や相互作用を見つけられるかどうか、納得できる叙述ができるかどうか、流れをきちんと説明できるか、という問題ですから、当然、時代や地域や分野を限定していくと異なったものになる。
同じ学者が叙述しても、それは、あり得るわけです。勿論、同一の歴史観で叙述することもできますが。
歴史観が異なると、歴史を叙述する場合のパーツである、歴史事象の認定からして異なってくる。
つまり、1000人学者がいれば1000通りの叙述があるわけですから、国家間で歴史叙述を統一しよう、なんていうのは、そもそも学問的に不可能なわけです。
扶桑社の教科書は、そういう部分も説明していて、私が昔つかった教科書なんかとは、レベルが違いますね。
だから、町村外相の提案っていうのは、歴史観は共有できない、という学問的事実を確認するのが目的と考えれば、それなりに意味があるわけです。
こんなこと、改めて確認しなければいけないっていうのは、やっぱり学問としての歴史学に対する認識が違うからなんですね。
日本はわかってきてますけど、中国と半島っていうのは、司馬遷以下の正史っていう流れが、それこそ“歴史的に”あるわけだから。歴史の多様性が理解できないわけです。もちろん、優れた学者はいますけれど、政治と歴史学が密着している国では、この問題は非常に難しいわけです。
これをいうと、歴史学って学問?とかいう話になってしまう。
進化論だっていろんな説があるわけで、それと同じようなもんなんですけどね。』

 歴史学者であり考古学者でもある鮎川様のアカデミックな論説であります。
 そうですね、学問と政治は分別しなければならない、特に政治は学問に干渉してはならないのだと再認識いたしました。

 鮎川様のブログには、いつも多くのことを学ばせていただいており感謝いたしております。

●世の中驚くことばかり!
http://blog.goo.ne.jp/melody777_001/

●海岸通り様のご意見

# 海岸通り 『 いつもながら興味の尽きないエントリーです。
 私は中学教員(担当は社会ではなく数学です)なのですが、現場から言わせていただくとこの歴史教科書問題は日本においては、複雑な「知恵の輪」のような状態になっていますね。 たとえ解けても現状の解決には何もつながらない不毛の論争という意味で、「知恵の輪」遊びに似ていると思います。

 私は千葉県の公立中学に在籍しておりますが、そもそも一部右よりの人達が指摘する日教組の影響などはすでにほとんどありません。それどころか、社会担当の同僚の話によれば、問題になっている日本史の近代史の部分などはほとんど授業時間が取れないのが現状のようです。また、今の生徒達は日本の歴史などには全く興味を持っていないようにも思えます。中国の場合、たぶん愛国教育により偏向した教育が実践されているのかも知れませんが、日本の場合、現状の歴史教科書を採用し続けても、たとえ「新しい歴史」教科書が採用されたとしても、ほとんど何も変わらないでしょう。歴史教育の現場に教える方も教わる方にも、全くやる気というか熱気がないのですから。これは社会科だけの問題ではありませんが・・・
 多くの生徒は、60年前に日本がアメリカと戦争をしてこてんぱんに負けたこと自体、試験が終われば忘れているのです。(これはオーバーな話ではありません。中学生・高校生のお子さんのいる読者がいたら確認してみて下さい。「日本は最後にいつどこと戦争したんだろう?」と聞くだけですぐおもしろい(?)回答を得ることができるでしょう)
 悲しいことですがこれが日本の教育現場の現状なのです。もちろん、例外的に熱心に指導している教員もいることは認めますが・・・

 教育の現場から個人的意見をいわせていただければ、この歴史教科書に関する「知恵の輪」は、実際の中学の授業を見ていない一部評論家の人達だけが、熱心に解こうと戯れているようにも感じられます。ある意味、韓国や中国も踊らされているようにも思えます。皮肉な話ですが、彼の国も日本の教育の実状を知ればおおいに安心するのではないでしょうか?少子化が進む中で日本の教育のあり方全体が、問われるべきなのでしょう。

 すこし、記事の主旨とずれました。失礼いたしました。
 いつもながらユニークな着眼点を紹介いただき、ありがとうございます。
 余談ですが、木走さんは、週間金曜日からWILLまで読まれているのですねえ(笑)』

 現職の中学校教員であられる海岸通り様からの裏話的なしかし本質を突いたご意見であります。そうなんですよね、日本の教育現場から考えてみると、中国・韓国や国内の一部左よりの人達が批判するほど近代歴史教育などは重視されていないというか、ほんの少ししか学んでいないのですよね。私の記憶でも、日本史の中の近代史のウェイトは、たいしたことなかったし、入学試験などでもそれほど出題されていないのですよねえ。

 この日本の現状を彼の国の人達はどこまで正しく認識されているのかは、興味のあるところであります。



●rice_shower様のご意見

# rice_shower 『>日本人の見る虹と中国人の見る虹とが違うのは当たり前のことで、それなのに同じ虹を見ようとすること自体ナンセンス(by 渡部教授)
>歴史認識を共有できるなどという幻想はくれぐれも抱いてはいけない(by kibashiriさん)
>近現代史といわれる時代史については、歴史学より政治の側の方に理念を形成する動機がある。 国家間で歴史叙述を統一しよう、なんていうのは、そもそも学問的に不可能(by 鮎川さん)
かねがね“史実の共有は可能でも史観の共有は不可能”と申し上げいますが、ベクトルとしては皆さんと一致しているのだと思います。
そもそも歴史教育は各々の国が現統治機構の正統性を主張する意図を有し、また史観が主観的であることを踏まえれば、もっぱら“虹”について語られるのはごく自然なことで、それ自体は批判されることではないだろう。  しかし、その主観に客観性による説得力を持たせるためには、虹の下の“汚泥”についても言及すべきだ。 表面を取り繕い隠蔽するのではなく、その存在を積極的に知らしめ、虹の美しさを引き立てる効果も期待する。(自虐史観とは
動機、志が異なる)
豊饒なる中国4000年の歴史、これを否定する人は少なかろう。 しかし、前にも述べたが、世界の人々がrespectしているのは1949年以前の中国であり、これ以降の中国の近現代史は、政治、経済、技術、社会システム後進国としての悔恨、恥辱の歴史、“汚泥の堆積史”だ。  
そしてその汚泥の放つあまりの悪臭(死臭も含んだ)に、これを覆い隠し、もっぱら虹のみを語り現体制へのrespectを刷り込む必要に迫られることになる。 
ところが本来の体臭(体制そのもの巣くう歪み、病巣などに起因する)に加え、改革、開放のnegativeな効果も相俟って、現体制自身が臭気芬々であり、一方、汚泥の隠蔽板は穴だらけで、そこから立ち上る悪臭を人々はとっくに認知している。 よって、より大きな美しい虹が必要となる、或いは別の“悪臭”で自身の体臭から注意をそらす必要がある。
そこで、現前の物質的繁栄と輝き続ける未来という仮構のハレーションによる目眩ましと“愛国教”の布教、戦前戦中の思想を肯定的に継承する日本右翼勢力の台頭という臭気の強調となる。 現体制の正統性の唯一の裏打ちと言える物質的成果をこの先も安定的に継続させるためには、対峙した時に(特に欧米と協調して)その阻害、減速要因にもなろう日本の力を削ぐという戦略からも一挙両得だ。
従来の反日スタンスと昨今の日中関係重視発言のずれは「“良い日本”と“悪い日本”が有り、党、政府がその峻別、選択を行い、間違わない」との説明で整合性を取ろうとしている。  「中国の発展に寄与する“良い日本”まで攻撃してはならない。 “悪い日本”は従来通り共に攻撃しよう」との呼びかけであり、何も自身の唯我独尊史観、国際的非常識に思い至り、根本的認識が変化したわけでもないし、改悛したわけでもない。
それは当エントリー中のIQの高い筈の学生達の発言を読んでも良く分かるが、中国政府の教育、世論操作は今のところ奏功している。
これら史観の刷り込みが効果を失った時、今のところ求心を死守している共産党は、一転遠心の核となる。 体制倒壊の恐怖.....。
これらの背景を知れば、中国政府、民衆の対日スタンスがそう容易く変わり得ないことが分かるだろう。』

 うーん、深いのであります。特に「そもそも歴史教育は各々の国が現統治機構の正統性を主張する意図を有し、また史観が主観的であることを踏まえれば、もっぱら“虹”について語られるのはごく自然なことで、それ自体は批判されることではないだろう。  しかし、その主観に客観性による説得力を持たせるためには、虹の下の“汚泥”についても言及すべきだ。 表面を取り繕い隠蔽するのではなく、その存在を積極的に知らしめ、虹の美しさを引き立てる効果も期待する」の部分はおおいにうなずけるものであります。

 しかし、中国政府が教科書にチベット侵略問題、ベトナム侵攻、文化大革命天安門事件を「美しさを引き立てる効果も期待」して詳述するときは来るのでありましょうか?

 興味は尽きないのであります。



●昨日の読売社説

 ところで昨日(5日)の読売社説では、この中国反日教育について触れています。

5月5日付・読売社説(1)
 [『反日』デモ阻止]「立証された中国当局の“能力”」

 中国革命の出発点とされる反日運動「5・4運動」(1919年)記念日の4日、懸念された大規模な「反日」デモは起きなかった。だが、中国国内でかき立てられた「反日」活動が終息した、と見るのは早計だ。

 中国全土に拡散した4月の「反日」デモは日系企業の施設や日本大使館にも投石などで被害を与えた。今回、徹底した警備態勢でデモを封じたことは、かえって「暴力行為を容認してきた」との国際的な指摘を立証する結果ともなった。

 中国政府が「反日」デモ封じに出た理由は二つある。一つは国際的なイメージダウンや日中関係悪化による経済への打撃を避けたいとの思惑だ。もう一つはデモが拡大、激化すれば社会不安を招き、政権批判につながる、との危機感だ。

 一連のデモの中心となった若者層は徹底した「反日」教育を受けて育った世代だ。中国大衆の反日感情は政府自身が制御に手を焼くほど肥大化しつつある。

 母胎を作ったのは江沢民前政権が導入、強化した愛国「反日」教育だ。それ以前の中国の教科書は「抗日戦争」を扱うにしても、「反日」は主眼でなかった。江政権下では、「南京大虐殺」の項目や「日本の残虐統治」の章を追加した。

 中学教師用の指導要領には、南京事件に関し「日本帝国主義の残虐さを血に満ちた事実で暴露する」「骨髄まで恨みを刻ませる」との記述まであるという。

 江政権は「反日」教育の生涯学習化も進めた。「幼稚園から大学」を中心に社会教育まで対象にした「愛国主義実施要綱」の制定や、200か所を超える「愛国主義教育基地」の建設だ。

 しかも、教科書に記載された中国側の「史実」には、意図的に反日感情を植え付けようとする表現が多い。

 高校教科書にある「田中上奏文」がその一例である。田中義一首相が中国侵略計画を昭和天皇に密奏した文書、と記述しているが、中国側のねつ造だったことは、とっくに立証されている。

 4月下旬の日中首脳会談で、胡錦濤国家主席は、「日中の友好協力」を発展させる方針を示し、「歴史を正しく認識し対処」するよう求めた。だが中国の「反日」教育こそ、日中関係を発展させる阻害要因になっているのは明らかだ。

 町村外相は、4月中旬の訪中時、中国の教科書の実態を調べ、改善を求める考えを伝えた。具体策の一環として「歴史共同研究」を提案した。

 共産党史観しか許されない中国側学者に「研究」の自由はない。だが、少なくとも、日本側が中国側の歴史認識の誤りを指摘し続ける場にはなりうる。

(2005/5/5/01:19 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050504ig90.htm

 町村外相の「歴史共同研究」提案ですが、互いの「虹」(歴史史観)を一致させることは難しいでしょうが、ひとつひとつの「水滴」(歴史的事件等)の客観的検証には役に立つのかもしれませんね。

 歴史認識に関しては劇的な特効薬がない以上、地味かも知れませんが小さな努力を積み上げていくしか方法はないように思えました。



(木走まさみず)

<関連サイト>
●世の中驚くことばかり!
http://blog.goo.ne.jp/melody777_001/

<関連テキスト>
●中国反日デモ〜中国の歴史教育について考察してみる
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050504/1115197956