憲法前文は完全に空文と化した〜安倍政権は今こそ憲法改憲発議を目指すべきではないか
あらためて憲法前文を確認しておきましょう。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
北朝鮮の度重なる暴挙に、我が国を取り巻く安全保障環境は、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」とは真逆の状況です、憲法前文は完全に空文と化しています。
安倍晋三首相の首相在任期間が今年5月27日、第1次と第2次政権を合わせて1980日となり、小泉純一郎元首相に並びました。
現在、佐藤栄作元首相(2798日)、吉田茂元首相(2616日)に次いで単独で戦後3位となり、なお在任期間を延伸中であります。
ここ最近では世論調査の支持率低落で黄信号がともってきたとの指摘がありますが、戦後屈指の保守安定政権であることは異論のないところでしょう。
新憲法が公布されたのが1946年(昭和21年)11月3日、翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行されてから70年、この新憲法は一度も改正されることなく、戦争放棄の9条において「軍隊」を保持しないことを明確に掲げてまいりました。
憲法を指して「不磨(ふま)の大典(たいてん)」というのは明治憲法発布の勅語にあった言葉といいます。
不磨とは摩滅しないことで、大典ともども随分と大げさな言葉ですが、欽定(きんてい)憲法だった旧憲法は不滅・不朽とされていたのであります。
ところで新日本国憲法は改憲を党是とする自民党が統治する時代に、何と一項の改変もないまま旧憲法の57年を大きく超える施行70年を迎えたわけです。
「憲法を不磨の大典と考える国民は少数になり、いよいよ機が熟してきた」と安倍晋三首相は今年の憲法記念日に語っています。
現憲法こそがまさに、70年の長きにわたり「触るべからず」との不条理な非論理により、「不磨の大典」のごとく扱われてきたわけです。
なによりも、リベラル派や憲法学者により憲法改正論議はタブー視されてきました。
今、憲法前文は完全に空文と化しています。
この東アジアに「平和を愛する諸国民の公正と信義」はどこにありましょうや? 今、そのようなものは残念ながらかけらもないのです。
外では北朝鮮が蛮行を繰り返し、内においては安倍長期政権が衆参で三分の二の改憲支持議席を確保せんとしている現在、おそらく憲法改正を発議までもっていく最大にして最後の機会だと申しても、決して過言ではないでしょう。
おそらくこの機を逃したとすれば、我々の世代で憲法改正発議まで持ち込むことは二度とできないと、当ブログは考えます。
今こそ、憲法9条改正を議論しましょう。
北朝鮮に対する対抗処置は国連を通じて日米同盟を基軸として粛々と講じていくとして、それとは別に、今こそ、憲法9条改正を議論をし、国会は改正案を発議すべきです。
もちろん、その発議を認めるか否か、最終的には国民投票にて決定されるのです。
その結果は、改正がなされても否定されてもそれはこの国の現行憲法に従い、国民の意思が尊重されるべきです。
その前提の上でですが、安倍政権は改憲支持諸派の協力のもと、今こそ憲法改憲発議を目指していただきたいです。
安倍政権には、この機を逃すなと申し上げたいです。
(木走まさみず)