クラクラと軽く目まいを覚える元旦の朝日新聞トンデモ社説の恐ろしさ
本年もよろしくお付き合いのほどをお願い申し上げます。
さて、新年早々なのですが、ややこしい話題をひとつ取り上げておきたいのです。
リベラルな人と議論していると、ときに話が全然噛み合わなくなることがあります。
例えば『憲法九条』の問題です。
憲法九条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この戦争放棄の9条を念仏のように唱えていれば日本の平和は守られると、本気で信じているわけですよ、けっこう知能指数が良いだろうと思われる人がです、リベラル派の。
憲法で「放棄」すれば戦争は起こらないとするならば、日本国憲法にそんな魔力があるのならば、「地震」だって「火事」だって「殺人」だってみんなまとめて憲法で放棄しちゃえばいいわけで、実際はそんな魔力は日本の憲法には全くないから、自衛隊が存在するわけです。
日本が戦争を放棄すれば日本から戦争を仕出かすことはなくなりますが、戦争とは相手あっての争いなわけですから、日本が手を出さなくても相手から手を出してくることも十分有りうる話で、そんなものは交通事故と同じ理屈です。
どんなに本人が安全運転していてももらい事故は防げない、だから安全運転している人の車にも安全装置は必須なわけですよ。
重要なことは、日本が憲法で平和を希求していようといまいと、中国の軍拡は進んでいくし、北朝鮮の核開発は止まらないわけです、だから憲法9条があろうとなかろうと日本は最低限の防衛力を持たざるを得ない。
悪いけど世界は日本国憲法中心には回っていないわけです。
この当たり前の事実を一部のリベラルな人は認めない。
憲法9条にまぶしいほどの「全能感」「万能感」を持っちゃっているんですね、それこそノーベル平和賞に値すると本気で思っている、一種の宗教観に近い、反論を認めないわけです。
こういう考え方が偏っている人は、自分の考えに酔っていますから、考えが狭くなります。
状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度、これを教条主義と言いますが、まさに国際情勢を無視して「戦争放棄」という原則論をひとつの国家の安全保障政策に機械的に適用しようとドグマチズムに陥っているわけです。
ひとつの国の憲法、もちろんその国にとっては最高法規なわけですが、それはあくまで国内のこと、国際紛争では一国の法律など、下品な表現をあえてお許しいただければ、まさにクソの役にも立たないわけです。
憲法が無力であった笑えない例が昨年ロシアにクリミアを強奪されたウクライナです。
ウクライナ憲法は、ソ連崩壊の後、1991年8月24日のウクライナ独立宣言に基づき、1991年12月1日の国民投票により定められた、ウクライナの基本法であります。
ウクライナはその独立のときから、クリミアという厄介な地域を抱えていました。
歴史的にも帝政ロシアの領土であったことのあるクリミア半島は、ウクライナ本土とは民族構成も言語も異なるという特殊な地域でありました。
そこでウクライナ憲法は、わざわざひとつの章を丸々「クリミア自治共和国」のためにだけ用意して、クリミアの高い自治性を憲法で保障していたわけです。
第10章 クリミア自治共和国
第134条 クリミア自治共和国は、ウクライナを構成する不可分の領土であるのと同時に、ウクライナ憲法が定める範囲内で自治を行う。
このようにウクライナはその憲法で「クリミア自治共和国は、ウクライナを構成する不可分の領土である」と宣言していたわけです。
で、昨年、クリミア議会は一方的に住民投票の結果を受けて独立宣言をします。
もちろんウクライナ政府はクリミア議会の独立宣言を憲法違反と非難します。
アメリカ合衆国ジョン・ケリー国務長官も、独立宣言はウクライナ憲法に違反すると非難します。
日本の岸田文雄外務大臣も、ウクライナ領土の一体性確保やウクライナ憲法の規定を理由に、独立宣言の有効性に疑問があると国会で答弁します。
で、国際外交舞台での反応はそれでおしまいです。
ロシア外務省はクリミア独立宣言を合法的なものと認め、16日の住民投票の結果を尊重するとし、最終的にロシアにクリミアを併合いたします。
冷酷なロシアの軍事力を背景にした前時代的領土強奪政策の前に、ウクライナ憲法はクソの役にも立たなかったわけです。
ある国の憲法に何が書かれていようがそんなことは外国はしったこっちゃないわけです、当たり前のことです。
・・・
さて、「護憲」「護憲」とうるさかったリベラルな人たちが最近口にするのが「立憲主義」なる四文字です。
「立憲主義」って何でしょう?
ひと言でいえば、権力の行使を憲法で縛る、コントロールすること、権力行使の主体は、国家ですから、つまり、立憲主義とは、国家権力を憲法で縛るシステムのことであります。
で、日本国憲法は、「立憲主義」をとっていますと。
ここまでの考え方はよろしいのです。
よろしいのですが、一部リベラルな人たちがこの「立憲主義」なる四文字に、例によって「全能感」「万能感」を持たせちゃって、教条主義的にまたドグマチズムに陥っているのですから恐ろしいのです。
なにが恐ろしいって、その論理が破たんしていることもさることながら、自分たちが愚かな教条主義に陥っていることにまったく気づいていないことです。
教条主義者のリベラル派でも、いくらなんでも「立憲主義」を振り回して日本のあるいは世界の外交政策全般を語るなどのでたらめな愚論を振り回す輩(やから)はいないだろう?ですって?
それが、あなたいるのです。
ここに今年の1月1日元旦の朝日新聞の社説があります。
(社説)憲法70年の年明けに 「立憲」の理念をより深く
2017年1月1日05時00分
http://www.asahi.com/articles/DA3S12730163.html?ref=editorial_backnumber
このクラクラと軽く目まいを覚えるほどの論説は、是非リンク先で原文を味わってくださいませ。
当ブログとしてザックリとこのとんでも社説を解説すれば、社説は冒頭で問題提起します。
世界は、日本は、どこへ向かうのか。トランプ氏の米国をはじめ、幾多の波乱が予感され、大いなる心もとなさとともに年が明けた。
各国でポピュリズムが席巻していると憂います。
昨今、各国を席巻するポピュリズムは、人々をあおり、社会に分断や亀裂をもたらしている。民主主義における獅子身中の虫というべきか。
で、社説の結びはこうです、「世界という巨大な船が今後も、水平を保って浮かび続けられるように」するためには、その答えは「立憲主義」にあると。
憲法学者の長谷部恭男・早稲田大教授は「立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖(ぎょうこう)である」と書いている。
であればこそ、立憲主義の理念を、揺らぎのままに沈めてしまうようなことがあってはならない。
世界という巨大な船が今後も、水平を保って浮かび続けられるように。
ふう。
いやはやなんともです。
「立憲主義」が世界を救うですってか?
朝日新聞論説室はそろいもそろって頭が不自由なのですか? バカなのですか?
日本国憲法にどこまで「万能感」「全能感」を持たせば気が済むのでしょう。
いいですか?
トランプ大統領を生んだ各国を席巻するポピュリズムですが、「民主主義における獅子身中の虫」だかなんだかわかりませんが、それに対抗するのに「立憲主義」など、クソの役にも立たないことだけは間違いないですから。
そんなトンチンカンな論説、国際的に誰も主張してませんから。
読者のみなさん。
これが2017年元旦の天下の日本のリーディングクオリティペーパーを自認している朝日新聞の社説なのです。
何が恐ろしいって、社説のトンチンカンな中身もさることながら、こんな社説を恥ずかしげもなく正月早々掲載しているその無神経さのほうです。
そうは思いませんか、読者の皆さん。
(木走まさみず)