木走日記

場末の時事評論

「ジャーナリストの使命」(田原氏)なんて考え方は前時代の残滓〜ジャーナリストが一次情報発信を独占していた時代は終焉を迎えつつある

 さて少しメディア論をさせてください。

 このSNSが普及した時代。情報発信はメディア・ジャーナリストの独占物ではなくなりつつあります。

 考えてみれば一般大衆に情報発信するジャーナリストなど、教員や医師のように免許がいるわけでもなく、何の資格も必要としない職業なのであり、本来社会の誰でも情報発信可能なものである性質だったのが、新聞・ラジオ・TVと既存のマスメディアは、放送電波の免許や独禁法例外の新聞再販制度などで、幾重にも法により守られた選ばれた「特権階級」として情報発信を独占してきただけです。

 旧来のメディアは限られた情報発信手段を独占し、新聞は「大衆」に情報を一方的に発行、TV・ラジオは「大衆」に情報を一方的に放送、情報は「特権階級」であるメディア・ジャーナリストから一般大衆に一方通行に発信されるものでありました。

 彼らが情報発信の特別の能力を有しているわけでもなく単に法により守られた存在であり、自由競争ではなく独占的に発信手段を有しているだけの存在であったために、自分たちの利権を守るために日本では100以上の記者クラブが現存し、今現在も情報源の独占を何とか守ろうとあがいているのは、むしろ滑稽ですらあります。

 記者クラブ制度などマスメディアが「特権階級」であったころの残滓にすぎません。

 ネットの普及により情報の流れは革命的な変化をいたしました。

 WEB2.0の技術革新は、ネット上の情報発信を完全にインタラクティブな双方向性、すなわちネット参加者のすべての人に情報発信能力を与えたのです。

 ネットメディアでは、情報発信者が起こした記事は、コメント欄、ツイッター、ブックマーク、トラックバック、あらゆる手段で読者の意見がぶつけられていきます。

 アマゾンの商品レビューしかり、ネットメディアの記事ページしかり、ネット情報は完全に双方向性を有しており、リアルタイムに会話的に情報のキャッチボールが可能となった初めての媒体、それがネットなのです。

 ネットでは情報発信はマスメディアの独占物ではなくなった、唯一の情報発信者としての「特権階級」だったマスメディア・ジャーナリストのその独占的「利権」が、インターネットにより今崩れ去ろうとしているわけです。

 新聞などのマスメディアやジャーナリストがインターネットおよびそのユーザーに徹頭徹尾批判的であるのは、フランス革命時の貴族階級の大衆に対する反応とほぼ同値なのであり、自分たちが能力的に優れているから独占的に情報発信していたわけではなく単に法律に守られていただけの「裸の大様」であったことを今、マスメディアは痛感しています。

 彼ら既存のマスメディアやジャーナリストはネットのメディアとしての特性を真に理解できていません。

 放送や新聞発行といった一方通行の情報伝達手段にすっかり慣れているために、ネットでは情報が双方向で飛び交うことに戸惑ってばかりいます、ときにネットの匿名性や情報精度の玉石混淆なことを批判的に取り上げることはあっても、媒体としてのネットの優れた特性を正しく理解はできていません。

 過日、「ヤフー知恵袋」が大学入試のカンニングに利用され大きな騒動となりましたが、大新聞はこぞって社説でネット批判を展開いたしました、「だからネットは信用できない」、「ネットユーザーのモラルの低下」うんぬん、勇ましく社説で語られていましたが、「ヤフー知恵袋」の事件が示していたのは、だからネットはだめなんだということではまったくなく、実は本質は真逆であり、ネットが情報発信の双方向性を持つ優れた媒体であるからこそ「ヤフー知恵袋」のようなリアルタイムサービスが実現しているのであり、優れた媒体であるからこそカンニングに悪用されたのであります。

 誰かが疑問に思うことを発信し、その情報の不特定多数の受信者が「解決策」を提案する、リアルタイムなこのようなサービスは、既存の放送や新聞では逆立ちしても真似はできないのですが、新聞の社説ではそのようなネットのメディアとしての特性に対する言及は皆無であり、ただ表層的なネットおよびユーザー批判にとどまっていました。

 ・・・

 最近メディアリテラシー教育の重要さが再認識されつつあります。

 私は、ネットの活用により誰もが情報発信者になりうる新たなるこの時代、氾濫する情報から有用な情報を選択し、かつ情報の真贋を見分けるのは、受け手側の情報リテラシー能力を高める以外に有効策は無いと考えています。

 選ばれた「特権階級」であるマスメディアが情報発信を独占していた時代に戻ることはもはや不可能でしょう。

 朝日の従軍慰安婦に関する捏造報道はネット上では、ほぼ完全にトレース・検証されています。

 ただ、マスメディアが報道しない情報でもネットでは得ることができますが、ネットを普段利用しない「情報弱者」には届かないという新たな問題も発生しています。

 メディアをリテラシーするということは、多くの情報ソースを確保し、偏向する情報を我々自らが整理・理解する能力が問われます、ここで言う偏向する情報とは、TV・新聞・ラジオのマスメディアがある種の報道を沈黙することも含まれれば、ネットで氾濫する情報のその正誤を交通整理することも含まれます。

 マスメディアの情報の中立性を疑うことはもちろん、ネットに溢れている情報の中立性もしっかり疑う必要があります。

 しかしここでいままでの既存メディアとちがい、新しい媒体としてネットの特性は、メディアリテラシーを重視するならば有効でありましょう。

 既存メディアの情報の流れはメディアから視聴者・読者への一方通行であるのに対し、情報の流通の双方向性を有するネットでは、もし質の悪い情報であるならばすぐに読者から反論や疑問のコメントや意見が付くからです。

 一方向に偏る議論ではなく多元的な議論を起こし、物事を複眼的に考察する、そのような視野の広い冷静な論考を可能にするのは、媒体としてはネットのほうがはるかに利便性があるといえましょう。

 私たちは新聞・TVなどの既存メディアは一方的に情報を垂れ流すだけのメディアであることに気づいてしまいました。

 マスメディアからの情報は受信するのみ許され、私たちが反論を発信する手段はありませんでした。

 一方、ネットでは私たち自身が情報発信が可能である、参加者になれます。

 この決定的な媒体としての特性の違いをマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。

 彼らはもはや情報発信を独占する「特権階級」ではないのです。

 ・・・

 情報発信がメディアやジャーナリストなどの「特権階級」の独占物であった昔は、その限られた情報が偏向していると社会に対して多大な悪影響を及ぼしたのは朝日新聞慰安婦ねつ造報道が好事例であります。

 今、情報発信は世界中、限られたジャーナリストという「点」の発信からネットを通じて多くの不特定多数者による「面」の発信という、劇的変化が起こりつつあります。

 例えば災害現場では、ジャーナリストが不在でもSNSを通じて多くの情報が臨場感を持って発信され始めています、最近では御嶽山の噴火においてSNSはその威力を発揮したのは記憶に新しいでしょう。

 世界中の戦争や紛争の現場においてもジャーナリスト以外の一般の情報発信が貴重な情報を世界中に発信しつつあります。

 情報発信手段と行為者は「点」から「面」へと、劇的な変化が生まれつつあるのです。

 この劇的な変化をマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。

 BLOGOSにて既存ジャーナリストの代表格といってもよろしいでしょう、田原総一朗氏が「ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮」と題したエントリーをしています。

田原総一朗2015年02月09日 13:06
ISILによる日本人人質事件で考えた、ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮
http://blogos.com/article/105237/

 失礼してエントリーより抜粋。

「正解」の対応は、正直、僕にもわからない。ただ、ひとつ、何度でも言いたいことがある。人質となった後藤健二さんに対して、「危険な国に勝手に行ったのだから、自己責任だ」という意見がある。確かに自分の意思で行くのだから、自分の責任だろう。だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。

今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。僕も、そうした場数はたくさん踏んできた。

そしてジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る。みんなが、現実について考えるためのきっかけや材料を提示するのだ。僕たちは、こうやって民主主義の根幹を支えていると思っているのである。

 「ジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る」とは、いかにも古い考え方であります、ジャーナリストだけが「情報発信」を独占していた古き良き時代の「残滓(ざんし)」 ともいえましょう。

 国内では3.11のときも御嶽山噴火のときも、ジャーナリストが現地入りする前に、すでに大量の情報がネットを通じて発信されていました。

 それらの情報の中には、田原氏が主張する「だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。」との貴重な情報、まさに、現地在住者だからこその視点のたくさんの貴重な情報が一般住民から発信されていました。

 御嶽山噴火ではほぼ一般市民の情報発信だけでメディア報道は構成され最後まで現地にジャーナリストは不在でしたが私たちはなに不自由なく情報に触れることができました。

 今回のISIL関連の情報にしても世界で起こっている事件に関しても、別に日本人ジャーナリストが現地にいなくても私たちはネットを通じてしっかりと情報収集が可能です。

 ジャーナリストが一次情報発信を独占していた時代は終焉を迎えつつあります。

 これはネットの発達により世界中で情報発信者が「面」的に爆発的に膨らみつつある不可逆的な流れであります。

 この流れにあがなうことは不可能です。

 田原氏のいう、危険な場所でもジャーナリストが情報発信をする「使命」ですが、そのような使命がかつてあったことは敬意をこめて認めるものの、現時点そして将来その「ジャーナリストの使命」なるものは、変質を余儀なくされることでしょう。

 現地からの情報発信者がジャーナリストである必然性が失われつつあるからです。

 その意味で、「ジャーナリストの使命」という考え方そのものが、前時代の残滓(ざんし)なのだと感じています。



(木走まさみず)