木走日記

場末の時事評論

既存マスメディアが情報発信を独占していた時代の終焉〜大衆は愚かではない

 朝日新聞が2日に渡り従軍慰安婦問題を特集で取り上げました。

慰安婦問題を考える
http://www.asahi.com/topics/ianfumondaiwokangaeru/?iref=comtop_pickup_05

 「慰安婦問題の本質 直視を」との論説の中で「ネット上には、「慰安婦問題は朝日新聞の捏造(ねつぞう)だ」といういわれなき批判が起きています」との言及があり興味深かったのです。

慰安婦問題が政治問題化する中で、安倍政権は河野談話の作成過程を検証し、報告書を6月に発表しました。一部の論壇やネット上には、「慰安婦問題は朝日新聞の捏造(ねつぞう)だ」といういわれなき批判が起きています。しかも、元慰安婦の記事を書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが寄せられるようになりました。

 「いわれなき批判」とは笑止です。

 朝日の一連の捏造報道こそが従軍慰安婦問題の真に直視すべき「本質」であることはネットでは広く理解されているのです。

 大衆は愚かではありません。

 考えてみれば一般大衆に情報発信するジャーナリストなど、教員や医師のように免許がいるわけでもなく、何の資格も必要としない職業なのであり、本来社会の誰でも情報発信可能なものである性質だったのが、新聞・ラジオ・TVと既存のマスメディアは、放送電波の免許や独禁法例外の新聞再販制度などで、幾重にも法により守られた選ばれた「特権階級」として情報発信を独占してきただけです。

 旧来のメディアは限られた情報発信手段を独占し、新聞は「大衆」に情報を一方的に発行、TV・ラジオは「大衆」に情報を一方的に放送、情報は「特権階級」であるメディアから一般大衆に一方通行に発信されるものでありました。

 彼らが情報発信の特別の能力を有しているわけでもなく単に法により守られた存在であり、自由競争ではなく独占的に発信手段を有しているだけの存在であったために、自分たちの利権を守るために日本では100以上の記者クラブが現存し、今現在も情報源の独占を何とか守ろうとあがいているのは、むしろ滑稽ですらあります。

 記者クラブ制度などマスメディアが「特権階級」であったころの残滓にすぎません。

 ネットの普及により情報の流れは革命的な変化をいたしました。

 WEB2.0の技術革新は、ネット上の情報発信を完全にインタラクティブな双方向性、すなわちネット参加者のすべての人に情報発信能力を与えたのです。

 ネットメディアでは、情報発信者が起こした記事は、コメント欄、ツイッター、ブックマーク、トラックバック、あらゆる手段で読者の意見がぶつけられていきます。

 アマゾンの商品レビューしかり、ネットメディアの記事ページしかり、ネット情報は完全に双方向性を有しており、リアルタイムに会話的に情報のキャッチボールが可能となった初めての媒体、それがネットなのです。

 ネットでは情報発信はマスメディアの独占物ではなくなった、唯一の情報発信者としての「特権階級」だったマスメディアのその独占的「利権」が、インターネットにより今崩れ去ろうとしているわけです。

 新聞などのマスメディアがインターネットおよびそのユーザーに徹頭徹尾批判的であるのは、フランス革命時の貴族階級の大衆に対する反応とほぼ同値なのであり、自分たちが能力的に優れているから独占的に情報発信していたわけではなく単に法律に守られていただけの「裸の大様」であったことを今、マスメディアは痛感しています。

 彼らはネットのメディアとしての特性を真に理解できていません。

 放送や新聞発行といった一方通行の情報伝達手段にすっかり慣れているために、ネットでは情報が双方向で飛び交うことに戸惑ってばかりいます、ときにネットの匿名性や情報精度の玉石混淆なことを批判的に取り上げることはあっても、媒体としてのネットの優れた特性を正しく理解はできていません。

 過日、「ヤフー知恵袋」が大学入試のカンニングに利用され大きな騒動となりましたが、大新聞はこぞって社説でネット批判を展開いたしました、「だからネットは信用できない」、「ネットユーザーのモラルの低下」うんぬん、勇ましく社説で語られていましたが、「ヤフー知恵袋」の事件が示していたのは、だからネットはだめなんだということではまったくなく、実は本質は真逆であり、ネットが情報発信の双方向性を持つ優れた媒体であるからこそ「ヤフー知恵袋」のようなリアルタイムサービスが実現しているのであり、優れた媒体であるからこそカンニングに悪用されたのであります。

 誰かが疑問に思うことを発信し、その情報の不特定多数の受信者が「解決策」を提案する、リアルタイムなこのようなサービスは、既存の放送や新聞では逆立ちしても真似はできないのですが、新聞の社説ではそのようなネットのメディアとしての特性に対する言及は皆無であり、ただ表層的なネットおよびユーザー批判にとどまっていました。

 ・・・

 最近メディアリテラシー教育の重要さが再認識されつつあります。

 私は、ネットの活用により誰もが情報発信者になりうる新たなるこの時代、氾濫する情報から有用な情報を選択し、かつ情報の真贋を見分けるのは、受け手側の情報リテラシー能力を高める以外に有効策は無いと考えています。

 選ばれた「特権階級」であるマスメディアが情報発信を独占していた時代に戻ることはもはや不可能でしょう。

 朝日の従軍慰安婦に関する捏造報道はネット上では、ほぼ完全にトレース・検証されています。

 ただ、マスメディアが報道しない情報でもネットでは得ることができますが、ネットを普段利用しない「情報弱者」には届かないという新たな問題も発生しています。

 メディアをリテラシーするということは、多くの情報ソースを確保し、偏向する情報を我々自らが整理・理解する能力が問われます、ここで言う偏向する情報とは、TV・新聞・ラジオのマスメディアがある種の報道を沈黙することも含まれれば、ネットで氾濫する情報のその正誤を交通整理することも含まれます。

 マスメディアの情報の中立性を疑うことはもちろん、ネットに溢れている情報の中立性もしっかり疑う必要があります。

 しかしここでいままでの既存メディアとちがい、新しい媒体としてネットの特性は、メディアリテラシーを重視するならば有効でありましょう。

 既存メディアの情報の流れはメディアから視聴者・読者への一方通行であるのに対し、情報の流通の双方向性を有するネットでは、もし質の悪い情報であるならばすぐに読者から反論や疑問のコメントや意見が付くからです。

 一方向に偏る議論ではなく多元的な議論を起こし、物事を複眼的に考察する、そのような視野の広い冷静な論考を可能にするのは、媒体としてはネットのほうがはるかに利便性があるといえましょう。

 私たちは新聞・TVなどの既存メディアは一方的に情報を垂れ流すだけのメディアであることに気づいてしまいました。

 マスメディアからの情報は受信するのみ許され、私たちが反論を発信する手段はありませんでした。

 一方、ネットでは私たち自身が情報発信が可能である、参加者になれます。

 この決定的な媒体としての特性の違いをマスメディアは理解していません。

 彼らはもはや少なくともネットでは情報を独占する「特権階級」ではないのです。

 情報を独占できない以上、マスメディアは発信する情報の「質」を向上させるしか生き残る道はありません。

 いままでのように独占利権にあぐらをかいていていい時代は終わったのです。

 今回の朝日新聞による従軍慰安婦捏造報道自己検証は、メディアリテラシー能力を備えたネットの媒体としての底力を見せつけたのだとも言えましょう。



(木走まさみず)