木走日記

場末の時事評論

前時代的な無謀な現場第一主義、「突撃ジャーナリズム」の功罪〜背景にあるジャーナリスト同士の小さなヒエラルキー

 問われているのは、前時代的な無謀な現場第一主義、「突撃ジャーナリズム」の功罪そのものだと考えます。

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 さてまたしても「自己責任論」論争であります。

(参考記事)

安田さん解放
「自己責任論」で賛否の渦 著名人も発信
https://mainichi.jp/articles/20181027/k00/00e/040/230000c

 日本人ジャーナリストが自らの意思でリスクの伴う紛争地域に入り、日本人オーディエンス(読者・視聴者)のために現地から報道をする、そして不運にも報道に至る前にあるいは報道途中で、武装勢力に拘束されてしまう。

 武装勢力はジャーナリスト解放の条件に今回は否定されているが、しばしば高額の身代金を日本政府に要求する。

 結果今回は無事開放されたが、3年前のISIL(イスラム国)人質事件の時には湯川遥菜さん、後藤健二さん、2人の日本人の命が奪われてしまった。

 このような展開に、上記毎日新聞記事曰く「自ら紛争地域に入って拘束されたのだから自己責任」いわゆる「自己責任論」が今回も渦を巻いているといいます。

 これに対して少なからずのジャーナリストや評論家から「自己責任論」批判が起きています。

 そこには現地報道は「ジャーナリストの使命」であるという確固たる信念があるようです。

 例えばジャーナリストの田原総一朗氏は、3年前の人質事件の時に危険地報道は「ジャーナリストの使命」だ、「民主主義の根幹を支えている」と主張しています。

(前略)

「正解」の対応は、正直、僕にもわからない。ただ、ひとつ、何度でも言いたいことがある。人質となった後藤健二さんに対して、「危険な国に勝手に行ったのだから、自己責任だ」という意見がある。確かに自分の意思で行くのだから、自分の責任だろう。だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。

今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。僕も、そうした場数はたくさん踏んできた。

そしてジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る。みんなが、現実について考えるためのきっかけや材料を提示するのだ。僕たちは、こうやって民主主義の根幹を支えていると思っているのである。

(後略)

田原総一朗
2015年02月09日 13:06
ISILによる日本人人質事件で考えた、ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮
http://blogos.com/article/105237/

 田原氏によるものすごいジャーナリストの使命感、そして現場第一主義です。

今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。

 ジャーナリストの現場第一主義の歪んだ事例を見てみましょう。

 58名が死亡した2014年の御嶽山噴火です。

 この噴火では突然のケースでもあり、現地に報道陣は到着せず最後まで一人のジャーナリストも現地入りできませんでした。

 しかし多くの登山者が遭難直後にネットに情報投稿、その多くがメディア報道されることになります。

 現場第一主義優先で一部メディアは人道上問題のある行為を起こしてしまうのです。

 「御嶽が噴火した やばい、遭難した」と噴火の画像付き投稿者に対して、「NHK社会部です。掲載している画像についてお聞きしたいことがあります。ダイレクトメールで直接やり取りをさせていただきたいので、大変恐れ入りますが、@nhk_syakaibuをフォローしていただけませんでしょうか。よろしくお願いします。」と噴火の画像を問い合わせます。

 遭難者の安否も確認せずのこの取材活動は直後に大炎上、大批判を浴びます。

 やりとりをまとめサイトよりご紹介。

御嶽山噴火に群がるマスコミのハイエナ取材

https://togetter.com/li/724387

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 まとめます。

 この21世紀ネット時代に田原氏などが唱えるジャーナリストの現場第一主義は大きく揺らいでいます。

 「ジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る」とは、いかにも古い考え方であります、ジャーナリストだけが「情報発信」を独占していた古き良き時代の「残滓(ざんし)」 ともいえましょう。

 国内では3.11のときも御嶽山噴火のときも、ジャーナリストが現地入りする前に、すでに大量の情報がネットを通じて発信されていました。

 御嶽山噴火ではほぼ一般市民の情報発信だけでメディア報道は構成され最後まで現地にジャーナリストは不在でしたが私たちはリアルで正確な情報に触れることができました。

 今回のシリア関連の情報にしても世界で起こっている事件に関しても、別に日本人ジャーナリストが現地にいなくても私たちはネットを通じてしっかりと情報収集が可能になりつつあります。

 ジャーナリストが一次情報発信を独占していた時代は終焉を迎えつつあります。

 これはネットの発達により世界中で情報発信者が「面」的に爆発的に膨らみつつある不可逆的な流れであります。

 この流れにあらがうことは不可能です。

 情報発信がメディアやジャーナリストなどの「特権階級」の独占物であった昔は、その限られた情報が偏向していると社会に対して多大な悪影響を及ぼしたのは戦時中の朝日新聞等の軍部べったりの好戦報道が好事例であります。

 今、情報発信は世界中、限られたジャーナリストという「点」の発信からネットを通じて多くの不特定多数者による「面」の発信という、劇的変化が起こりつつあります。

 例えば災害現場では、ジャーナリストが不在でもSNSを通じて多くの情報が臨場感を持って発信され始めています、上記の御嶽山噴火においてSNSはその威力をまさに発揮したのでした。

 世界中の戦争や紛争の現場においてもジャーナリスト以外の一般の情報発信が圧倒的かつ貴重な情報を世界中に発信しつつあります。

 情報発信手段と行為者は「点」から「面」へと、劇的な変化が生まれつつあるのです。

 この劇的な変化をマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。

 紛争地や災害発生地に入り危険な現場から報道をする、結果人質になってしまう、あるいは災害地や遭難者・避難者に迷惑をかける、このジャーナリストのスタイルそのものが問われているのではないでしょうか。

 繰り返します。

 問われているのは、前時代的な無謀な現場第一主義、「突撃ジャーナリズム」の功罪そのものだと考えます。

 本当にそこに「突撃」しなければ真実は報道できなかったのか。

 すくなくとも今回の場合、40ヶ月拘束され、その間ルポも現地取材もできてはいません。

 今回のやり方(入国方法、現地での協力体制など)に誤りはなかったのでしょうか。

 ちなみに海外危険地に突撃取材するのはみんなフリーのジャーナリストであり、新聞やテレビなどマスメディアの記者ではありません。

 マスメディアの記者は社から紛争地最前線への危険な取材は原則禁じられています。

 マスメディア側のチキン振りはまた別に論じますが、多くのフリージャーナリストが戦地に行くのはそこに入ればマスメディア側が記事を買ってくれるからです。

 しかし年々危険な戦地でも現地一般人からのSNS経由の情報が増えており、フリージャーナリストが現地に入ってもよほどのスクープかルポルタージュ記事でないと商品価値がありません。

 そこで世界中の彼らフリージャーナリストはより危険な前線へと足を運ぶ傾向があるのです。

 今回の件でこのような背景を論じるマスメディアは皆無です、ここに触れると彼らジャーナリスト同士の小さなヒエラルキー身分制度にふれなければならないからです。

 最後にこの危険な前時代的行為には責任が伴うのは当然だと考えます。



(木走まさみず)