木走日記

場末の時事評論

「災害免れた松島の貝塚」(日経記事)から愚考する〜現代人が後世に残す確実な遺物

 6月28日付け日本経済新聞文化面の記事が大変興味深かったので電子化されていないようですが読者に紹介します。

災害免れた松島の貝塚
縄文人の自然や暮らしの思想を復興策に◇
内山純

 上の地図は新聞紙面を直接スキャンして拡大したものですが少しゆがんでしまいましたがご容赦ください。

 記事を書いている内山純総合地球環境学研究所准教授は考古学者であり、松島湾にある里浜貝塚や大木囲貝塚など7000〜3000年前の遺跡を、20年以上調査してきたのだそうです。

 なぜ松島湾を20年も調査しているのかというとその理由を記事より抜粋。

 松島湾縄文時代と同じ風景を今も見ることができる全国でも貴重な地域だ。縄文時代の海面は現代より3〜5メートル高く、海岸線は大きく異なっている。だが松島湾周辺は縄文時代以降海面が下がるのと同じペースで地盤が沈下したため、海岸線が変わっていない。

 いわゆる「縄文海進」は縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことですが、海面が今より3〜5メートル高かったと言われているのですが、松島湾は偶然にも同じペースで地盤が沈下したため「縄文時代と同じ風景を今も見ることができる」つまり、縄文時代の海岸線がほぼ維持されている貴重な地域なのだそうです。

 内山准教授は5月上旬、2日かけて貝塚遺跡の東日本大震災地震および津波による被害状況を調査いたします。

 東日本大震災から2ヶ月がたった5月上旬、松島湾岸に点在する貝塚遺跡の現状を調べるため宮城県を訪れた。道中、津波に襲われた街の惨状を目の当たりにし、脳裏に焼き付いて何日も離れなかった。
 「貝塚遺跡はどれも津波の被害を免れたのでは」。景観論を研究テーマとする私は、出発前からそう考えていた。国土地理院が作成した被災地マップと遺跡分布図を重ねてみると、遺跡は津波の被災地から微妙に外れていたからだ。
 実際、2日かけて現地を回ってみると、縄文時代貝塚遺跡は無事だった。

 松島湾貝塚遺跡はすべて無事だったのには理由があるそうです。

 この周辺の貝塚は地図上では海岸沿いにあるように見える。しかし、実際は標高15〜30メートルの高台にあり、今回の大津波の被害を逃れた。縄文時代の集落の大半は、このような海と山の”接点”にあり、発掘しても地震を除けば大災害の被害は見当たらないのが特徴だ。

 なるほど、縄文時代の集落の大半は、実際は標高15〜30メートルの高台にあったわけです。

 しかし内山准教授はこの事実をもって「縄文人が防災を考慮していた」とはいえないとしています。

 もっとも、縄文人が防災を考慮していたとは必ずしもいえない。狩猟、漁労、木の実拾いと、より多くの仕事場に行きやすい場所に住んだだけだ。自然に「広く薄く」依存し、いわば職住分離だったことが災害に強い”まちづくり”につながったのだろう。

 しかし興味深いのは、弥生時代以降の集落の遺跡を調べると対照的に何度も津波被害の跡が認められるのだそうです。

 対照的なのが弥生時代以降の集落だ。発掘すると、洪水や津波など大災害の跡がしばしば見つかる。弥生時代の水田跡である仙台市の沓形(くつかた)遺跡が一例だ。
 沓形遺跡は海岸から4キロメートル離れているにもかかわらず、その周辺は今回の津波で大きな被害を受けた。約2000年前にも大津波が襲った痕跡があった。その後耕作が再開されたのは4世紀。いったん断絶した水田が復活するのに数百年を要したことになる。
 弥生時代に農耕が始まると、水田適地や交易拠点など特定の場所に多大に投資して、「狭く濃く」利用するようになる。生活の中心と仕事場も一致。生産性は上がったが、災害には弱くなった。まさに「一所懸命」だ。しかも、何度も同じ災害に見舞われる傾向がある。

 内山准教授は、狩猟、漁労、木の実拾いと、自然と「広く薄く」接してきた狩猟採集民族であった縄文人のライフスタイルは、結果的に、その後の水田適地や交易拠点など特定の場所に多大に投資して、自然を「狭く濃く」利用するようになった弥生人以降の農耕民族よりも、生産性は劣っていたが災害には強かったのだと論じます。

 そして今回の復興策に、縄文人の「広く薄く」の思想を取り込むべきではないかと記事を結んでいます。

地に足付けた景観へ

 被災地の方々が元の場所に住みたいと願うのは当然だが、悲劇を繰り返さないように今後の地域デザインを考える必要がある。復興策に、縄文人の「広く薄く」の思想を取り込むべきだ。
 今回の震災のような1000年に1度の事象を考えるのは、長いスパンで物事を見る考古学者や歴史学者の役割だ。人々が悲しみを乗り越え、地に足を付けた景観をどう造っていくのか見つめ続けることが、大事な仕事だと考えている。

 実に興味深い論考ですね。

 松島湾周辺に現在に残る縄文時代貝塚遺跡が今回の津波でもすべて被害にあわなかった事実をどうとらえるか、大変興味深い事象だと思います。

 教授が指摘するとおり、この事実をもって「縄文人が防災を考慮していたとは必ずしもいえない」のはその通りでしょう。

 逆説的な言い方になりますが、1000年に一度クラスの津波にも被害にあわなかったからこそ、7000〜3000年の時の流れに耐え抜いて今日に残っているとも言えましょう。

 一言で縄文時代といっても紀元前5000年から紀元前1000年頃というこの松島湾貝塚ができた時代に絞っても4000年という途方もない時間幅を有しています、弥生時代から現代までの時間幅の倍以上もあるわけです。

 おそらくその間に1000年に一度クラスの津波も数回発生しているでしょうし、それより規模の小さい津波なら数十回いや数百回と発生してきたと推測できます。

 私が想像するに、海岸部にも縄文人の集落があった時代も何度もあるでしょう、しかし後世に遺跡として残るような何世代もが利用する貝塚は、度重なる津波により発達できなかったことでしょう。

 何千年というときの流れの中で「縄文人が防災を考慮していた」かはわかりませんが、結果として自然淘汰され高台の貝塚だけが残されたと、私は想像します。

 ただ、縄文人たちが津波の経験をどう次世代に継承していたのかは興味が沸きますよね。

 もしかしたら遠い昔に津波を体験した集落の長老が「ここから下には集落を作ってはいけない」と、体験してない世代に戒めていたかも知れません。

 4000年の時の流れの中で松島湾周辺の縄文人たちは、結果として多くの高台にだけ貝塚を残したのです。

 ・・・

 この記事はとても考えさせられる点が多かったので読者に紹介させていただきました。

 このような1000年単位の時間軸で今回の大震災を捕らえなおすことも無駄ではないと思うからです。

 7000年の時の流れを経て貝塚を今に残した松島湾縄文人たち。

 私たち現代人は7000年後の未来人に何を残していることが可能でしょうか。

 ひとつだけはっきりしていることは、7000年後にも現在生成してしまった膨大な放射性廃棄物は危険のままであるということです。

 我々は10万年単位で放射性廃棄物を監視していかなければならないのです。

 ホモサピエンスがアフリカで誕生して20万年、ネアンデルタール人が滅んで3万5000年です。

 松島湾貝塚が作られた縄文時代、その一番古い貝塚が作られてからでさえ現在まで7000年ぽっちしか過ぎていません。

 10万年とは1000年が百回です、縄文時代から現在までの7000年の時の流れを14回以上繰り返さなければなりません。

 松島湾の高台に残った縄文時代の遺物は、人類はあくまでも自然の摂理に対し謙虚であるべきであることを教えてくれています。

 我々現代人が後世に残す確実な遺物、それは放射性廃棄物です。

 実に悲しい事実です。


(木走まさみず)