木走日記

場末の時事評論

母子殺害死刑〜来年から始まる裁判員制度が少し不安になった

●来年から始まる裁判員制度を強く意識し、あえて法律素人が母子殺害事件死刑判決について考えてみたい

 山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死罪に問われた当時18歳の元会社員の被告に対し、差し戻し控訴審の広島高裁が死刑を言い渡しました。

 今回はこの死刑判決について当ブログで触れることにしますが、私の心としては極めて重く、エントリーすること自体、多少の勇気を必要とすることを最初に吐露しておきます。

 なぜ勇気がいるかと言えば、私自身法律に詳しくもない一市民でありまして法律の素人であること、この裁判に関してニュース報道で知る程度の情報しか持っていないし特に関心をもって本件に関して詳細を調べはしていない事実があります。

 つまりこの死刑判決を正しく評論する知識も能力も有していないと深く自覚しているからです。

 もちろん自由な言論活動が保証されているネット上ですから、どのような時事問題も専門家しか意見してはいけない、素人は黙っていろ、などとは考えていませんし、当ブログでも専門外の事も含めておおいに闊達に議論してまいりましたし、今後も議論したいことはタブー無く議論していきたいと思っています。

 ただ本件は一人の被告に死刑という極刑が下されたのであり、あまり素人が軽々しく評論してよい問題なのか、当ブログのいつものエントリーような無責任な個人的心情で語ってしまうのはさすがに気が引けているのであります。

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 では、なぜ多少の勇気をもってあえてこの死刑判決について当ブログで取り上げてみることを覚悟したかといえば、当ブログの読者のみなさまの多くも私と同様の法律に素人な市民の方が大半であろうという推測を前提して、来年から始まる裁判員制度を強く意識したからであります。

 来年から始まる裁判員制度では、くじ運が悪(?)ければ、法律の素人である私もあなたも、本件のような重大事件において、法廷にて他人の人生や、時には生命までを処断し裁く責任を持たされるからであります。

 裁判員に選出されたならば、法律の素人だから、一般市民だから関係ないではすまされないのであります。

 日本においての裁判員制度導入の主旨のひとつは、一般市民の法廷や法律への関心を高めることとともに、法廷に一般市民の感覚を反映させようということであります。

 そのとき、私たちには感情に流されず冷静な公正な判断が求められることになります。

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●まず主要紙各紙社説を検証しておく

 今日(23日)の主要紙各紙社説から検証しておきましょう。

【朝日社説】母子殺害死刑―あなたが裁判員だったら
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

【読売社説】母子殺害死刑 年齢より罪責を重く見た
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080422-OYT1T00858.htm

【毎日社説】母子殺害死刑判決 厳罰化の流れが強まるが
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20080423k0000m070149000c.html

【産経社説】母子殺害死刑 常識に沿う妥当な判決だ
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080423/trl0804230224001-n1.htm

【日経社説】国民の感覚を映した死刑判決
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20080422AS1K2200122042008.html

 朝日は、やはり1年後に裁判員制度が始まることを念頭に社説を「自分なら、この事件をどう裁いただろうか。それを冷静に考えてみたい。」と結んでいますが、朝日社説から本件のポイントをいくつか上げておきましょう。

 ひとつは、少年が死刑を適用できる18歳になったばかりだったことであります。

 死刑判決には至らない少年法の適用年齢(18才未満)を過ぎてまもないことがこの件の司法判断を難しくしているのであります。

 また、これまでの少年犯罪の判例を見ると、「最高裁が83年に死刑を選択する基準を示してから、少年の死刑判決が確定したのは19歳ばかりであり、被害者は4人だった。」のに比し、今回は「被害者が過去の死刑事件よりも少ない2人だったこと」から、「少年犯罪にも厳罰化の流れが及んだと言えるだろう」と指摘しています。

 読売は、「犯行の残虐性や社会的な影響を考えれば、極刑以外にはあり得なかったということだろう。」という冒頭文を掲げています。

 死刑か無期かを争う争点として「差し戻し審では、更生の可能性が大きな争点になった」としています。

 今回の判決では「被告弁護側は、差し戻し審で従来の供述を翻し、殺人や強姦の犯意を全面否認して、傷害致死を主張していた。」点が、これを「不自然、不合理な虚偽の弁解」と退け、「自分の犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑回避に懸命になっているだけだ」と断じたのであります。

 「被告弁護側の主張が逆に、更生の可能性は見られず、「反社会性が増進」して、「特に酌量すべき事情を見いだす術(すべ)もない」との結論につながった。」と解説しています。

 読売社説も来年からの裁判員制度にふれるかたちで社説を結んでいます。

 来年5月から裁判員制度が実施される。量刑判断に不安を抱く人は多い。極刑ともなれば、心理的負担は大変なものだろう。

 被告側は上告した。最高裁には、重大事件の審理に参加する国民のためにも、少年事件の量刑基準を、さらに分かりやすい形で示すことが期待される。

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 どうも少年犯罪の量刑を考えるときに4人を射殺した永山則夫元死刑囚(犯行当時19歳)に対する83年の最高裁判決というものがこれまでのひとつのモノサシとなっていたようですね。

 そのあたりの説明を毎日社説から。

 死刑を選択すべきかどうかの指標は、4人を射殺した永山則夫元死刑囚(犯行当時19歳)に対する83年の最高裁判決が用いられてきた。犯行の罪質、殺害手段の残虐性、被害者の数、被告の年齢など9項目を挙げ、総合的に考慮しても、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとした。

 今回の事件で最高裁はこの基準を引用しながら「被告の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない」と判断し、凶悪であれば、成人と同様に原則として死刑適用の姿勢を示した。事実上、永山判決のものさしを変えたといえる。凶悪事件が相次ぐ中、量刑が社会の変化に左右される側面は否めず、厳罰化の傾向を反映したとみていい。

 しかし、少年法は18歳未満の犯罪に死刑を科さないと規定している。永山判決以降、少年事件で死刑判決が確定したのは殺害人数が4人の場合だ。

 死刑は究極の刑罰で、執行されれば取り返しがつかない。「その適用は慎重に行われなければならない」という永山判決の指摘は重い。しかし、死刑判決は増えているのが実情だ。

 うーん、どうも今回の判決は、「量刑が社会の変化に左右される側面は否めず、厳罰化の傾向を反映したとみていい」ということで、殺害人数が4人から2人へと「事実上、永山判決のものさしを変えた」のだそうです。

 一方産経社説では、社説冒頭から「社会の常識に沿った、極めて妥当な判決」と評価しています。

 少年といえども凶悪で残酷な事件を起こせば、厳罰でのぞむという裁判所の強い姿勢がうかがえた。社会の常識に沿った、極めて妥当な判決と受け止めたい。

 社説の結語では、今回の判決が来年から始まる裁判員制度にも「参考となる判断基準を示した」と肯定しています。

 今回の差し戻し審判決は、司法の少年事件に対する厳罰化の流れを加速させることになろう。また、来年から始まる裁判員制度裁判員にも参考となる判断基準を示した意味ある判決といえる。

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 最後に興味深いのは日経社説であります。

 昨年報告書が出た、司法研修所による「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」のたいへん興味深いアンケート結果を取り上げています。

 被告人が未成年者だったら刑を重くすべきか軽くすべきか、を尋ねたところ、一般国民の回答者はほぼ半数が「どちらでもない」を選び、裁判官の常識とは逆の「重くする」「やや重くする」が合わせて25%あった。裁判官で重くする方向の回答はゼロ。「軽くする」「やや軽くする」が計91%である。

 また殺人事件の判決を一般国民はどうみているかを調べると「重い」は3%「妥当」は17%しかなく、「軽い」が80%に達した。

 光市事件のような未成年者が犯した殺人では裁判官と一般国民の考える「適正な処罰」に相当大きな差がある、と推測できる調査結果だ。

 なるほど、この調査結果によれば、たしかに「光市事件のような未成年者が犯した殺人では裁判官と一般国民の考える「適正な処罰」に相当大きな差がある」のですね、一般国民は少年犯罪に対して裁判官よりもかなり厳しい処罰を望んでいるわけです。

 これに続けて日経社説は48年の最高裁大法廷判決に触れながら、「裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき」であると結んでいます。

 死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。

 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある。

 うーん、そうか48年の最高裁大法廷判決では、「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついているのか。

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 こうして各紙社説の内容を検証してみると、どうもどうやら、今回の死刑判決は、過去の判例に照らすと「少年犯罪にも厳罰化の流れが及んだと言える」(朝日)厳しいものであったようでありますが、死刑か否かを判断する基準は、「「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見」(日経)にもあるように、その時代によって変わってきているのでありますね。

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 量刑を決める判断基準が絶対なものではなく時代と共に変わるとするならば、私たち素人が裁判員になったとき、何を基準に裁けばいいのか、これはまことにやっかいなことであります。

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●犯罪に関わった人数について素人の思考実験をしてみる

 一人の素人の率直な思いとしては、殺人事件の量刑を決めるのに、殺した人数が重要な要素となることには理解はできますが、死刑をかすかどうかを決めるその人数というハードルが時代と共に変化するとなれば、納得のいかないところもあります。

 ひとつのスッキリとした考え方としては殺した人数に関わらず殺人は極刑に値する、「一人でも殺したら死刑」にしてしまうということなら、素人的にはまよわなくてもすむのにと思ってしまいます。

 ここでこの犯罪に関わった人数について思考実験というかいくつかのケースを考えてみたいです。

 もちろん、不肖・木走は素人ですから、すべて結論無き「思考実験」であることをお断りしておきます。

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 今回の光市の事件では、一人の犯人が、一人を強姦し、結果被害者の乳児も含めて二人を殺したことになります。

 これは「死刑」(現段階でですが)となりました。

 では、一人の犯人が、一人を強姦し死に至らしめた場合はどうなるのでしょうか。

 今回のケースで考えるともし犯人が赤ちゃんのほうは殺さなかった場合、量刑はやはり「死刑」なのか、それとも「無期」など減刑されるのが妥当なのでしょうか。

 とても素人には難しい判断が求められちゃいますですよね。

 あるいは逆に犯人が複数犯だったらどうなのでしょう。

 例えば二人の犯人が一人を強姦し死に至らしめた場合、単独犯との量刑の差はどう考えればいいのでしょうか。

 犯人の人数によって犯した犯罪行為そのものはまったく同じでも、量刑は変化するのでしょうか。

 もちろん、主犯格とその他では量刑に差が出るのでしょうが、この当たりも素人にはよくわかりません。

 人数だけでいろいろなケースを想定するとよけいわけがわからないことになりそうです。

 弾先生によれば、昔死刑が廃止されているドイツにおいて、娘を犯罪者に強姦殺人された母親が法廷にてピストルで犯人を射殺して「犯罪者」になってしまったケースがあるようですが、

元少年に死刑判決 - 死刑の是非の前に問いたい是非

「サルの正義」死刑を廃止し、仇討ちを復活せよ P. 19

復讐権が国家によって抑圧されている今、凶悪な犯罪者を被害者を射殺したとしよう。この遺族はどうなるか。刑務所行きである。仮定の話ではない。現に、何年か前、西ドイツでそういう事件があった。幼い娘を強姦殺人された母親が、法廷で犯人をピストル狙撃したのだ。この強姦殺人犯人が冤罪であるおそれはまずない。証拠も証人もあり、犯罪事実の認定では争う余地はなかった。だが、むろん、この犯人は死刑にはならない。西ドイツは死刑廃止国だからである。幼い娘の敵を討とうとして復讐権を行使した母親は、かくて犯罪者となった。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51038877.html

 例えば、4人の男に娘を輪姦されて殺害された母親が、その4人を法廷にて殺害してしまった場合、人数からいえば母親のほうが罪が重くなるわけですが、この母親の量刑を決めるとき、どこまで情状酌量すべきなのか、素人である私にはよくわかりません。

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●来年から始まる裁判員制度が少し不安になった

 もう一度、日経社説の結語を再掲。

 死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある

 「裁判員制度を始める理由の1つ」が、「専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要」にあるのは認めるものですが、「国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき」制度なことも理解はしているつもりですが、はてさて何ら法律の知識を有さない我々一般市民が、本当に公正に人の生き死にを裁くことができるのでしょうか。

 法廷で「国民の「何が適正な刑罰か」の感覚」を示せといわれても、実際には法律の最低限の勉強をしておかないと、本当に「感覚」しか示せないことになってしまいそうです。

 来年から始まる裁判員制度は、私たち一般市民にとって、精神的にはとても負荷の大きいことになりそうな気がしてきましたです。

 少し不安になってしまいました。

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(木走まさみず)