木走日記

場末の時事評論

トンチンカンな産経コラムを読んでの一考察〜「国民総背番号制」と国家権力による個人情報の国家管理は別次元の問題

●国民ひとり「一生一番号」に〜産経コラム「正論」より

 今日の産経新聞紙面コラム【正論】記事より。

【正論】社会学者・加藤秀俊 国民ひとり「一生一番号」に
2008.1.21 02:06

■国の情報管理の稚拙さがはがゆい

 ≪米国の社会保障番号は≫

 いまからほぼ半世紀むかしのこと。1959年にスタンフォード大学に勤務しはじめたとき、わたし宛にとどけられてきた名刺くらいの大きさのカードをたしかめながら、研究所の事務担当のオバサンが、じぶんの誕生日を忘れたっていいから、この番号だけは忘れちゃダメよ、と念を押すようにいった。そのカードには549−XX−XXXXという9ケタの数字がわたしの名前とともに印刷されていた。それがアメリカの「社会保障」(ソシアル・セキュリテイ)番号というものだ、ということを知った。

 その当時はまだ若かったし、アメリカの社会保障制度などに興味もなかったから、イエス、と答えてそのカードを財布にいれておいただけだったが、しばらく勤務しているあいだにこの番号がどれだけ重要なものであるかがわかってきた。

 まず、自動車の免許証の交付をうけるため警察にいったら、住所・氏名とならんで「社会保障番号」の記入がもとめられた。そして、おどろいたことに後日郵送されてきた免許証の番号もそれとまったくおなじだったのである。

 銀行で口座を開設するときにもこの番号の届け出が必要だった。口座番号が銀行独自のものだったのは当然だが、これがなければ銀行取引もできなかったのである。いまはどうなっているか知らないが、ホテルに宿泊するときにこの番号あるいは旅券番号の提示をもとめられることもあった。

 とにかく、どこにいってもわたしの身元確認は549−XXではじまる9ケタの数字でおこなわれたのであった。

 ≪「国家」に過剰反応の人々≫

 スタンフォード大学を離れてからあと縁あってアメリカのあちこちの大学や研究所に招かれ、日米を往復する生活がつづいたが、どこの職場でも履歴書にはかならずこの番号を記入するのが義務であった。この番号は連邦政府社会保障局で完全に管理され、それは就職や勤務先の変更にあたって記録されていたのである。たとえ1学期という短期間であっても給与所得があるかぎりこの番号は報告されていた。この番号で職歴やその期間に積み立てた掛け金が記録されているから、そのまま年金受給の証明にもなる。一定の条件をみたせば、医療保険証も送られてくる。その番号もまったくおなじ。

 だが、こんなふうにひとつの番号で個人を識別するというきわめて明快な制度にたいして日本の世論はけっして好意的ではない。いや否定的である。これまでなんべんも政府はこうした方法の導入を提案してきたが、国家が個人に番号をつけるのは「国民総背番号制」だといってみんなが反対する。なによりもマスコミが反対する。「個人情報」や「プライバシー」を国家が管理するのは怪しからぬというわけ。

 その結果、われら日本人はそれぞれに年金、健康保険、運転免許証などいくつもの番号をバラバラに持たなければならなくなっている。まことにめんどうである。さらに数字のケタ数もわけがわからない。アメリカの9ケタは理論上、10億人まで管理することができる。さしあたりアメリカ人や在留者すべてに番号をつけるのには9ケタあればじゅうぶんだ。

 ≪ケータイには詰め込むのに≫

 それなのにわたしの日本の国民年金番号は10ケタである。これは100億人までを想定している。もっと滑稽(こっけい)なのは免許証の12ケタである。これだと1兆人まで管理できるが、どうしてそんなケタ数が必要なのであろうか。こういう珍妙な番号をたくさん持っていてまちがわないほうがオカシイ。

 なによりもふしぎなのは、こうして「情報の国家管理」に反対するひとびとがじぶんの携帯電話にありとあらゆる「個人情報」をつめこんで平気な顔をしていることだ。いまのケータイは貨幣がわりにもなるし、GPSで持ち主の所在もわかるようになっているそうな。そのすべての個人情報は通信会社が把握している。こんなふうに「国家」よりも「私企業」に信頼をよせるのが「民営化」なのだというひとは、かなり鈍感なバカである。

 年金制度の「抜本改革」というなら、せめてアメリカなみにやってほしい。せっかく住民基本台帳カードもあるのだから、それと連動して血液型、病歴までICチップに埋めこんでぜんぶ1枚のカードにいれておいてくれればなおありがたい。そこまで徹底的にやってくれる政党なら、どこでも応援しよう、とわたしはおもっている。人間ひとり「一生一番号」でじゅうぶんなはずなのである。

(かとう ひでとし)
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080121/trd0801210207000-n1.htm

 アメリカの社会保障番号制度を例に挙げ、「われら日本人はそれぞれに年金、健康保険、運転免許証などいくつもの番号をバラバラに持たなければならなくなっている。まことにめんどうである」とお怒りの加藤秀俊先生なのであります。

 コラムの結語。

 年金制度の「抜本改革」というなら、せめてアメリカなみにやってほしい。せっかく住民基本台帳カードもあるのだから、それと連動して血液型、病歴までICチップに埋めこんでぜんぶ1枚のカードにいれておいてくれればなおありがたい。そこまで徹底的にやってくれる政党なら、どこでも応援しよう、とわたしはおもっている。人間ひとり「一生一番号」でじゅうぶんなはずなのである。

 うむ、「人間ひとり「一生一番号」でじゅうぶんなはず」とは単純明快、実に気分のいい結び方であります。

 しかしなあ、加藤先生と言えば、国際交流基金日本語国際センター所長などを歴任されその経験を生かした著書『なんのための日本語』(中公新書)などは、私も読ませていただきましたが、社会学者としてでなくその言語を通じた文明論がなかなかユニークでありましたが、それはともかくこのコラム、まあ先生の個人的オピニオンでありましょうが、一人のIT関連事業者から言わせていただきますと、ちょっとトンチンカンというか問題ありの文章なんであります。

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●「免許証の12ケタ」「これだと1兆人まで管理できる」「どうしてそんなケタ数が必要なのであろうか」〜誤解に基づくトンチンカンなオピニオン

 「われら日本人はそれぞれに年金、健康保険、運転免許証などいくつもの番号をバラバラに持たなければならなくなっている。まことにめんどうである」との御主張はごもっともながら、その後の文章がいけません。

 さらに数字のケタ数もわけがわからない。アメリカの9ケタは理論上、10億人まで管理することができる。さしあたりアメリカ人や在留者すべてに番号をつけるのには9ケタあればじゅうぶんだ。

(中略)

 それなのにわたしの日本の国民年金番号は10ケタである。これは100億人までを想定している。もっと滑稽(こっけい)なのは免許証の12ケタである。これだと1兆人まで管理できるが、どうしてそんなケタ数が必要なのであろうか。こういう珍妙な番号をたくさん持っていてまちがわないほうがオカシイ。

 えっとですね、データベース設計など先生は無論されたことがないでしょうし、当然ながらコード設計もされたご経験はないのでしょう。

 一般にある有意情報をコード化(番号化)して管理する時に番号の桁数が少なければユーザーの利便性が高まるのは当然なのですが(入力する時のキータッチも少ないほうがいいですしね)、しかしデータベース管理者の立場から考えると一概に桁数を少なくすることは、反ってコスト高等を招いてしまうことも十分検討しなければなりません。

 もっとも桁数を減らすのは、発生ベースでシーケンシャルに付番、つまり連続番号を付けていくのが一般的です、この方法によれば、先生の御主張のとおり、「もっと滑稽(こっけい)なのは免許証の12ケタである。これだと1兆人まで管理できるが、どうしてそんなケタ数が必要なのであろうか」というのもごもっともなのであります。

 しかしながら、免許証番号もそうですが、銀行系のカード番号もそうですが、多くのコードは、ユーザー側だけではなくデータベース管理者の立場からの利便性を図る必要があるために、それぞれの桁に意味を持たせるブロックコード化などが施されているのであります。

 身近で代表的なブロックコードの例としては現在7桁の郵便番号がありますね。

 理論的には7桁ですから「000−0000」から「999−9999」まで1000万地域を管理できるのでありますが、もちろん現在使用されている国内郵便番号ですが、詳しく統計を抑えているわけではありませんが、おそらく10分の一の100万にも満たないのではないでしょうか。

 ではなぜ七桁なのかと言えば、上位3桁で大分類して地域を大雑把に括っておいて、下位4桁で詳細地域をあらわす、といったグループコード化することにより、将来の管理地域数の増加に備えるのはもちろん、郵便仕分け機などの機械制御を効率化できるからなんですよね。

 郵便番号も需要に合わせてただ連番で管理してればおそらく7桁などは必要ないわけですが、それでは郵便物を管理するほうは非効率この上なく(また郵便番号を書くときのユーザー側の利便性にも悪影響がありそうです)、扱いづらくてたまったもんじゃないのであります。

 それなのにわたしの日本の国民年金番号は10ケタである。これは100億人までを想定している。もっと滑稽(こっけい)なのは免許証の12ケタである。これだと1兆人まで管理できるが、どうしてそんなケタ数が必要なのであろうか。こういう珍妙な番号をたくさん持っていてまちがわないほうがオカシイ。

 「こういう珍妙な番号をたくさん持っていてまちがわないほうがオカシイ」という御主張には、管理番号が統一されていないのは不便だという意味ではおおいに議論されてよろしいでしょうが、「珍妙な番号」(桁数が多すぎる)というご指摘は、かなりの誤解に基づく間違いというか失礼ながらトンチンカンなオピニオンと指摘させていただきます。

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●「国民総背番号制」と国家権力による個人情報の国家管理は別次元の問題

 まあ一連の年金問題でも、「年金番号統一化」という過程の中で5000万件もの「名寄せ失敗データ」が発生してしまったわけで、加藤先生のおっしゃる「年金制度の「抜本改革」というなら、せめてアメリカなみにやってほしい。せっかく住民基本台帳カードもあるのだから、それと連動して血液型、病歴までICチップに埋めこんでぜんぶ1枚のカードにいれておいてくれればなおありがたい」というご要望は、とても理解できます。

 ある意味で国民のコードの統一は時代の趨勢であります。

 そもそも年金、健康保険、運転免許証、金融機関などまで、もし個人番号が統一されれば、各種データが完全に紐付けられることによるメリットはものすごく、各種行政サービスや民間サービスは画期的にサービス向上がなされるでしょう。

 近い将来実現するであろうネットによる遠隔医療(問診や検査中心)や、各種行政サービスの電子化(いわゆるe−政府戦略)で、自宅から医療サービスや行政サービスを受ける時に、統一の国民IDコードが求められているのも事実なのであります。

 「国民総背番号制」などと権力による個人情報監視強化の負の側面を危惧する識者も多いことは承知していますが、IT事業者のはしくれとすれば「国民IDコードの統一」がもたらす技術的メリットは非常に大きいことは認めるものであります。

 もちろん、個人情報の扱いは慎重にすべきであることは今日のネット上のスパムメールの氾濫や各種顧客リストの持ち出しによる個人情報の大量漏洩問題など、論をまちませんでしょう。

 個人の情報は徹底的に自己防衛すべきであり、今後ますます個人情報の取り扱いは慎重かつできうるかぎり部外者にもたらせないよう、個人の意識改革、社会構造の備え(法制度を完備する等)、両面から議論を深める必要があるでしょう。

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 そもそも「住民基本台帳カードもあるのだから、それと連動して血液型、病歴までICチップに埋めこんでぜんぶ1枚のカードにいれておいてくれればなおありがたい」という加藤先生のご意見ですが、重大なことは「血液型、病歴」だけでなく、国がその気になれば、その人間の「家族構成」「宗教」「政治信条歴」「政治活動歴」から「犯罪歴」まですべて管理可能なことでしょう。

 ただここに一つの技術的誤解があると思います。

 そも「国民総背番号制」反対派は「「個人情報」や「プライバシー」を国家が管理するのは怪しからぬ」とその危険性を指摘しているのですが、少し技術屋から現実的反論をさせていただきますと、統一の国民IDコード化が計られようといまいと、個人情報の国家管理はそれとは別次元で進んでおりそれは世界的規模で不可逆的に展開している事実です。

 例えば、近い将来、運転免許証がICチップカード化すれば、ドライバーの個人情報から違反履歴、しいては警察の犯罪者データベースとリンクすればその個人の犯罪履歴まで瞬時に警察官が現場にて情報を得ることが実現されることでしょう。

 これには「国民総背番号」など必要ありません、現実の免許証番号だけで十分に実現可能です。

 パトカーで幹線道路に立つだけで、その道路を通行中の目の前の全てのドライバーの運転免許証(ICチップカード)を読み取ることが可能になるはずです。

 また医療現場ではカルテの電子化により、個人の既往症や病歴のデータベース化は急速に進んでいくことでしょう。

 ネットを通じて医療関係者が患者の情報を共有するサービスなどは、国土の広いオーストラリアなどではすでに一部実現化しています。

 このような医療用途の個人情報管理は保険証番号だけで十分に実現できます、やはり「国民総背番号」など必要ありません。

 ただ統一の国民IDコード化が計られれば便利であるというだけで、個人情報の電子管理化の必須前提なのではないのです。

 「統一の国民IDコード」がなくとも国家による個人情報管理は着実にそして不可逆的に進んでいくことでしょう。

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 つまり「国民総背番号制」「統一の国民IDコード化」と国家権力による個人情報の国家管理は別次元の問題なのであり、後者は善し悪しはともかく現実的・技術的には勝手に進化していくことでしょう。

 ならばです。

 現実に急速なIT技術の進歩による個人情報管理が進められてきつつある現状を踏まえるならば、感情的な個人情報の国家管理反対論とは一線を帰して、「国民総背番号制」「統一の国民IDコード化」問題は、冷静にリスクも含めたそのメリット・デメリットを議論をされるべきでしょう。

 その上で国家権力による暴走を防ぐためにも、個人の意識改革、社会構造の備え(法制度を完備する等)、両面から議論を深める必要があると、私は思います。



(木走まさみず)