木走日記

場末の時事評論

「負けた」戦争の指導者責任は厳しく問われて当然ではないのか

●横文字乱れ飛ぶ「経営者セミナー」で吠える講師キバシリ〜キバシリ、お前に講師の資格はあるのか(爆笑)

 この前、朝日社説で『書生的な問題意識』『商人的な現実感覚』という言葉が使われていて、いつも『書生的な問題意識』ばかりの朝日社説がよく言うよと、当ブログでネタとして使わせていただいたのですが・・・

批判している相手に媚びを売る朝日社説の『書生的な問題意識』
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060426/1146061591

『書生的な問題意識』と『商人的な現実感覚』ですが、不肖・木走はIT零細企業を経営していまして、ITコンサル業を生業(なりわい)にしているわけで、この括り(くくり)で言えば、典型的な『商人的な現実感覚』所有者と自負しております。
(↑てゆうか、お前の場合、『書生的な問題意識』は難しすぎて語れないだけじゃないのか(爆笑))

 ・・・(汗

 で、今日のマクラ話ですが、『商人的な現実感覚』にまつわる、私の体験談から。

 学校講師とかITコンサル業などしている関係で、私は、しばしば民間や自治体等のセミナーや講習会の講師として指名いただくことがありますです。

 「これからの企業におけるIT戦略を考える」とか「ビジネスコンプライアンス確立のためのIT技術の活用」とか、なにやら講師の私ですら訳のわからん(爆笑)タイトルを押しつけられてしまうのですが、一般の人々対象のセミナーより、やはり「経営者セミナー」のような中小企業経営者対象の講習会の方が、聴衆の真剣度が違うわけで、やりがいがありますね。

 特に足代(交通費付き)お食事付きの地方の講演が大好きであります。(ニンマリ
(↑やれやれ、キバシリ、お前に厳しい経営を強いられつつ頑張ってらっしゃる経営者のみなさんの講師の資格はあるのか(爆笑))

 ・・・(汗

 まじめな話に戻りますが、小泉構造改革のおかげ(?)もあり、今日中小零細企業、中でもとりわけ地方企業を取り巻く経営環境は厳しさを増すばかりであります。

 みなさん、それこそワラをもすがる真剣さで「ビジネスコンプライアンス確立のためのIT技術の活用」などという、おそらく年輩経営者にとっては訳のわからん横文字だらけのセミナーに参加しているわけで、講義するこちらも真剣に為らざるを得ません。

 で、講習のテーマにもよりますが要約するとだいたいこんな感じでお話したりします。 横文字乱れ飛び(苦笑)でご紹介してみましょう。

 今日企業経営者に求められているのは、リスクマネジメント(危機管理)を含めたコーポレートガバナンス企業統治力)であり、企業構成員のガバナビリティ(被統治能力)を高めることであります。

 そのためには各ステークホルダー(企業の利害関係者:投資家、債権者、顧客(消費者) 、取引先、従業員(社員)、地域社会、社会など)の役割をしっかり定義し直し、企業のゴーイングコンサーンバリュー(継続価値)、すなわち企業価値を向上していかなければ為りません。

 そして企業価値を向上するための手段として組織構成員の活動目的の共有化が必要であり、例えばCD(Customer Delight)、「顧客満足」、「顧客感動」を第一に考える、顧客を感動させられるような質の高いサービスを提供すべきだとする考え方を徹底させる必要があります。

 つまり、企業構成員のガバナビリティ(被統治能力)を高めるためには、目的の共有化を計る必要があり、そのためには社員全員に各ステークホルダーに対する会社の役割・責任を認識させる、ルールの明確化、すなわち「ビジネスコンプライアンス」を確立することが必須となりましょう。

 「ビジネスコンプライアンス」を確立する過程で、経営者側もビジネスジャッジメントルール(経営判断原則)を決め、組織全体にその「原則」を知らしめなければ為りません。

 そのためにIT技術をどう活用していくべきか、ここに成功事例を紹介しながらご説明していきましょう。

 ・・・

 ネ、わかりやすい講習でしょ(爆笑)

 ・・・(汗

 ガバナビリティ(被統治能力)については以前のエントリーでもふれましたが

問われているのは先生のガバナビリティではないのか〜ある私学におけるコンサル経験を踏まえての朝日社説に対する一考察
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060415

 要は、よい組織にするためには経営者は社員共通の目的意識を設定すべきであり、そして社員には被統治能力を高めてもらうことが必要ですよ、ってことなんですね。

 で、そのためのビジネスジャッジメントルール(経営判断原則)を確立というのは、経営者側の経営責任の明確化が必ず伴うわけです。

 「会社の利益」の向上のために、社員にはガバナビリティ(被統治能力)の向上を強いるわけですから、当然ですが経営者側の経営に対する行為責任、そして結果責任を明確化しておく必要があるわけです。

 地方の地場中小企業は、同族経営がほとんどなので、この「経営責任の明示化」というのがみなさん、渋い顔をするのですよね。

 そこで私はいつも「経営に対する行為責任・結果責任というのはなにも社長を辞任するということではなく、公正に経営者を評価し、誤りは誤りとしてただしていく、きわめて健全な考え方なのだ」と補足説明いたします。

 典型的なマネジメントサイクルの1つに、PDCAサイクルがあります。

 ご存知の読者も多いと思いますが、計画(plan)、実行(do)、評価(check)、改善(act)のプロセスを順に実施し、最後の改善を次の計画に結び付け、らせん状に品質の維持・向上や継続的な業務改善活動などを推進するマネジメント手法であります。

 このサイクルは何も品質管理だけに適応するのではなく、企業経営者自身にも厳しく当てはめるべきなのであります。

 このように補足すると。多くの経営者は納得してくれるわけです。

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 まあ、組織を統治する指導者には重い指導者責任が問われることは当然のことであり、指導者の力量(失敗しても成功しても)が耐えず厳しく評価されなければいけないのも、組織論としては当たり前のことなのであります。

 何もこ難しいビジネス用語とかの横文字を使わなくても、組織においては、より権限のある人間がより重い結果責任を問われるべきなのは、古くから自明の話なんでありますね。

 指導者の結果責任が問われない組織が、コーポレートガバナンス企業統治力)を維持できるはずはないのであり、そのような組織は崩壊の道を歩むしかないのであります。

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●裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない〜朝日社説

 今日(2日)の朝日社説から・・・

開廷60年 東京裁判を知ってますか

 日本の戦争指導者を裁いた極東国際軍事裁判東京裁判)が開廷してから、3日でちょうど60年になる。

 米国などの連合国が日本の侵略戦争を断罪し、政治家や軍部の責任を問うたこの裁判は、2年半に及んだ末、25人が有罪とされ、東条英機元首相ら7人が絞首刑になった。

 この7人に加え、判決前の病死や服役中の獄死を含め、14人がのちに戦死者とともに靖国神社に合祀(ごうし)された。小泉首相靖国参拝で議論になるA級戦犯とは、この裁判で裁かれた指導者のことだ。

 ここ数年、首相の靖国参拝と絡めて裁判の正当性を問い直す声が出ている。

 東京裁判に批判があるのは事実だ。後からつくられた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くのはおかしいという指摘がある。原爆投下など連合国側の行為は問われず、判事団は連合国側だけで構成された。被告の選定基準はあいまいで恣意(しい)的だった。

 一方、評価もある。日本軍による虐殺や関東軍の謀略などが裁判で初めて明るみに出た。ナチスを裁いたニュルンベルク裁判とともに、戦争というものを裁く国際法の流れの先駆けともなった。

 こうした否定、肯定の評価が入り交じった東京裁判をどう受け止めるべきなのか。戦後に生きるわれわれにとって難しい問題であるのは間違いない。

 はっきりしているのは、政治の場で裁判の正当性を問い、決着を蒸し返すことの現実感のなさである。

 あの裁判は、戦後日本にとって二つの意味で線を引く政治決着だった。

 国際的には、51年のサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判を受諾し、国際社会に復帰を果たした。平和条約は締約国の対日賠償を基本的に放棄することもうたい、それとセットで日本は連合国側の戦後処理を受け入れたのだ。

 国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した。その中には、昭和天皇も含まれていた。

 裁判は不当だという立場を貫くなら、あの戦後処理をやり直せと主張するに等しい。講和を再交渉し、米国をはじめ世界の国々との関係も土台から作り直す。そして戦争犯罪は自らの手で裁き直す。

 こんなことが果たして可能なのだろうか。裁判の限界を歴史の問題として論じることはいい。だが、言葉をもてあそび、現実の政治と混同するのは責任ある政治家の態度とは思えない。裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない。

 朝日新聞の最近の世論調査で、驚くような結果が出た。聞かれた人の7割、とくに20代の9割が東京裁判の内容を知らなかった。そして、東京裁判や戦争についての知識の少ない人ほど、今の靖国神社のあり方を是認する傾向がある。

 歴史を知らずして、過去を判断はできない。まずは歴史と向き合うこと。東京裁判60年を機会に、改めてその重要性を考えたい。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html

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●妥当性をも、検証し直す必要があるのではないか。〜読売社説

 今日(2日)の読売社説から・・・

5月2日付・読売社説(1)
 [東京裁判60年]「戦争責任糾明は国民自身の手で」

 日本の「現在」が、いまだに60年も前の「歴史」を巡って揺れている。1946年の5月3日に開廷した極東国際軍事裁判東京裁判)をどう評価するかという問題である。

 東京裁判では米英ソを中心とする「連合国」が、いわゆるA級戦犯として28人を起訴し、公判中に死去した被告などを除く25人を有罪とした。このうち東条英機・元首相ら、絞首刑に処された7人を含む14人が靖国神社に合祀(ごうし)されている。その靖国神社への小泉首相の参拝が、内外に摩擦を生じている。

 東京裁判には少なからぬ疑問もつきまとう。例えばA級戦犯の選定基準。中には、開廷直前にソ連の要求により被告に追加された重光葵・元外相もいた。重光氏は、戦後、外相に返り咲き、死去に際しては国連総会が黙祷(もくとう)を捧(ささ)げている。

 日米開戦回避のため苦闘し、戦争末期には早期停戦に努めた東郷茂徳・元外相なども含まれていた。

 東京裁判では、裁く側の“資格”にも問題があった。

 判事席・検事席にいたソ連は、第2次大戦の初期、「侵略国」として国際連盟から除名された国である。しかも、日ソ中立条約を破って参戦、60万人の日本兵捕虜らをシベリアに拉致して、数万人を死亡させる理不尽な国際法違反の“現行犯”を継続中だった。

 同じく「日本の侵略」を裁いた英仏蘭も、アジア「再侵略」の最中だった。オランダがインドネシア独立軍と停戦協定を結ぶのは、東京裁判判決の翌年、49年だ。フランスは、54年の軍事的大敗までベトナム再侵略を諦(あきら)めなかった。

 「連合国」による“戦犯”選定基準、東京裁判の枠組みの妥当性をも、検証し直す必要があるのではないか。

 とはいえ、あの無謀な戦争で300万人以上の国民を死に追いやり、他国にも甚大な被害を及ぼした指導者たちの責任は、極めて重い。だれに、どの程度の責任があったのか。

 終戦直後には、日本自身の手で戦争責任を糾明しようとする動きもあった。東久邇内閣の戦犯裁判構想、幣原内閣の戦争調査会などだ。日本自身が裁いたとしても、東条元首相などは、まちがいなく“有罪”だっただろう。しかし、いずれも「連合国」によって妨げられた。

 読売新聞は、現在、あの大戦にかかわる戦争責任の検証企画シリーズを続けている。読者の関心の高さは予想以上で、毎回、多数の電話、手紙、メールが寄せられている。

 引き続き、密度の濃い検証作業を続けて、読者の期待に応えたい。

(2006年5月2日1時44分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060501ig90.htm

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東京裁判史観を肯定するのか否定するのか〜二つの社説は真っ向対立

 計らずして同じ日に東京裁判を取り上げている朝日社説と読売社説でありますが、朝日社説の主張する核心部分はここ。

 はっきりしているのは、政治の場で裁判の正当性を問い、決着を蒸し返すことの現実感のなさである。

 あの裁判は、戦後日本にとって二つの意味で線を引く政治決着だった。

 国際的には、51年のサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判を受諾し、国際社会に復帰を果たした。平和条約は締約国の対日賠償を基本的に放棄することもうたい、それとセットで日本は連合国側の戦後処理を受け入れたのだ。
 国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した。その中には、昭和天皇も含まれていた。

 裁判は不当だという立場を貫くなら、あの戦後処理をやり直せと主張するに等しい。講和を再交渉し、米国をはじめ世界の国々との関係も土台から作り直す。そして戦争犯罪は自らの手で裁き直す。

 こんなことが果たして可能なのだろうか。裁判の限界を歴史の問題として論じることはいい。だが、言葉をもてあそび、現実の政治と混同するのは責任ある政治家の態度とは思えない。裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない。

 要するに多少問題はあったかも知れないが、東京裁判の結果を受け入れることで戦後日本はスタートしたのでありいまさらそれを否定してもしかたないだろう、という主旨であります。

 一方、読売社説の主張の核心はここ。

 東京裁判では、裁く側の“資格”にも問題があった。

 判事席・検事席にいたソ連は、第2次大戦の初期、「侵略国」として国際連盟から除名された国である。しかも、日ソ中立条約を破って参戦、60万人の日本兵捕虜らをシベリアに拉致して、数万人を死亡させる理不尽な国際法違反の“現行犯”を継続中だった。

 同じく「日本の侵略」を裁いた英仏蘭も、アジア「再侵略」の最中だった。オランダがインドネシア独立軍と停戦協定を結ぶのは、東京裁判判決の翌年、49年だ。フランスは、54年の軍事的大敗までベトナム再侵略を諦(あきら)めなかった。

 「連合国」による“戦犯”選定基準、東京裁判の枠組みの妥当性をも、検証し直す必要があるのではないか。

 とはいえ、あの無謀な戦争で300万人以上の国民を死に追いやり、他国にも甚大な被害を及ぼした指導者たちの責任は、極めて重い。だれに、どの程度の責任があったのか。

 終戦直後には、日本自身の手で戦争責任を糾明しようとする動きもあった。東久邇内閣の戦犯裁判構想、幣原内閣の戦争調査会などだ。日本自身が裁いたとしても、東条元首相などは、まちがいなく“有罪”だっただろう。しかし、いずれも「連合国」によって妨げられた。

 確かに東京裁判は問題の多い裁判であったから、日本人自身の手で「「連合国」による“戦犯”選定基準、東京裁判の枠組みの妥当性をも、検証し直す必要があるのではないか」とうわけです。

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 つまり、東京裁判史観を肯定するのか否定するのか。朝日と読売の二つの社説は真っ向対立しているのであります。



●戦争の指導者責任は厳しく問われて当然ではないのか

 この問題における私のスタンスはこの両紙の主張とは微妙に距離があるのですが、東京裁判史観を肯定するのか否定するのかというたいへん難しい重要な議論は、この際他のまじめな時事系サイトにお任せしたいと思います。

 ただ、朝日が主張する「裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない」のだから、そのような議論を蒸し返す必要はないというのには違和感を覚えます。

 日本人自身が60年前の戦争の責任論を回避しているからこそ、靖国参拝問題など多くの問題が残されてきたのだと思うからです。

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 この問題はできればイデオロギー抜きで組織論で考えるべきだと思っています。

 純粋に「あの無謀な戦争で300万人以上の国民を死に追いやり、他国にも甚大な被害を及ぼした指導者たちの責任」(読売社説)を、日本人自らの手で厳しく評価すべきなのであります。

 このような話をすると保守派の論客から「負けた戦争だから悪いのか。勝った戦争だったら良いのか。」とか、「当時の指導者だけではない。責任論を問うならば日本人全体の問題である」といった反論もありそうです。

 私の主張は組織論として厳しく論じさせていただければこうです。

 「勝った」戦争にせよ「負けた」戦争にせよ指導者のとったその「行動」と「結果」の評価は厳しく行われるべきであり、「結果」の責任も厳しく問われるべきである。

 そして厳しく評価した結果として、「勝った」戦争の指導者責任は不問にふされ、「負けた」戦争の指導者責任は厳しく問われるのは、組織論としては当然ではないのか。

 朝日のように「東京裁判」を絶対視するのも、読売のように「東京裁判」を否定するのも、それぞれ議論のあるところでしょう。

 しかし、感情論とかではなく組織論として言わせていただければ、日本人自身の手で「負けた」戦争の指導者責任は厳しく問われて当然ではないのか、と思うのであります。



 この問題、読者のみなさまはいかがな見解でありましょうか。



(木走まさみず)