木走日記

場末の時事評論

元旦の各紙社説をリテラシーしてみる〜新鮮な驚きを与えてくれた朝鮮日報元旦社説

 しかし、元旦の社説ってなんで長いのでしょう(苦笑



●主要5紙の社説を斜め読みしてみる〜どうでもいいですが文章長くないですかあ?(苦笑

【朝日社説】武士道をどう生かす 2006謹賀新年
http://www.asahi.com/paper/editorial20060101.html
【読売社説】人口減少時代へ国家的対応を 市場原理主義への歯止めも必要だ
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060101ig90.htm
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060101ig91.htm
【毎日社説】ポストXの06年 壮大な破壊後の展望が大事 結果責任負ってこそ名首相

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060101ddm003070019000c.html
【産経社説】新たに始まる未知の世界 アジア戦略の根幹は日米同盟
http://www.sankei.co.jp/news/060101/morning/editoria.htm
【日経社説】 人口減に克つ 成長力を高め魅力ある日本を創ろう
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20051231MS3M3101731122005.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20060102MS3M0200202012006.html

 うーん、総じて文章長いんですけどどうにかなりませんか?(苦笑

 元日の各紙社説ですが(日経だけは元日と3日の社説がシリーズになっていますが)、それぞれ主題が少しづつ違っていて特徴が出ていて興味深いのであります。

 しかし、1年で最も注目される元旦の社説であり各紙力が入るのはわかりますが、この文章量の多さはなんとかならんのでしょうか?

 読み比べてリテラシーするにも、一仕事なのであります。

 社説本文は長すぎますので、例によって結語だけ抜粋して読み比べてみましょう。



●新春早々小泉首相を見捨てたあきらめのいい朝日社説

【朝日社説】武士道をどう生かす 2006謹賀新年

 品格を競いたい

  いま「60年たっても反省できない日本」が欧米でも語られがちだ。誤解や誇張も大いにあるが、我々が深刻に考えるべきはモラルだけでなく、そんなイメージを作らせてしまう戦略性の乏しさだ。なぜ、わざわざ中韓を刺激して「反日同盟」に追いやるのか。成熟国の日本にアジアのリーダー役を期待すればこそ、嘆く人が外国にも少なくない。

 中国の急成長によって、ひょっとすると次は日本が負け組になるのかも知れない。そんな心理の逆転が日本人に余裕を失わせているのだろうか。だが、それでは日本の姿を小さくするだけだ。

 武士道で語られる「仁」とは、もともと孔子の教えだ。惻隠の情とは孟子の言葉である。だからこそ、子供のけんかをやめて、大国らしい仁や品格を競い合うぐらいの関係に持ち込むことは、アジア戦略を描くときに欠かせない視点である。秋に新たな首相が選ばれる今年こそ、大きな転換の年としたい。

 ことは外交にとどまらない。

 国民の二極分化が進む日本では、まだまだつらい改革が待っている。競争や自助努力が求められる厳しい時代だからこそ、一方で必要なのは弱者や敗者、立場の違う相手を思いやる精神ではないか。隣国との付き合い方は、日本社会の将来を考えることとも重なり合う。

 自分の幸せを、少しでも他者の幸せに重ねたい。「新年愉快」ならぬ「年中不愉快」が続いては困るのだ。

 うーん、武士道を持ち出して「品格を競いたい」とは、封建主義嫌い(?)の朝日らしくない論法ではあります。

 しかし「自分の幸せを、少しでも他者の幸せに重ねたい。「新年愉快」ならぬ「年中不愉快」が続いては困るのだ。」という結語は、誰に向かって発せられているのでしょうか。

 文脈とすれば「秋に新たな首相が選ばれる今年こそ、大きな転換の年としたい。」との後に続いているので、まあ、小泉首相に進言しているわけじゃないのでしょうね。

 ・・・

 うん、新春早々あきらめがいいぞ、朝日新聞(苦笑



●人口減少時代へ国家的対応を促す真面目なんだけど長すぎる読売社説

【読売社説】人口減少時代へ国家的対応を 市場原理主義への歯止めも必要だ

 【超党派で国家像確立を】

 いまからでも遅すぎるということはない。人口減少・高齢化時代の国家の将来像を確立するための議論を早急に始めなければならない。

 もちろん、世界の中の日本としての国家像も確立しなくてはならない。

 外交面では、日米関係を良好に保ったことは功績とみてよい。だが、靖国参拝により、結果として、対中、対韓関係は冷え込んだ。中・韓にはそれなりの外交的思惑があるにしても、放置しておくわけにはいくまい。

 国際協力活動のあり方についての戦略的態勢も整える必要がある。

 日本が国際協力をするに際して、足かせになっているのが、集団的自衛権の「行使」問題である。いつまでも国際的責任から逃げていてはならない。憲法改正を待たず、政府解釈の変更によって対応すべきである。

 これらは、与野党を超えた国家的課題だ。最大野党の民主党も、内外にわたる国家戦略確立に向けて、大連立も辞さないくらいの責任感をもって取り組んでもらいたい。

 人口減少問題を前面に出しての読売の大社説でありますが、とても真面目に文章構成されており為になる論説なのは認めますが、しかし長い・・・長すぎであります(苦笑

 これ、一体何割の読者が最後まで読み終えたのでしょうか?

 長文であることで論ずる議論が散漫になってしまっているのも惜しいのであります。

 議論が幅広すぎるために、結語の「人口減少・高齢化時代の国家の将来像を確立するための議論を早急に始めなければならない。」という提言が、その主旨には同意いたしますが、具体的な議論の提起にまで至っていない印象が否めないのが残念であります。

 ま、ご苦労様でした。



小泉改革を「あらゆる既成秩序の破壊」者呼ばわりしている毎日社説

【毎日社説】ポストXの06年 壮大な破壊後の展望が大事 結果責任負ってこそ名首相

 ◇手段が目的に

 民営化、効率化、競争の名の下で壊すだけが目立ってきた。その国内の騒ぎに目を奪われ、大変化する世界に対応できていない。9月には辞めて、壊したものの再建を他人任せにしようとする小泉政権の尻ぬぐいをしなければいけない時期に入ってきたと言い換えてもいい。

 かつて明治期の富国強兵は、独立を保つために強兵が目的で富国は手段だった。戦後強兵を断念、富国に専念した。豊かになるために豊かになった。目的と手段の同一化だ。それは効率はいいが価値観の喪失で、必然的にただ自分を膨らませてカエルのようにパンクしたバブルで完結した。

 今、小泉改革が進めるあらゆる既成秩序の破壊は、目的が何なのか、手段が目的になっていないか、ちょっと前、豊かになるために豊かになった時と同じ過ちを犯そうとしていないか。トラの威を借るキツネたちが首相の周りで価値観もなく威張り散らしていないか、よくよく見極めなければいけない。

 うむ、毎日社説ですが、元旦早々強烈な小泉政権批判をぶちかましてきましたね。

 内容の評価は読者のみなさまに委ねますが、社説の論説としては不肖・木走的には評価したい文章であります。

 読売の社説の後だから余計感じてしまうのかも知れませんが、テーマが小泉批判とはっきり絞られており「今、小泉改革が進めるあらゆる既成秩序の破壊は、目的が何なのか、手段が目的になっていないか」という問題提起は、単純であるが故に読者にはわかりやすいのであります。

 あと、気になった表現なのですが、「トラの威を借るキツネたちが首相の周りで価値観もなく威張り散らしていないか」って、これはきっと武部幹事長のことなのでしょうか(苦笑



●「アジア戦略の根幹は日米同盟」と元旦早々持論を展開する産経社説

【産経社説】新たに始まる未知の世界 アジア戦略の根幹は日米同盟

≪驕らず高ぶらずの日本≫

 だが史上最良といわれる日米関係に過信は禁物である。親密なジュンとジョージの一方の小泉首相は、九月には自民党総裁としての任期を終える。ポスト小泉が誰であれ、良好な関係を後退させない意志と仕組みとが求められる。

 三月には在日米軍再編計画の最終報告が予定されている。日本の自立を求める主体的行動と、日米同盟の深化とを調和的に発展させていくためには、日米両国民の同盟への理解が欠かせない。

 世界でもっとも理想的な同盟モデルとされる英米とは異なる、しかし、もう一つの理想のモデルとなり得るか、日米関係もまさに真価が問われる年である。

 二十一世紀を見ることなく平成八年に死去した国際政治学者、高坂正堯は事実上の遺稿となった論文「二十一世紀の国際政治と安全保障の基本問題」で、日本が《大声で明快なアメリカの普遍主義》と《長い歴史と巨大な量を背景とする中国の原理主義》に挟まれるであろう困難を予見していた。

 日本はどう生きるべきなのか。高坂正堯はそこで次のように書いた。

 《原理を明白な言葉で語るのは、鬨(とき)の声を上げるのにも似て、気持ちは高揚するだろう。しかし、そうしなくては気持ちが高揚しないのは心の貧しさか、国内不安定のためであることが少なくない。しっかりした実績を上げており、小さい声であっても妥当なことを述べ続けるのも、長い目で見れば一つの信用につながる》

 奇(く)しくも、二十一世紀前半の世界における日米中のありようの一端を暗示している。だが唯一、高坂正堯が目撃できなかったことがある。それは、日本の声はもはや必ずしも小さくはないということである。驕(おご)らず、高ぶらず、確かな実績を重ねる日本でありたい。

 うーむ「アジア戦略の根幹は日米同盟」とは元旦早々産経も持論を思い切りぶつけてきたのは、潔くて良しであります。

 うん、わかりやすくてよろしい。(苦笑

 「世界でもっとも理想的な同盟モデルとされる英米とは異なる、しかし、もう一つの理想のモデルとなり得るか、日米関係もまさに真価が問われる年である。」という文章に日米重視の産経の想いが込められていると思うのでありますが、「英米」関係が「世界でもっとも理想的な同盟モデル」かどうかは議論の分かれるところではありましょうが・・・

 しかし、この産経の結語「驕(おご)らず、高ぶらず、確かな実績を重ねる日本でありたい。」は明快な主張でありますが、朝日の「大国らしい仁や品格を競い合うぐらいの関係に持ち込むことは、アジア戦略を描くときに欠かせない視点」とは、似て非なる文章でありますが、文の格調はうりふたつなのは興味深いのであります。

 両紙とも文章は格調高くまとめておりますが、ようは朝日は「大国らしい仁や品格を競い合うぐらいの関係」を構築するためにも、結局は「中国などの神経を逆なでして首相が参拝し続けるのは、武士道の振る舞いではあるまい。参拝をはやしたてる人々もまたしかりだ。 」ということを主張したいのであります。

 かたや産経は、「驕(おご)らず、高ぶらず、確かな実績を重ねる日本でありたい。」と願いますが、結局は小泉首相が首脳会談再開のため、中国や韓国と取引・譲歩をしなかったことは正しかった。近隣外交が「手詰まり」との批判は確かにあるが、ひるむことなく小泉首相は「靖国参拝はもはや外交問題にはならない」との認識が定着するまで姿勢を貫いてほしい。」わけです。



●具体的提言にまで至っていない印象が拭えないのが残念な日経社説

【日経社説】 人口減に克つ 成長力を高め魅力ある日本を創ろう

100年後の日本のために

 そして第三に、市場創造である。少子高齢化で日本の市場が成熟化しても、アジアの発展はこれからだ。東アジアでは貿易・投資の相互依存は深まり、民間企業レベルで事実上の経済圏はできている。政府の役割はそれを後押しすることであり、外交のあつれきを招いて、それに冷水を浴びせることではない。

 欧州諸国が統合に動いたのは、たそがれの時代を脱して新たな成長フロンティアを求めたからだった。欧州連合(EU)の深化と拡大は形を変えた成長戦略である。成熟国家の知恵と政治的意志に学ぶときだ。

 日本の高度経済成長を演出した下村治は成長の歴史的意義についてこう述べている。「過去の実績を背負い、将来の可能性を頭に描きつつ、われわれ自身が営々として創造し、築き上げるものである」

 人口減に克つために、日本は創造的改革をてこに新たな成長をめざさなければならない。働きがい、生きがい、育てがいがあり、世界からヒト、モノ、カネを引き寄せる。そんな「魅力ある日本」は成長を土台にしてはじめて創(つく)れる。100年後の日本のために、われわれはいま何をすべきかが問われている。

 最後に日経社説でありますが、経済紙らしく少子高齢化を迎えた日本の将来に対し、主として経済面から問題提起し警鐘を鳴らしております。

 「東アジアでは貿易・投資の相互依存は深まり、民間企業レベルで事実上の経済圏はできている。政府の役割はそれを後押しすることであり、外交のあつれきを招いて、それに冷水を浴びせることではない。」という文章に日経の主張が込められているのであります。
 日本の経済成長維持のためには、政治家は「外交のあつれきを招いて、それに冷水を浴びせること」だけは避けて欲しいと願っているわけであります。

 ただ、社説の結語「100年後の日本のために、われわれはいま何をすべきかが問われている。」のはその通りだと思うのですが、読売社説にも共通して言えますがこの日経社説も具体的提言にまで至っていない印象が拭えないのは残念なのでありました。

 ・・・

 主要5紙の元旦社説を斜め読みしてみましたが、読者のみなさまはどのような感想を持たれましたでしょうか?

 正直いつもメディア批判している当ブログですが、今回の各紙社説はそれぞれよくテーマが練られており、また主義主張の内容の是非はともかく、読者に訴えるような文章の工夫も見られ、総じて無難な論説にはなっていると思いました。

 ただ、贅沢を言わせていただければ、例えば国民世論があっと驚くような大胆な提言あるいは主張の展開というものが無かったのは少し寂しく思いました。

 マスメディアの社説も、世論に迎合することなくもう少し踏み込んだ論説を掲げてもいいとおもうのですが、たとえ国民多数の支持を得られない少数意見であり賛否両論を招いてしまうにしても、無難な論説に終始しないでときには年初にメディアとしての独自の提言を敢えて一歩踏み込んで掲げてみてほしいと感じてしまいました。

 ・・・



●2006年、世界の時間と韓国の時間〜これは秀逸だと思った朝鮮日報社説

 で、少し私が新鮮に驚いたのがお隣の国韓国のメディアの元旦の社説なのでした。

 韓国・朝鮮日報の元旦の社説から・・・


2006年、世界の時間と韓国の時間

 時間は、場所とともに人間活動の主な舞台だ。個人が時間のなかで生活を営むように、国家と民族も時間という舞台の上で歴史を創り上げもし、また滅びもする。ある人の生涯が、与えられた時間をどのように生きてきたかで評価されるように、ある国家、ある民族の運命も、時間という原料でどのような歴史を作ってきたかによって決定づけられる。

 100年前、北東アジア3国の韓国・中国・日本の運命も、それぞれの国家が生きていた時間の性格によって決定付けられた。韓国と中国が、前近代・半封建の末期にしがみついていたなか、日本は独り近代の入り口を乗り越えた。韓国と中国が北東アジアという「辺境の時間」のなかに閉じこめられたとすれば、日本は「世界史の標準時間」のなかに足を踏み入れたのだ。この差が、3国の運命を植民地・半植民地・殖民国家に分けてしまった。
 1945年の独立以降、大韓民国が歩んできた60年は、われわれが100年前に逃してしまった歴史の入口を取り戻して、急いで近代を卒業し、「世界史の標準時間」のなかに駆け込もうとする必死の辛抱ともがきの歴史だった。

 1960年代、われわれの国民所得が60ドルそこそこだった事実は、私たちの国民全体が当時も近代以前、しかも世界最貧国という「惨めな前近代」のなかに閉じこめられていたという意味だ。大韓民国の歴史は40年という短い歳月のなかで、その「惨めな前近代」を蹴飛ばして国民所得1万5000ドル、世界10大通商国家に仲間入りして、「辺境の時間」を生きていた私たちの運命を「世界史の標準時間」を生きられるよう切り替えた。

 この大韓民国の歴史を「正義が敗れて日和見主義がはびこった歴史」と卑下する発言に世界が驚く理由は、全世界が大韓民国が歩んできた道を目撃した証人であるためだ。大韓民国の歴史が、傷もなく完璧かつ汚れのない歴史だったと主張するわけではない。世界史の高い丘から見下ろせば、やや迷ったとはいえ、大きな成功を収めた教科書となるという意味だ。

 われわれだけが起きあがったわけではない。50年間の半殖民地状態に続いて30年間の共産独裁のなかで、飢餓と飢饉という前近代的用語がつきまとっていた13億人の人口を抱える中国も大きく立ち上がった。韓国が日本の100年の歴史を40年に縮めたとすれば、中国は韓国の40年の歴史を20年に縮めながら走りつづけている。

 中国は「韜光養晦(光を隠して密かに力をつける)」というスローガンの下で縮こまっていたが、「和平堀起(平和に力強く立ち上がる)」の姿勢で世界を見回したかと思うと、今や「有所作為(必要な場合は積極的に行動する)」に姿を変えてきた。

 1億2000万人の人口を抱え、世界第2の経済大国の日本を未来に導く米日同盟強化論と「普通国家論」も、経済力に相応する軍事力と政治的影響力を持とうという国家的野心の現れだ。

 100年前、時代に後れを取った「辺境の時間」のなかから抜け出し、競争をしてきた北東アジア3国は、今や未来という世界史のヒノキ舞台の上でまた競争している。

 中国は米国と対等に競争する一方共存する世界戦略を立てているうえ、 日本は米国との合従連衡で、中国の地域覇権主義を押えつけようとする道を選んだ。世界の覇権国家米国は、日本を味方にして中国に対して牽制と協力の両面戦略を駆使している。

 これらの3国の戦略の共通点は、彼らの目の前には大韓民国は存在しないという点だ。彼らが韓国に触れるのは、「惨めな前近代」の足かせを引きずりながら、核兵器という現代の災いを抱えて喘いでいる北朝鮮に言及するときだけだ。

 前近代や近代、現代を時間の溶鉱炉に一緒に入れて溶かし、21世紀の世界史のヒノキ舞台に足を踏み入れたと自負していた大韓民国が、今は彼らの視野から消えているのだ。わずか15年前、最高リーダーの訒小平の口から「外で、韓国から学べ」といった言葉さえ聞かれた中国の目にも、韓国は見えていないということは衝撃極まりない。

 ここ数年間のことだ。「他人が自分を認めないことを心配せず、自分の足りなさを痛ましく思え(不患人之不己知 患己無能也)」といったことわざを思い浮かべる。ここ数年間に韓国が、北東アジア3国が抜きつ抜かれつの競争を繰り広げた未来という時間の舞台を自ら一人で歩きし、過去の時間のなかに後退してしまったためだ。

 先頭に立ってこのような事態を招いた大韓民国の為政者たちも、「過去を立て直してこそ、未来を立て直すことができる」という命題の是非は論外にして、この事実だけは否定することができないだろう。

 しかし世界歴史のどこにも、過去をきちんと立て直すことで現在と未来を先取りした国は存在しない。世界の中心国家は、現在と未来を開拓することで、過去の歴史にも栄光の服を着せた国々だ。

 「世界史の標準時間」が未来と21世紀に焦点が合わせられた2006年、大韓民国の最大の国家プロジェクトが、「過去の歴史の清算」であるだけに、われわれが生きているこの地の時間を正確に示す時計の針は存在しない。われわれは今、「現在が過去であり、過去が現在だ」という、とんでもない逆説が堂々とはびこる地で生きているのだ。

 2006年、われわれが目をしっかり見開いて、大韓民国の内と外を見守らなければならない理由もここにある。もちろん、今年われわれが目を凝らして見極めるべきものは過去史の問題だけではない。 5月の地方選挙を見守る目も、われわれを未来という「世界史の標準時間」に導いてくれる勢力がどちらであり、われわれの足を過去へと引っ張る勢力がどちらなのかを見抜く力を持たなければならない。

 最高裁判所憲法裁判所の人員の過半数を新たに変える司法革命の過程も同じだ。任期満了を1年後に控えている政権が、任期6年の最高裁判事憲法裁判官を政権のイデオロギーによって牛耳るように放っておくことは、憲法上の寿命を迎えた政権の寿命を違法に延ばしたも同然なためだ。

 大韓民国の繁栄を裏付けてきた市場経済の枠組みが、世界史の骨董品に過ぎない“守旧的左派”によって命取りの重傷を負わないために守り抜くことも国民の役割だ。

 傷だらけの韓米同盟は、来年には、いったいどこへ向かうのか。これもまた、覚めた目で確認しなくてはならない。北朝鮮の核開発問題の解決過程だけがなく、ある日突然われわれの前に迫ってくるかも知れない統一と統一以降の時代に、われわれに必要な同盟と同盟国家はどちらであり、どちらになるべきかという戦略的判断で考え、臨まねばならないというのだ。

 われわれが是が非でも避けてはならないもう一つの使命は、21世紀の明るい陽射しのなかで、未だ前近代の足かせにはめられて喘いでいる北朝鮮の同胞を、「世界史の標準時間」のなかに導くことだ。

 結局、今年一年間に大韓民国とわれわれ国民に与えられた課題の成否は、大韓民国を作って、育んできた先の世代から譲り受けた未来という「21世紀の標準時間」を、過去という「辺境の時間」に逆行させようとする勢力の脅威からどうやって守り抜くかにかかっている。

 この闘いの勝敗によって、北東アジア3国のなかで韓国が100年前と同じくまた「辺境の時間」のなかに転んで落ちてしまうのか、それとも「世界史の標準時間」と「世界のヒノキ舞台」で国民の力と考えを未来に集め、再跳躍できるのかが決まることだろう。

2006/01/01 朝鮮日報 社説
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/01/01/20060101000000.html

 韓国の朝鮮日報と言えば、韓国メディア内では保守派に位置づけられている新聞であり、日本で言えば読売と産経を足して2で割ったような媒体でありましょうか。

 しかし、この社説は秀逸であると思いました。

 この朝鮮日報社説、どちらかと言えば反米・反日に偏りがちな今の韓国政権及び韓国世論に完全に警鐘を鳴らす内容なのであります。

 まず、私が少し驚いたのは過去100年の近代史を表現するのに韓国メディア独特の偏狭な愛国主義主観が封印されている点であります。

 100年前、北東アジア3国の韓国・中国・日本の運命も、それぞれの国家が生きていた時間の性格によって決定付けられた。韓国と中国が、前近代・半封建の末期にしがみついていたなか、日本は独り近代の入り口を乗り越えた。韓国と中国が北東アジアという「辺境の時間」のなかに閉じこめられたとすれば、日本は「世界史の標準時間」のなかに足を踏み入れたのだ。この差が、3国の運命を植民地・半植民地・殖民国家に分けてしまった。
 1945年の独立以降、大韓民国が歩んできた60年は、われわれが100年前に逃してしまった歴史の入口を取り戻して、急いで近代を卒業し、「世界史の標準時間」のなかに駆け込もうとする必死の辛抱ともがきの歴史だった

 そして、現在の韓国および韓国政府が過去に縛られている現実を痛切に批判します。

しかし世界歴史のどこにも、過去をきちんと立て直すことで現在と未来を先取りした国は存在しない。世界の中心国家は、現在と未来を開拓することで、過去の歴史にも栄光の服を着せた国々だ。

 「世界史の標準時間」が未来と21世紀に焦点が合わせられた2006年、大韓民国の最大の国家プロジェクトが、「過去の歴史の清算」であるだけに、われわれが生きているこの地の時間を正確に示す時計の針は存在しない。われわれは今、「現在が過去であり、過去が現在だ」という、とんでもない逆説が堂々とはびこる地で生きているのだ。

 もとのハングル文は私は理解できないのでこの邦訳社説だけで論じさせていただきますが、この辺りの文章は格調高い名文でありましょう。

 韓国国内の世論動向からすれば、この朝鮮日報の社説は間違いなく少数派意見を代弁しているのでありましょう。

 しかし、少数派意見とはいえ、1月1日の社説において堂々と現政権及び現国民世論を批判展開するメディアが存在していること自体、韓国の民主度の成熟を示している素晴らしいトピックであるのではないでしょうか。

 ・・・

 この韓国・朝鮮日報の元旦の社説は、無難にまとめている日本のメディアの社説に比し、新鮮な驚きを与えてくれたのでした。



人気blogランキングへ