「法的な意味における戦闘行為ではなく衝突だ」〜安倍政権よ、こういうトンチンカンな答弁を国会にて堂々としてはいけない
今回は小ネタです。
さて洋の東西を問わず、戦争・戦闘行為としては、隣国との国際的紛争・戦争に比較してもその物的・人的損害が侮れないのが、国内に閉じた戦争・戦闘行為としての内戦であります。
自国人どうしの争いである「内戦」はときに国際紛争よりも長期戦の様相を呈し深刻な損害をもたらすわけです。
例えばアメリカ。
アメリカは近代戦に於いて自国の存亡を賭けた総力戦というのを国際紛争で実は経験したことがありません。
第二次世界大戦ですらアメリカ本土に上陸され他国の軍隊に国土を蹂躙された経験を持ちません。(日本軍の真珠湾奇襲攻撃やアリューシャン島嶼占領など一部の例外を除いてです)
みなさまもよくご承知でしょうが、近代戦に於いてアメリカ軍は負けを知らず、唯一の「悪い戦争」であるベトナム戦争においても戦場はいつも相手国であり、戦死者の数はいつも相手国のほうがアメリカよりも一桁(場合によっては2桁)多い有利な戦争しかしていません。
太平洋戦争に於いても民間を含めて300万を数える犠牲者を出し文字通り自国の存亡を賭けた総力戦に敗れた日本ですが、アメリカ側の太平洋方面の戦死者は日本の10分の1以下の十数万人(ヨーロッパ戦線などを含めての全体では約40万人)にとどまっています。
2011年に退却したイラク戦争においても派兵16万8千人に対し死者総数は4千5百人です、イラク側の死者数が軍民合わせて50万人以上出ていますから、ここでも犠牲者数では完全に非対称な戦争になっています。
実は独立以来の近代においてアメリカにとって史上最大の戦没者を出したのは、62万8千人の犠牲者を出したアメリカ史上唯一国内が戦場になった内戦である1860年の「南北戦争」までさかのぼらなければなりません。
国際紛争・他国との戦争行為に比較して、国内紛争・自国人どうしの「内戦」は決して戦闘行為としては小規模でも被害が小さいわけでもないし、むしろ「内戦」によっては、自国人どうしの戦いが余計な殺戮を繰り返すといった悪循環さえ有してしまうケースも少なからずあるわけです。
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さて、国会にて南スーダン・ジュバで7月に起きた大規模な戦闘について、稲田防衛相および安倍首相がなんともトンチンカンな答弁を繰り返しました。
「法的な意味における戦闘行為ではなく、衝突だ」(稲田防衛相)
「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたはモノを破壊する行為だ。こういった意味における戦闘行為ではないと思う」(稲田防衛相)
「『戦闘行為』ではなかった」(安倍首相)
「武器をつかって殺傷、あるいはモノを破壊する行為はあった。大野さんの解釈として『戦闘』で捉えられるだろうと思うが、我々はいわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」(安倍首相)
うむ、「戦闘行為」=「国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたはモノを破壊する行為」と定義すれば、今回の南スーダンの大規模な紛争は国際的ではなくいわば南スーダンに閉じた「内乱」だから、これは「戦闘」ではなく「衝突」であると。
「『戦闘行為』ではなかった」(安倍首相)、と。
(参考記事)
安倍首相「戦闘ではなく衝突」 ジュバの大規模戦闘
2016年10月11日13時37分
http://www.asahi.com/articles/ASJBC43CHJBCUTFK00C.html
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こう言うトンチンカンな答弁を国会にて堂々としてはいけません。
南スーダンで起こった大規模な紛争は、『戦闘行為』でなかったとかただの『衝突』だとか、遠く離れた安全な日本の国会で言葉遊びとも取れる言い逃れに終始するのは、まったくいただけません。
「激しい戦闘行為」を「単なる衝突」とただ表現を変える、このような小学生でも理解できるような詭弁を弄しても国民は納得しないでしょう。
これは確かに国際紛争というよりも南スーダン国内の「内戦」の様相を呈しています、しかしだからといってそれは事態が「戦闘行為」よりもより安全な局地的「衝突」であると意味するものではありません、そもそも「内戦」だから安全などと言えるはずもありません。
本件での安倍政権の言ってることはまったくトンチンカンなのであります。
当ブログは安倍政権の外交政策・防衛政策を基本的に支持しているものですが、このような低レベルのごまかしは認めることはできません。
(木走まさみず)