木走日記

場末の時事評論

28人の戦後歴代首相の在任期間と辞任理由を徹底検証

 今日(24日)の毎日新聞記事から。

参院選官房長官らが首相退陣を否定

 塩崎恭久官房長官は24日午前の記者会見で「参院選は政権選択の選挙ではない。今回も同じだと思う」と述べ、選挙結果にかかわらず首相が退陣する必要はないとの考えを示した。過去に自民党参院選で敗北し、首相が退陣した先例については「それはその時の政権の判断だ」と述べた。

 自民党中川昭一政調会長も同日午前、日本外国特派員協会で記者会見し、参院選で与党が過半数割れした場合の対応について「(衆院の)首班指名選挙に絡む国政選挙ではない。首相が辞める辞めないは別次元だ」と強調した。【竹島一登、西田進一郎】

毎日新聞 2007年7月24日 11時37分
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070724k0000e010039000c.html

 塩崎恭久官房長官は「参院選は政権選択の選挙ではない」と述べ、選挙結果にかかわらず首相が退陣する必要はないとの考えを示したそうであります。

 中川昭一政調会長も「(衆院の)首班指名選挙に絡む国政選挙ではない」と述べ「首相が辞める辞めないは別次元だ」と強調したそうであります。

 ・・・

 確かに2院制の日本においては参議院選挙は政権選択の選挙ではなく、政権の実績を問う選挙でありますので、政府中枢からこのような意見が示されるのはごもっともでありますが、まだ結果も出ていないのに少しみっともないですね、あんまりこんなことばかり発言してると、有権者の貴重な投票行為に水を差しているようで感心できません。

 ・・・

 今回の参議院選で安倍首相が責任を問われることになるのかどうかは選挙結果とその後の政情をしっかりと見守ることとしましょう。

 ・・・

 それよりも、ところででは「(衆院の)首班指名選挙に絡む国政選挙」である総選挙の結果によって、首相が退陣に追い込まれたことは過去何回あったのでしょうか。

 とても興味を持ちました。

 戦後日本の歴代の首相たちはどんな理由で日本国総理大臣を辞職したのでしょうか?

 参院選とは少し脱線して、興味深いこの問題を本日は徹底検証いたしましょう。



●28人の戦後歴代首相の在任期間と辞任理由を徹底検証

 安倍首相は戦後歴代29人目の総理大臣であります。

■表1:戦後歴代内閣一覧表

No 内閣名 在任期間
01 東久邇宮稔彦王内閣 (昭和20年8月17日〜昭和20年10月9日)
02 幣原喜重郎内閣 (昭和20年10月9日〜昭和21年5月22日)
03 吉田 茂内閣 (昭和21年5月22日〜昭和22年5月24日)
04 片山 哲内閣 (昭和22年5月24日〜昭和23年3月10日)
05 芦田 均内閣 (昭和23年3月10日〜昭和23年10月15日)
06 吉田 茂内閣 (昭和23年10月15日〜昭和29年12月10日)
07 鳩山一郎内閣 (昭和29年12月10日〜昭和31年12月23日)
08 石橋湛山内閣 (昭和31年12月23日〜昭和32年2月25日)
09 岸 信介内閣 (昭和32年2月25日〜昭和35年7月19日)
10 池田勇人内閣 (昭和35年7月19日〜昭和39年11月9日)
11 佐藤榮作内閣 (昭和39年11月9日〜昭和47年7月7日)
12 田中角榮内閣 (昭和47年7月7日〜昭和49年12月9日)
13 三木武夫内閣 (昭和49年12月9日〜昭和51年12月24日)
14 福田赳夫内閣 (昭和51年12月24日〜昭和53年12月7日)
15 大平正芳内閣 (昭和53年12月7日〜昭和55年7月17日)
16 鈴木善幸内閣 (昭和55年7月17日〜昭和57年11月27日)
17 中曽根康弘内閣 (昭和57年11月27日〜昭和62年11月6日)
18 竹下 登内閣 (昭和62年11月6日〜平成元年6月3日)
19 宇野宗佑内閣 (平成元年6月3日〜平成元年8月10日)
20 海部俊樹内閣 (平成元年8月10日〜平成3年11月5日)
21 宮澤喜一内閣 (平成3年11月5日〜平成5年8月9日)
22 細川護煕内閣 (平成5年8月9日〜6年4月28日)
23 羽田 孜内閣 (平成6年4月28日〜6年6月30日)
24 村山富市内閣 (平成6年6月30日〜8年1月11日)
25 橋本龍太郎内閣 (平成8年1月11日〜平成10年7月30日)
26 小渕恵三内閣 (平成10年7月30日〜平成12年4月5日)
27 森 喜朗内閣 (平成12年4月5日〜平成13年4月26日)
28 小泉純一郎内閣 (平成13年4月26日〜平成18年9月26日)

注意:吉田茂氏は返り咲きがあるので第一次と第二次で2回カウントされています。

 では、まずこの28人の戦後歴代首相の辞職理由をそのときのトピックスとともにすべて検証してきましょう。

東久邇宮稔彦王内閣(昭和20年8月17日〜昭和20年10月9日)

 皇族として終戦処理内閣を組閣した東久邇宮稔彦王首相なのでありますが、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えましたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領政策と対立、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職いたしました。

幣原喜重郎内閣(昭和20年10月9日〜昭和21年5月22日)

 総選挙の結果、鳩山一郎率いる自由党に第一党の座をゆずり(候補者数2770名。獲得議席数は、自由党鳩山一郎)140名で第一党、進歩党94名、社会党片山哲)92名、協同党(山本実彦)14名、共産党徳田球一)5名、諸派38名、無所属81名)、この結果を受けて総辞職。

■吉田 茂内閣(第一期)(昭和21年5月22日〜昭和22年5月24日)

 マッカーサーの指示によって総選挙が実施、結果は以外にも社会党第一党で143議席となり(続いて自由党131議席民主党124議席、国協党31議席共産党議席)、吉田首相は事ここに至ればやむを得ず、社会党に首班を譲ることになりました。

■片山 哲内閣(昭和22年5月24日〜昭和23年3月10日)

 初の社会党政権となりましたが片山内閣の死命を制したのは同じ社会党左派でありまして、政府提出の鉄道旅客運賃値上げ案は、予算委員長鈴木茂三郎(左派)は、右派社会党民主党の出席しない間に、抜き打ちで自由党共産党と組んでこれを否決(政府原案撤回と組み替えを議決)、これを受け片山内閣は総辞職し、友党・民主党総裁芦田均に政局維持をゆだねます。

■芦田 均内閣(昭和23年3月10日〜昭和23年10月15日)

 いわゆる「昭電疑獄」事件により民自党顧問大野伴睦、安本長官栗栖赳夫、前国務相西尾末広らが事件もみ消しの収賄によって逮捕され、芦田内閣は「道義上の責任」を取る形で総辞職しました。

■吉田 茂内閣(第二期)(昭和23年10月15日〜昭和29年12月10日)

 解散総選挙を打って出ようとした吉田首相が他の閣僚の総辞職論と対立して閣内にて孤立、ついに最後は池田勇人幹事長も折れ、吉田を説得、吉田首相は「では辞めて、大磯でゆっくり本でも読むか」と言い、総理・総裁の辞表をさらさらと書いて、単身首相官邸を去りました。こうして、戦後最長の七年にわたる『吉田政治』は、終焉を告げたのであります。

鳩山一郎内閣(昭和29年12月10日〜昭和31年12月23日)

 数少ない政争のない退陣となります。鳩山は退陣の意志を自ら明確にし、鳩山内閣総辞職後は自由民主党結党以来はじめての総裁選挙がおこなわれることになります。

石橋湛山内閣(昭和31年12月23日〜昭和32年2月25日)

 総理大臣の激務は、石橋の肉体を疲労させ、石橋首相は肺炎にかかってしまいます、かつて石橋がジャーナリストだったころ、彼は時の首相濱口雄幸首相が病床にありながらなお首相たりつづけたことに「政権居座り」だとして激しい非難をぶつけた経緯があり、石橋はみずから濱口の轍を踏むわけにはゆかず辞任表明します。

■岸 信介内閣(昭和32年2月25日〜昭和35年7月19日)

 日米安全保障条約の締結をめぐりデモ隊に国会が包囲される中、十八日午前零時。新安保条約は自然承認となります、岸は「私のやったことは歴史が判断してくれるよ」と言い、六月二十三日、批准書交換の日に退陣を発表いたします。

池田勇人内閣(昭和35年7月19日〜昭和39年11月9日)

 池田首相の喉頭ガンが悪化していきます、十月十日、池田は東京オリンピック開会式に出席、この三日後に、池田は大平に辞意を伝え、十月二十五日午後三時、川島正次郎、三木武夫河野一郎鈴木善幸の四人が病院に招かれ、その席で池田は、正式に退陣を表明しました。

佐藤榮作内閣(昭和39年11月9日〜昭和47年7月7日)

 1972(昭和四十七)年六月十七日、沖縄返還を見届けて、佐藤首相は退陣を決意いたします。田中角榮によれば、「一時は五選を言い出した」ようで、紆余曲折もありましたが、結局周囲の状況に押されて、退陣のやむなきに至ったというところでしょう。

田中角榮内閣(昭和47年7月7日〜昭和49年12月9日)

 立花隆のスクープにより「金脈と人脈」問題ロッキード事件が発覚、フォード米大統領の来日日程が終了したのち、退陣の決意をします、十一月二十六日九時半、田中首相は官邸に椎名悦三郎副総裁、二階堂進幹事長など党幹部を招集し、自民党総裁を辞任する意向を告げました。

三木武夫内閣(昭和49年12月9日〜昭和51年12月24日)

 三木は、十二月の任期満了にともなう選挙を選択しますが、この選挙は自民党にとっての分裂選挙でありました。挙党協は、福田赳夫を次期首班に推挙するとともに、党本部とは別に選挙対策本部を設けます、この結果、衆院議員定数が491から511に増加したにもかかわらず、自民党は前回議席を22下回る249議席しか確保できず惨敗、十二月二十二日、三木内閣は総辞職いたします。

福田赳夫内閣(昭和51年12月24日〜昭和53年12月7日)

 1978年 10月23日、勝g小平副総理を日本に迎え、「日中平和友好条約」に調印。 派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北、自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人であります、「(民の声は天の声というが)天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞任。

大平正芳内閣(昭和53年12月7日〜昭和55年7月17日)

 1980年5月16日には社会党が提出した内閣不信任案が反主流派の欠席によって可決、ハプニング解散となり、憲政史上初めて衆参同日選挙が行われる事態を招来します、同日選の第一声を挙げた翌日の5月31日に体調を崩して東京都港区の虎の門病院に入院(以前からニトログリセリンを常用しており、心臓に不安があった)、6月12日5時54分に心筋梗塞で入院中のまま急死いたしました。第二次大戦後初の現職のまま死去した内閣総理大臣となりました。

鈴木善幸内閣(昭和55年7月17日〜昭和57年11月27日)

 首相就任以来、度々発言を修正することがあるなど発言に隙があることもあり、これらの経緯により対米関係が著しく悪化、与党内親米派により倒閣の動きが起こりつつある1982年10月に至って突然総裁選不出馬を表明。

中曽根康弘内閣(昭和57年11月27日〜昭和62年11月6日)

 選挙中に導入しないと宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及されて支持率が急落、1987年(昭和62年)の統一地方選で敗北。売上税撤回後は支持率が復活し、同年11月余力を持ったまま退任いたします。

■竹下 登内閣(昭和62年11月6日〜平成元年6月3日)

 1988年にリクルート事件が発覚し、竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年4月24日に不審な状況で自殺します、こうした状況のなか世論の反発を受け、支持率がついに10%を割り込むまでに至り、1989年6月3日に内閣総辞職に追い込まれます。

宇野宗佑内閣(平成元年6月3日〜平成元年8月10日)

 外国メディアに「セックススキャンダル※1が日本の宇野を直撃」(ワシントンポスト紙)等と掲載され、そのまま同年7月の第15回参議院議員通常選挙は、いわゆる3セット(リクルート問題、消費税問題、農産物自由化問題)が争点となり、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席と惨敗、参議院では結党以来初めての過半数割れとなります、翌日敗北の責任をとり退陣を表明。

海部俊樹内閣(平成元年8月10日〜平成3年11月5日)

 政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、「重大な決意」と発言。これは衆議院解散総選挙を匂わせる発言でしたが、「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、しかし、自民党内では方々からこの発言に反発する声が沸き起こり、特に、海部をバックアップするはずの竹下派は明確に不支持を表明し、結果的には海部の求心力のなさを浮き彫りにし、解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で辞任せざるを得ませんでした。

宮澤喜一内閣(平成3年11月5日〜平成5年8月9日)

 折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念、1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党分裂により成立、解散して総選挙を行うも日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川内閣に政権を明け渡します。

細川護煕内閣(平成5年8月9日〜6年4月28日)

 皮肉にも政治改革の実現は、非自民連立政権の結束を弱めることになり、小沢一郎、大蔵事務次官斎藤次郎のラインに乗って発表した「国民福祉税」構想は、与党内でも批判を浴び取り下げざるを得なくなります、その後、自らの金銭スキャンダルが自民党によって取り上げられる中、政権を投げ出すような形で電撃的に辞職します。

■羽田 孜内閣(平成6年4月28日〜6年6月30日)

 予算案は成立したが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出します、内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の中選挙区制による総選挙実施を招くということで、結局、6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わります。

村山富市内閣(平成6年6月30日〜8年1月11日)

 自社さ連立政権として発足した村山富市内閣ですが、8月15日『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話(村山談話)」を閣議決定した翌年1月5日 退陣を表明、11日に内閣総辞職いたします。

橋本龍太郎内閣(平成8年1月11日〜平成10年7月30日)

 消費税を掲げての1998年7月の参院選で敗北、それを受けて翌日首相を辞任いたします。

小渕恵三内閣(平成10年7月30日〜平成12年4月5日)

 首相在任中の2000年4月2日に、脳梗塞を発症し、同年5月14日午後4時7分に、病室で家族に見守られながら死去いたします。

■森 喜朗内閣(平成12年4月5日〜平成13年4月26日)

 最大会派の橋本派は「野党に屈するわけにはいかないので不信任案を否決したが、森首相を擁護するのではない」とし、橋本派から引導を渡される形で、連立政権を組んでいる公明党からも見限れ総辞職。

小泉純一郎内閣(平成13年4月26日〜〜平成18年9月26日)

 ご存じの通り、総裁任期満了での退任を表明であり数少ない円満な辞職となりました。

 ・・・

 ふう、後半は少し疲れました(苦笑)



●志なかばにして辞めさせられた人が大半の歴代総理大臣

 で、検証結果を表にまとめてみました。

■表2:戦後歴代首相退任理由一覧表

No 内閣名 退任理由
01 東久邇宮稔彦王内閣 その他(GHQと対立)
02 幣原喜重郎内閣 総選挙敗北(自由党に敗れる)
03 吉田 茂内閣 総選挙敗北(社会党に敗れる)
04 片山 哲内閣 政争(社会党内左右対立)
05 芦田 均内閣 スキャンダル(昭電疑獄事件)
06 吉田 茂内閣 政争(閣内反乱)
07 鳩山一郎内閣 円満辞任
08 石橋湛山内閣 死去・病気(肺炎)
09 岸 信介内閣 その他(60年安保争乱)
10 池田勇人内閣 死去・病気(喉頭ガン)
11 佐藤榮作内閣 円満辞任
12 田中角榮内閣 スキャンダル(「金脈と人脈」問題ロッキード事件)
13 三木武夫内閣 総選挙敗北(自民分裂選挙)
14 福田赳夫内閣 総裁選敗北(天のお声にも変な声)
15 大平正芳内閣 死去・病気(心筋梗塞)
16 鈴木善幸内閣 円満辞任
17 中曽根康弘内閣 円満辞任
18 竹下 登内閣 スキャンダル(リクルート事件)
19 宇野宗佑内閣 参院選敗北
20 海部俊樹内閣 政争(海部おろし)
21 宮澤喜一内閣 総選挙敗北(自民はじめて下野)
22 細川護煕内閣 スキャンダル(自身の金銭スキャンダル)
23 羽田 孜内閣 政争(社会党との政策協議決裂)
24 村山富市内閣 円満辞任
25 橋本龍太郎内閣 参院選敗北(消費税)
26 小渕恵三内閣 死去・病気(脳梗塞)
27 森 喜朗内閣 政争(橋本派から引導)
28 小泉純一郎内閣 円満辞任

 まあ、暫定的に私がカテゴリーを付けましたが、例えば宇野宗佑さんのように三つ指スキャンダルを抱えながら参院選に突入してあえなく玉砕とか、細川護煕さんのように政争に揺さぶられながら最後には野党自民党による自身のスキャンダル追及に嫌になっちゃて辞任とか、複合的な理由の人もおられますが、とにかく辞める最後の理由だけでカテゴリー分けをいたしてみました。

 また円満辞任としたくくりでは、「任期」の定義がない時代も含めて一定期間首相を務めた上で、ご自身がまがりなりにもご自身の意志により総理を円満に辞められた方をいれています。

 ・・・

 こうしてまとめてみると、興味深いのでありますが、日本の歴代の首相って、円満に退任された方はホンの一握りで、選挙の敗北や政争、あるいはスキャンダルや病気で、志なかばにして辞めさせられた人が大半なのであります。

 まあご自身の意志で比較的満足のいく辞め方だった人は6人であります。

鳩山一郎 佐藤榮作 鈴木善幸 中曽根康弘 村山富市 小泉純一郎

 自ら首相を辞めたがり望んで辞任した点からここのグループに入れた6人なのですが、特に鈴木善幸さんと村山富市さんなんかは、その政権末期の永田町での評判は「政争」じみていて微妙なのではありますが(苦笑

 で、志なかばで辞任もしくは辞めさせられた人は後の22人であります。

 おおよそ内訳はこうです。

 総選挙敗北で責任を取らされた人は4人であります。

幣原喜重郎 吉田 茂(第一期) 三木武夫 宮澤喜一

 参院選敗北で責任を取らされた人は2人であります。

宇野宗佑 橋本龍太郎

 総裁選敗北で下ろされちゃった奇特な人はお1人であります(苦笑)。

福田赳夫

 主として与党内の政争で下ろされちゃった人は5人であります。

片山 哲 吉田 茂(第二期) 海部俊樹 羽田 孜 森 喜朗

 スキャンダルや大事件で責任を取らされた人は6人であります。

芦田 均 田中角榮 竹下 登 細川護煕 東久邇宮稔彦王 岸 信介

 病気による途中辞任または在任中死去された方は4人であります。

石橋湛山 池田勇人 大平正芳 小渕恵三

 ・・・



●平均2.14年〜ああ、戦後歴代日本国総理大臣の内閣のなんと短命なことでしょう

 ふう。

 戦後62年で我らが安倍首相はのべ29番目の首相であります。

 単純に割り算すれば平均2.14年の短命なのが我が日本国総理大臣の内閣なのであります。

 今検証したとおり28人中22人、つまり大半の総理大臣は志半ばにしてときに仲間から足をひっぱられ、ときにスキャンダルにまみれ、ときに選挙で負けて、ときに病気になられ、不本意に辞められていったのであります。

 ああ、戦後歴代日本国総理大臣の内閣のなんと短命なことでしょう。

 ・・・

 それにしても4年制のアメリカ大統領をはじめ国際政治では主要国はおしなべて長期政権であり、その中で日本のようにこうコロコロ首相が替わってしまっては、政治力を持とうにも一貫した政策を持てないし顔すらろくに覚えてもらえないようでは話しにならないのであります。

 ・・・

 今回は、参院選とは少し脱線して、28人の戦後歴代首相の在任期間と辞任理由を徹底検証してみました。



(木走まさみず)



<関連テキスト>
■[政治]安倍氏小泉首相を鑑にするならこれだけは守って欲しいこと
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060727/1153979060