木走日記

場末の時事評論

アメリカのベトナム戦争博物館で感じたある国の「公平性」の限界

kibashiri2006-08-15


 今日(15)終戦記念日の東京では朝から雨模様でした。

 小泉首相の参拝問題は他のまじめなサイトやブロガーにお任せ(正直食傷気味でもあります(苦笑))して、今日は他国の、過去の戦争に対する評価について考えてみたいのです。



●3年前の話〜ニュージャージー州ベトナム戦争博物館を訪ねる

 3年前の秋、私は一ヶ月ほどアメリカに出張していました。その際、ニューヨーク市内からは車で1時間余りのところにあるニュージャージー州の小さな町ホルムデルにあるアメリカ人の友人宅にしばらく滞在させてもらったことがあります。

 実はホルムデルは、小さな町なのですが1940年代から当地にあるベル電話研究所により世界初のバイポーラトランジスタが実用化された町でもあり、アメリカでは古くからハイテクの街としても有名でして、今日でも多くのIT関連企業が立地されているのです。

 私もこの地に当時滞在した理由は、現地のITベンチャー企業との商談があったためであり、やはり現地の企業に勤務しこの町に住んでいるアメリカ人技術者の家に1週間ほどお世話になったのでした。

 郊外にハイテク企業が多く立地しているにもかかわらず、ホルムデル市街はとても趣のある街で、中でも私が訪れた秋は街全体が静かな落葉の時をむかえていて夕方に市内にある公園を友人と散策するのがとても楽しみでありました。

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 さて、その大きな公園を友人と歩いていると、「ニュージャージー州べトナム戦没者慰霊碑」(the New Jersey Vietnam Veterans Memorial)が目に留まりました。

 友人の説明によれば、州出身のべトナム戦没者千数百名の名前が御影石に刻印されているとのことでした。

 で、ここで興味深いことは「べトナム戦没者慰霊碑」のずぐ近くに真新しい「べトナム戦争時代教育センター」(the Vietnam Era Educational Center)という建物があるのです。

 実はアメリカではベトナム戦争関連のこのような博物館は極めて珍しく、友人曰くベトナム戦争に関して教育的施設の意味も持つものとしては現在のところ全米唯一の戦争博物館なのだそうです。

 1998年9月27日に開館されたこの「べトナム戦争時代教育センター」ですが、アメリカらしい逸話としては、開館の時、当地のベトナム帰還兵達が建設資金獲得活動した結果、建設に必要な約300万ドルの資金を寄付することを申し出たのは、なんと州内のアトランティック・シティのカジノ業者だったそうです。

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 当時の博物館のパンフを見ながら、このテキストを書いておりますが、博物館の設立目的と特徴を、まとめておきましょう。

 ベトナム戦争は、合衆国にとりながらく「悪い戦争」(“Bad War”)と評価されてきました。ベトナムの共産化を阻止するという当初の目的を達成することもできず、第二次世界大戦後に合衆国が関わった戦争としては10年にも及ぶ最も「長い戦争」であり、約5万8000人という最大規模の戦死者を出したからです。

 1975年にサイゴンが陥落して戦争が終結して暫くは、合衆国の人々にとって冷静にこの戦争に向き合うことは困難でありました。

 1980年代初頭頃から、戦争中及び戦争直後にアメリカ社会から疎外されていたベトナム帰還兵たちが、自らの癒しと名誉回復を求め、帰還兵を中心とした寄付のもとに、1982年に「ベトナム戦没者慰霊碑」(the Vietnam Veterans Memorial)を首都ワシントンD.C. に建立したのでした。そこにはベトナム戦争の米戦死者約5万8000人が御影石に刻まれているそうです。

 その後各州で地域独自の戦没者慰霊碑が建立される中でここニュージャージー州においても、ニュージャージー州出身の帰還兵を中心に、1995年5月7日この地にワシントンと同様の慰霊碑建立をしたのであります。

 ここでは慰霊碑建立にとどまらず、自ら戦ったヴェトナム戦争の経験を後世に伝えることも重要だと考え、慰霊碑とセットにした形で、同じ公園内にベトナム戦争関連の教育的施設兼博物館の建立を思い立ったわけです。

 このセンター設立準備は1993年春から始まり、5年後の1998年9月27日に開館いたしました。

 この展示内容決定にあたっては歴史家や博物館の学芸員以外に、ベトナム帰還兵も参加する委員会が設立され、1996年から1998年にかけて約3年にわたり議論が続けられたことが最大の特徴でありましょう。

 委員会は、最初から戦争の当事者であるベトナム帰還兵の代表が参加し、しかも25人で構成された委員会メンバーの過半数を占める13人が帰還兵に割り当てられたそうです。

 実は歴史家たちが作成した当初の展示内容案に対しては、ベトナム帰還兵が公平に扱われず、反戦運動の扱いがかなり好意的内容になっているとの批判が帰還兵らから寄せられていたのだそうです。

 最終的には歴史的に「公平に扱うこと」を重視し、帰還兵による「勇気ある戦い方」とともに、政府や個人の誤りにも配慮した展示内容が最終的に決められたそうです。

 そのような経緯から、この博物館では、戦争についての価値判断はむしろ見学者に委ねる形で展示内容を工夫することを主眼としているのだそうです。

参考サイト1:「べトナム戦争時代教育センター」のHP。

The Vietnam Era Educational Center
http://www.njvvmf.org/Educational_Center_C2.cfm

参考サイト2:当博物館を訪問した人のレポート

The Vietnam Era Educational Centerについて
http://www.tcp-ip.or.jp/~ainuzuka/nichibei/text4-2.htm

●興味深かった展示物「認識票」:犬の首輪(Dog Tag)〜5行目情報「宗教」の悲しい用途

 ニュージャーシー州「べトナム戦争時代教育センター」の展示コーナーの片隅に、戦没者遺族によるものか帰還兵によるものか失念いたしましたが、当時のアメリカ兵の「認識票」が展示されていました。

 ステンレススティール製のその小判型のプレートは、米兵はみな首からぶら下げる義務があるそうですが、そのわずか5行の認識情報には次の内容が刻まれています。

1行目・ラーストネーム(姓)
2行目・ファーストネーム(名)、ミドルネームのイニシャル
3行目・厚生年金受給No.(志願兵は前にRがつく)
4行目・血液型 ・Rhの種別(POS or NEG)
   ・性別(M or F)
5行目・宗教

 アメリカ兵からは自嘲気味に犬の首輪(Dog Tag)と呼ばれている「認識票」ですが、5行目の情報「宗教」がなぜ必要なのかを、友人からその用途を教わったときにはとても考えさせられ、また(Dog Tag)という自嘲気味の呼び名にも納得したものでした。

 5行目「宗教」はその兵士が生きている限りは全く必要のない情報なのだそうでした。

 

アメリカの「公平性」の限界

 さて、友人の解説付きで展示を見て回った私は、素直に展示物に感嘆したのでした。

 歴史的に「公平に扱うこと」を重視した博物館だけあって、確かに展示物の内容が反戦運動の役割からアメリカ兵の勇敢な戦いの様まで、公平に扱われていて、最後の展示コーナーでは、枯葉剤精神障害などのベトナム戦争負の遺産といわれるものまで詳細な解説文付きで展示されているのでした。

 一般にアメリカだけでなく各国の戦争博物館というものは、その善し悪しはともかく、えてして自国の戦争には肯定的なものであり、自国の戦没者は英雄的に捉えがちであります。

 その点でこの博物館は確かにアメリカ国内の反戦運動枯葉剤による後遺症や帰還兵の精神障害といった、決してアメリカにとって好ましくはない内容にも踏み込んでいるわけです。

 案内してくれた友人は、ベトナム戦争について、この冷静で「公平」な内容を展示できるまでにこの国は25年もかかったんだと話していました。

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 しかしながら、3年前一人の日本人として私が見て、この博物館の展示内容について、友人には言えない別の深い感想を持ったことも事実でした。

 私が感じたのはそれはこの博物館の、いやたぶんアメリカの「公平性」の限界でした。

 この博物館の「公平性」の限界と私が感じたのは、アメリカによって攻められた側・敵国ベトナム人の目線の欠落です。

 アメリカに一方的に自国内に介入され、10年ものながきを戦い100万ともいわれる犠牲者を出したベトナム人の視点からのこの戦争に対する評価がほとんど欠落していると感じたのです。

 確かに反戦運動も取り上げていますがそれはあくまでアメリカ国内の活動として扱われています。

 また枯葉剤による後遺症や帰還兵の精神障害に関しても帰還兵の症状に主題があり、現地におけるベトナム人側からの視点での言及がほとんどないのです。

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 近代戦に於いてアメリカ人にとり最大のトラウマであり反省しやすい材料の揃っているベトナム戦争においてすら、彼らの「公平性」には限界があり、あくまでも自国内の異論に対する「公平性」であり、敵国の価値観に対する「公平性」には及ばないわけです。

 もちろん私はこの博物館の「公平性」の限界を単純に非難しようとは全く思っていません。

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 アメリカは近代戦に於いて自国の存亡を賭けた総力戦というのを経験したことがありません。

 第二次世界大戦ですらアメリカ本土に上陸され他国の軍隊に国土を蹂躙された経験を持ちません。(日本軍の真珠湾奇襲攻撃やアリューシャン島嶼占領など一部の例外を除いてです)

 みなさまもよくご承知でしょうが、近代戦に於いてアメリカ軍は負けを知らず、唯一の「悪い戦争」であるベトナム戦争においても戦場はいつも相手国であり、戦死者の数はいつも相手国のほうがアメリカよりも一桁(場合によっては2桁)多い有利な戦争しかしていません。

 太平洋戦争に於いても民間を含めて300万を数える犠牲者を出し文字通り自国の存亡を賭けた総力戦に敗れた日本ですが、アメリカ側の太平洋方面の戦死者は日本の10分の1以下の十数万人(ヨーロッパ戦線などを含めての全体では約40万人)にとどまっています。

 実は独立以来の近代においてアメリカにとって唯一国内が戦場になり、アメリカ史上最大の戦没者を出したのは、62万8千人の犠牲者を出した内戦である1860年の「南北戦争」までさかのぼらなければならないのです。

 つまり現在のアメリカ人は、戦場になった側、爆弾を落とされた側の立場でものを見ようにもその経験は皆無なのです。

 これではアメリカの戦争博物館に「公平性」の限界があるとしても仕方がないのかも知れません。

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ホーチミン市の「ベトナム戦争犯罪博物館」で1枚20セントで売っていたドッグタグ

 ベトナムホーチミン市にも「ベトナム戦争犯罪博物館」という戦争博物館があります。

 ここでは当然ながらベトナム側の視点からベトナム戦争の、特にアメリカの戦争犯罪にスポットを当てて展示されているそうです。

 数年前のこんなニュースから・・・

30年ぶりにベトナム帰還兵の手に戻ってきた認識票

映画などで良く見るが、米兵がクビからぶら下げている金属製の認識票がありますよね。あれ、なぜか知らないけど自嘲的にドッグタグ(犬の首輪)と呼ばれている。

ドイツに住むホリー・ステーゼさんは夫と2にんで2000年9月にベトナム旅行に行った。ホーチミンシティの戦争犯罪博物館を訪れた時に、少女がバケツに米軍のドッグタグを20枚ほど入れて売っていたという。

ホリーさんは、なんの気なしに、そのうちの2枚を土産に買った。

タグにはフィル・テイトムという名前が刻まれていた。3年ほど、ホリーさんは、時々思い出したかのように「フィルってどんな兵士だったのだろう?どんな経緯でドッグタグを失ったんだろう?」と疑問に思っていたという。

そしてある日、どうしても好奇心が抑えられなくなり、ホリーさんはインターネットでフィルの消息を調査し始めた。

ホリーさんが、最初にやったのはベトナム戦争の戦死者に「フィル・テイトム」がいるかどうか。フィルの名前は戦死者5万数千の中には含まれていなかった。となると、フィルは生きているのだ。

ホリーさんはネット1時間ほど、Ancestry.comなどを調べた結果、フィル・テイトムの電話番号を突きとめた。念のために、ホリーさんはフィルの兄弟に連絡を入れ、事情を説明した。そしてフィルが大喜びするだろう、という保証をもらってから、ドッグタグを同封した手紙を送ったという。

フィルにとっては青天の霹靂のような出来事だった。

フィルは1971年、ベトナムのチュ・ライに駐屯していた。そこで、仲間の兵士が誤ってピンを抜いた手榴弾を落としてしまった。手榴弾はフィルの至近距離で爆発、破片で背中に大怪我を負ったフィルは病院に運ばれた。

目を醒ますと、全てが無くなっていた。ドッグタグもね。ベトナムから持ちかえったものは、手紙で送った何枚かの写真と背中にめり込んでいる手榴弾の破片だけだったんだ。

そして32年ぶりに戻ってきたドッグタグを手にしてこう言った。

もしこいつが口をきけたら、驚くべき物語がきけるんだろうがね。でもオレにとっては、またこのタグを手にしたってことだけで大変な意味があるんだ。

ホリーさんは何もかもが上手くいったことを喜びながらも、一つだけ残念に思っていることがあるという。

少女のバケツの中にはドッグタグが20枚ほど入っていた。全部買ってくれば良かったわ。1枚20セントしかしなかったんだから。

2003年7月22日
http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/0307/22b.html

 興味深い話です。

 同じ戦争を経験した二つの国の戦争博物館で、かたやアメリカでは大切に貴重な戦争資料として展示されている「認識票」(ドッグタグ)が、かたやベトナムではアメリカの戦争犯罪にスポットを当てて展示されている博物館の横で、数年前まで少女のバケツの中に1枚20セントで売られていたわけです。

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 ひとつの戦争の評価は国が違えばいかに異なるかまた共通の普遍的な評価がいかに難しいか、この2つの博物館における米兵の「認識票」(ドッグタグ)の扱いの違いを示す逸話は、その事実を象徴的に教えてくれているのではないでしょうか。



(木走まさみず)