どうしても横光克彦代議士の生き様が好きになれない私〜「タイタニック」から生還した人と「社民党」を見限った人の似て非なる生き様
●ちょっとした常識があれば、おかしいと気がつく代物を先月、国会でとりあげた御仁〜産経コラムに茶化される社民党を見限って民主党入りした横光克彦代議士
本日(30日)の産経抄から。
今年の初め、九州の地方紙に奇妙な投書が載った。90歳の老人が書いたというその内容の面妖さは、小紙の読者ならすぐ気がつかれるだろうが、ちょっとご紹介しよう。
▼昭和20年秋、ところは中国・南京郊外。敗残の日本兵が引き揚げのため歩いていた姿をみた軍の幹部たちは「今こそ恨みをはらすべきだ」とのちの首相、周恩来に機銃掃射の許可を求めた。▼しかし、彼は「日本兵も一握りの軍国主義者の哀れな犠牲者だ」とさとし、コメを一升ずつ配ったという。老人は、「戦争の惨苦を体験していたならば、A級戦犯をまつる靖国神社に参拝しないであろう」と締めくくっている。
▼よくできた美談ではある。だが、この年の秋、周恩来は国民党との和平協定交渉のため南京から遠く離れた重慶で過ごした。しかも当時、中国中南部の多くの地域は国民党の勢力下にあった。南京郊外で司令官でもない周恩来と将軍たちがそんな会話をかわせるはずがないのである。
▼ご老人の思い過ごしを責めるつもりはないが、ちょっとした常識があれば、おかしいと気がつく代物を先月、国会でとりあげた御仁がいる。社民党を見限って民主党入りした横光克彦代議士だ。彼は首相の靖国参拝に反対する道具に使ったのだが、歴史認識どころか基礎的な歴史知識すら怪しい。
▼問題は、こうした無知な発言が議事録に残り、「非道な日本・寛大な中国共産党」という歴史認識の刷り込みに一役買っていることだ。現に靖国神社への参拝自体が軍国主義を賛美する行為だと、勘違いしている人が少なくない。折しも民主党の小沢一郎代表が訪中し、胡錦濤国家主席と会談するという。「小泉憎し」のあまり、政局より大事な歴史認識を過たぬようお願いしたい。
うーん、「今年の初め、九州の地方紙に奇妙な投書が載った」で始まるこの産経コラムでありますが、例によって全国紙にあるまじきねちっこさ(苦笑)で、ある国会議員の国会質疑の揚げ足を取っております。
しかしこの国会議員、当ブログでも昨年取り上げていた「社民党を見限って民主党入りした横光克彦代議士」ではないですか。
これは興味深いことです。
本日は横光克彦代議士のこの発言を少し検証しつつ、「タイタニック」から生還した人と「社民党」を見限った人の似て非なる生き様について考えてみましょう、
●自分勝手に落ち目の社民党を副党首でありながら選挙直前に見限っていて、「私はただの平議員」もクソ(←失礼)もないでしょう(怒。
少し調べましたところ「今年の初め、九州の地方紙に奇妙な投書が載った」とあるのは、西日本新聞の1月14日付けの投書欄に掲載された福岡県大刀洗町在住の平田清人氏の投書のことのようです。
で「先月、国会でとりあげた」とあるのは、5月26日に衆議院で開かれた「教育基本法に関する特別委員会」での横光克彦代議士の発言のようです。
西日本新聞の投書欄はネット上にないようですが、5月26日の衆議院の答弁議事録から該当の発言箇所をそのまま引用しましょう。
安倍官房長官に対して小泉首相の靖国参拝問題を正す質疑を締めくくる形で横光克彦代議士は以下のように発言を締めくくります。
○横光委員
(中略)
ですから、私は、いずれ安倍さんは総理になられる方だろうと思っております。それだけに、私はひとつこの文章を読ませていただきますが、これをしっかりと総理大臣になられたときに思い出していただきたい、確認していただきたい。これを読ませていただきますので、ちょっと聞いてください。
これは福岡県の大刀洗町の平田清人さんという九十歳の農家の方が西日本新聞にことしの一月十四日に投書した文章でございます。一分ぐらいですので、ちょっとお許しいただきたいと思います。
一九四五年秋。のちの中国首相、周恩来司令官は軍の最高幹部を引率、南京郊外の台地にいた。遠くに、武装解除された多くの日本兵が祖国への引き揚げ港に向かって歩いていた。これを見ていた将軍たちは、いっせいに周司令官に対し「今こそ一千万人もの同胞を殺害した日本兵に対しうらみを晴らすべきだ。命令一下、機銃で全滅させる」と周氏の決断を迫った。
ところが氏は「彼ら日本臣民もまた一握りの軍国主義者の哀れな犠牲者だ。戦火から解放され、やっと祖国に帰る彼らには食糧がないと聞く。軍庫を開いて彼らを救助せよ」と日本兵一人に米一升ずつ配布したという。
とあって、そしてこの平田さんは、
一握りの軍国主義者のため敵味方、無数の人民が塗炭の苦しみをなめたが、体験者は日ごとに死亡して残りわずか。
小泉首相はあえて靖国神社に参拝しているが、もし、彼が私たちと同じ年配で、戦争の惨苦を体験していたならば、戦争を指導、強行したA級戦犯をまつる靖国神社に参拝はしないであろう。
こういう意見を述べられている。この方に私は了解を得て、きょう読ませていただきました。今、九十歳で、朝晩散歩しながら、時間を見ては田畑で仕事して、大変お元気でいらっしゃるそうです。
終わります。(文中太字は投書引用箇所と思われるところを木走が強調しました。)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/164/0158/main.html
このご老人の投書内容が事実に即しているのか、産経コラムが指摘するように「ちょっとした常識があれば、おかしいと気がつく代物」なのかはここで論じようとは思いません。
しかしながら、なんだかなあ、大分3区出の横光さんが西日本新聞を愛読していても不思議じゃないですが、一地方紙のしかも90歳のご老人の投書を事実の検証もせず国会で取り上げるという行為そのものは、いかがなものなんでしょうねえ。
今時、時事系ブログだってもう少しソースの検証は慎重にしますですよ(苦笑
・・・
衆議院議事録をよく読んでみるとこの発言の直前にも横光さんは気になることを答弁してるのですよね。
安倍官房長官と私は実は五期生で、同期生です。同じ時期に政治家としてスタートしました。立場がそれぞれ一緒のときも違ったときもありましたが、安倍さんは生まれたときから総理大臣のお孫さんということ、私は貧しい農家の出ということで立場は違って、今や一番総理の席に近い人、私はただの平議員。これを別にひがんでいるわけじゃないんですが。
なんだかなあ、「安倍さんは生まれたときから総理大臣のお孫さんということ、私は貧しい農家の出ということ」って、靖国問題とはなにも関係ないでしょ(爆
「今や一番総理の席に近い人、私はただの平議員。これを別にひがんでいるわけじゃないんですが」って、ひがんでんじゃないですか(爆
・・・
「私はただの平議員」ねえ・・・
一言いいですか、横光克彦さん。
あなたは昨年の選挙直前に自分から「社民党副党首」という要職を無責任にも放り出し、「社民党で衆院選を戦うのは厳しいと判断した」という身勝手な離党理由で恥も外聞もなく民主党に転がり込んで「ただの平議員」に成り下がったわけじゃないですか。
昨年8月11日の当ブログエントリーより以下抜粋。
(前略)
●横光克彦さん、格好悪いですよ!
横光氏が離党、民主に鞍替え 社民の退潮傾向に一層拍車
社民党副党首の横光克彦前衆院議員(61)=比例代表九州ブロック=が9日、大分県連に離党届を提出した。同氏は民主党入りし、大分3区から出馬する意向。社民党は「痛手は大きい」(中堅)と総選挙に与える影響を懸念しており、退潮傾向に一層拍車がかかる可能性がある。
離党理由について横光氏は「社民党で衆院選を戦うのは厳しいと判断した」と周辺に語っている。同氏は俳優出身で知名度が高いうえ、国対委員長として存在感を示してきた。平成15年の衆院選惨敗で土井たか子氏が党首を引責辞任した際、「ポスト土井」の有力候補にも挙げられた。
【2005/08/10 東京朝刊から】
http://www.sankei.co.jp/news/050810/sei033.htmふう。
・・・
なんだかなあ、格好よろしくないですよねえ。沈みかけた船から乗客を避難させる前に自分だけ脱出してしまう船員のような、なんとも後味の悪い「鞍替え」ですわな。
だって社民党の衆議院議員はたった6人しかいないのですよ。一人抜けただけで17%ダウンなわけで、250人余りの中から反対した37人の自民党反対派より、社民党の受けるダメージはとっても大きいのですよ。(怒)
・・・
福島社民党党首の心境たるや察して余りあり本当お気の毒ですねえ。(涙
いろいろご事情もあられるのでしょうが、横光克彦さん、格好悪いですよ!
・・・
まあ、最終的には有権者が判断すればいいわけですが・・・
(後略)
■[政治][与太話]「やたらに退路を断つ人達」と「無節操に活路を求める人」 より抜粋
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050811
なんだかなあ、自称プチリベラルで靖国凍結派の私ですが、どうしてもこの横光克彦氏という人物の生き様が好きになれないのです。
自分勝手に落ち目の社民党を副党首でありながら選挙直前に見限っていて、「私はただの平議員」もクソ(←失礼)もないでしょう(怒
当時も書きましたが「沈みかけた船から乗客を避難させる前に自分だけ脱出してしまう船員のような、なんとも後味の悪い「鞍替え」」でしたよね。
・・・
●一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた細野正文氏のあっぱれな生き様
沈みかけた船からの脱出劇と言えば有名なのがタイタニック号でありますが、ウィキペディアで調べてみると興味深いエピソードが載っています。
唯一の日本人乗客
タイタニック号には唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文氏が乗船していた。鉄道院副参事とは、おおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野氏は音楽家細野晴臣の祖父にあたる。有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられた。このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にも取り上げられたが、細野氏は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。死後の1941年になって、細野氏が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には氏とその白人乗客が別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、氏の名誉は回復されることになった(しかし先の事件が長く喧伝されたのに対して、名誉回復が行われてから日が浅いため、いまだにこの件を持ち出して日本人男性を非紳士的と主張する日本の女性や外国の人間も少なくない)。細野氏がこの様な不当な批判を受けることになった理由として上述のように日本人に対する偏見もあるが、氏が事件後直ぐ帰国して批判に対する反証の機会を得られなかったこと、そして氏が弁明や言訳をすることを恥とする武士道的な倫理を持っていたからと考えられる。しかしこのような、沈黙を美とする考えは欧米人には全く通用しなかったと考えられる。なお細野氏が救助直後に残した事故の手記は、タイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして、第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、氏の遺族は譲渡の申し入れを丁重に断っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8F%B7
「有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられた」細野正文氏なのですが「このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にも取り上げられたが、細野氏は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた」そうであります。
この汚名が雪がれるのに85年も掛かるのですが、御立派なのは「一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた」細野正文氏の「武士」らしい生き様なのです。
後年見直された氏の手記でありますが、こちらのサイトで原文を見ることができます。
Sound and vision of Hide
タイタニック号・細野正文さんの遭難手記@横浜マリタイムミュージアム
http://hide3190ym.exblog.jp/879562
またこちらのサイトでは現代語訳が掲載されています。
タイタニック号に思う 私が通信士になった動機
http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/titanic.htm
失礼して部分抜粋。
(前略)
前に多数の男女群集す。是を見しときは、大事件の発生せること疑いなきを知り、生命を本日にて終ることと覚悟し、別にあわてず、日本人の恥になるまじきと心がけ。この間、船上よりは危急信号の花火を、絶えず上げつつあり。
その色青く、その声凄し・・・・。ボートには、婦人たちを最先きに乗す。その数多きゆえ、右舷のボート4隻は、婦人だけにて満員の形。その間、男子も乗らんとあせるもの多数なりしも、船員これを拒み、短銃を擬す。この時、船は45度に傾きつつあり。
ボートが順次に下りて、最後のボートも乗せ終り、すでに下りること数尺、時に指揮員、人数を数え、”ツー・モア”とさけぶ。その声と共に1男子飛び込む。余はもはや、船と運命をともにする外はなく、最愛の妻子を見ることも出来ざるかと覚悟しつつ、凄愴の思いにふけりしに、いま、1人の飛ぶを見て、せめてこの機にてもと、短銃に打たるる覚悟にて、数尺の下なる、ボートに飛び込む。
幸いなる哉、指揮者、他のことに取りまぎれ、深く注意を払わず、且つ深き故、男女の様子も分らざりしならんか。飛び込むと共に、ボートは、スルスルと下がりて海に浮かぶ・・・・。
船はと見れば、上甲板が水面に表れるのみ。1時近きころと思う時分、すさまじき爆発起ること3〜4回。思う間もなく、大船は音をなして、全く姿を没し、いま、目前にありと見しも影もなし・・・・。(後略)
この臨場感溢れる手記を読めば、氏が「人を押しのけて救助ボートに乗った」どころか「日本人の恥になるまじきと心がけ」婦女子を優先させた後「余はもはや、船と運命をともにする外はなく、最愛の妻子を見ることも出来ざるかと覚悟しつつ、凄愴の思いにふけり」ながら、最後の最後に幸運にも救命ボートに乗れたわけです。
この細野氏に濡れ衣を着せ「有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客」とは、英国人教師ローレンス・ビーズリーであります。
その後の調査でローレンス・ビーズリーの手記は全くの誤報であり、ローレンス・ビーズリーの乗った右舷13番救命ボートと細野正文氏が乗った左舷10番救命ボートはまったく別であったことも証明されています。
昨日(29日)発売の週刊新潮の高山正之帝京大教授のコラムにたまたまですが、ことの詳細が述べられています。
(前略)
様々に語られるエピソードの中に思わぬ形で日本人も登場した。
救命ボートで脱出した英国人教師ローレンス・ビーズリーが「無理やりボートに乗ってきた嫌な日本人がいた」と語ったのだ。
この船にはたった一人の日本人乗客がいた。鉄道院官吏の細野正文氏で、鉄道事情を視察し米国経由で帰国する途次、たまたまこの船に乗り合わせていた。
日本の新聞がビーズリー証言を掲載すると、生還した細野氏のもとに「日本人の恥」と非難する手紙が全国から殺到し、彼は職も失った。しかし氏は一言の弁解もしないまま1939年に他界する。
その後、遺品の中から沈没騒ぎのさなかに氏がその仔細を書き留めた記録が見つかる。それはタイタニックのレターヘッドつき便箋に書かれていた。そこには「日本人の恥になるまじきと心がけ」る細野氏の心情と行動が綴られ、彼が脱出したのも「もう二人乗れる」という乗員の声に従って左舷ボートに乗ったとあった。
記録はつい十年前に、タイタニック号の研究グループの目に留まり、細野氏は左舷「10番ボート」に乗ったことが確認された。
ビーズリーは右舷「13番ボート」に乗っていた。彼が見た「嫌な日本人」は実は出稼ぎの中国人だったことも突き止められた。
この話は97年に「タイム紙」が報じ、85年ぶりに氏の汚名が雪(そそ)がれた。
ちなみに同氏の孫がYMOの細野晴臣氏になる。(後略)
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いやしかし、事実でないまったくの言いがかりのせいで、「日本の新聞がビーズリー証言を掲載すると、生還した細野氏のもとに「日本人の恥」と非難する手紙が全国から殺到し、彼は職も失った」細野正文氏ですが、「しかし氏は一言の弁解もしないまま1939年に他界する」とは、なんという生き様なのでしょう。
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●「タイタニック」から生還した人と「社民党」を見限った人の似て非なる生き様
かたや昨年の選挙直前に自分から「社民党副党首」という要職を無責任にも放り出し、「社民党で衆院選を戦うのは厳しいと判断した」という身勝手な離党理由で恥も外聞もなく民主党に転がり込んでおいて、国会答弁で安倍官房長官に、「安倍さんは生まれたときから総理大臣のお孫さんということ、私は貧しい農家の出ということ」などとわけのわからん因縁を付け揚げ句の果てには「私はただの平議員」と言い放つ横光克彦民主党議員。
かたや日本人唯一のタイタニック号の生還者でありながら、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられて、「日本人の恥」と非難する手紙が全国から殺到し、職も失いながらも、生前は一言の弁解もしないままその不当な非難に生涯耐え、死して85年ののちようやく汚名が雪(そそ)がれた細野正文氏。
沈みゆく船からの脱出者であるこの二人の似て非なる生き様はどうでしょう。
・・・
え?
社民党はまだ沈んでいないって?
・・・(汗
どうしても国会議員であり続けたい横光克彦民主党議員にとっては「社民党」は「タイタニック」と同様に沈みゆく船に見えたのでしょう(苦笑)
どちらの生き様が「日本人の恥」なのか、よおく考えてみたいのです。
(木走まさみず)