木走日記

場末の時事評論

謙虚と感謝の気持ちが大事なのだと思う〜子供の日に思う


●謙虚と感謝〜葬儀の「しきたり」について少し考える

 私事で恐縮ですが、実は連休に入る直前に妻の祖母が亡くなりました。

 長期にわたり入院をしていたことや、それなりに天寿を全うした年齢だったこともあり、御通夜、告別式と参列しましたが、故人の生前の温厚な人柄そのもののような、終始穏やかな優しい時がそれぞれの儀式の間中、ゆったりと流れているように私には感じられました。

 ゆったりとと形容はしましたが儀式の最中に私は確かにそう感じていましたが、なにせ3人の子供、十数人の孫とその伴侶、数十人のひ孫(私は数えるのを途中で断念しました(苦笑))が参加した葬儀でしたので、お清めの食事のときとか、休憩のときとかそれはそれはにぎやかで、喪主(長男)いわく「楽しいにぎやかなことの大好きだった故人には何よりの葬儀になった」とのこと。

 荼毘(だび)にふした後、骨上げのとき、火葬場の方の指示に従い、2人一組になって箸を使って遺骨を拾いました。

 あらためて考えてみるとこの葬儀という儀式は、厳粛の中にも、古来よりの「しきたり」を守る数少ない場面なわけで、大半の幼いひ孫達にとり、故人には申し訳ない言い方ですが、今回のひいおばあちゃんの葬儀は格好の「しきたり」の勉強の場となったようです。

 親に手を引かれ親の見よう見まねで焼香をし、式の間(一時間ほど)は私語をつつしみおとなしくすることを学び、そして大人にまざって骨上げをし、つたない箸使いながらひいおばあちゃんの遺骨を拾い納骨し、最後の別れの儀式として幼い手を合わせる・・・

 幼い子供達がひとつひとつの儀式の意味をどこまで理解しているのか、各自の年齢にもよるのでしょうが、興味深いことは幼子ながら一人前に参加しようとみなそれなりに真剣に「しきたり」を学ぼうとしていたことです。

 そこにはもちろんいかなる強制的な「義務」も存在はせず、しいていえば「しきたり」を守ることを通じて、お世話になった故人に対する謙虚な「感謝」の気持ちが支配していたわけですが、子供達にはすばらしい経験となったことでしょう。

 このような葬儀の「しきたり」は、もちろん宗教により、また地域や宗派によっても、若干習慣にも差異があるのでしょうが、私はそのような習慣やしきたりをとても好意を持って受け入れる人間のようです。

 その深い意味や由来する歴史などの知識が持ち合わせて無くても真摯な想いで古来からの「しきたり」を守ろうと努めている人々の中に自分の身をゆだねることに、心の安らぎを見出すことが多いのです。

 なんというか、理屈でひとつひとつ考えることはここではあまり意味がなく、全体の調和を乱すことなく儀式を滞りなくつつがなくこなし、「しきたり」を守ることでその場の参加者全員がその空間と一体となる、そのような人々の振る舞いの中に自分もゆだねることが好きなのです。

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 実は矛盾するようですが、「しきたり」を厳密に守ること自体が重要なことであるとは私は考えてはいません。

 おそらく「しきたり」自体も時間とともに変異してきたわけでしょうし、これからも絶え間なく変化していくことでしょう。

 守るべき「しきたり」自体に意味をその行為自体の合理性や論理性を求めても意味は無いことです。

 しかし、その儀式に参加している瞬間にみなが守ろうとしているそのときの「しきたり」に自身を従わせること、その気持ちがより重要なのでしょう。

 お世話になった故人に対する謙虚な「感謝」の気持ちが、そのような行為を通じて明示的にも暗示的にも示されるのだと考えます。

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●謙虚と感謝〜職人達の素材に対する「姿勢」について少し考える

 葬儀を終えて自宅に戻り、「しきたり」についてあれやこれや考えつつくつろいでいました。

 そのときなにげなくTVの料理番組をみていたのですが、あるフランス料理人の言葉が興味深かったです。

 「使用する食材にはすべていつも謙虚に感謝の気持ちを持つように努めている。料理人は食材そのものに対する感謝の念と関わる人々の努力にたいする謙虚な感謝の気持ちを忘れてはならない」

 正確ではないですがこのような発言でした。

 使用する魚介類にはそれを漁してくれる人々の努力があり、野菜にはそれを栽培してくれる人々の努力があり、肉にはそれを飼育してくれる人々の努力がある。

 一皿の料理を調理するにあたり、それぞれの食材がそこに給されるまでに多くの人々の努力があるからこそ、食材に謙虚になり関わる人々に感謝を忘れない・・・

 よく聞く言葉のような気もしますし、葬儀の後だからかもしれませんが、「しきたり」や故人に対する「謙虚」と「感謝」を考えていただけに、印象深くこの言葉が私の心に残ったのでした。

 その番組ではある地方の養蜂家の話が出てくるのですが、そこで瓶詰めされるハチミツがまた素晴らしい品質なのだそうです。

 さきほどの料理人がそのハチミツを味見して「天然でこんな濃縮な味が出せるとはすばらしい」と感嘆するのですが、その養蜂家の話がまた謙虚でいいのです。

 「たえず蜂の立場になって作業をすることが一番大切です。私達は蜜を作ることはできない。蜜を作ることができるのは蜂だけであり、私達は彼らの収穫物をもらっているにすぎません」

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 この養蜂家といい料理人といい、これら素晴らしい仕事をする職人達の素材に対する「姿勢」に、「謙虚」さと「感謝」の気持ちを見出すことができたので、私はなにやら嬉しくなったのでした。 

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●こどもの日 孤は徳ならず道しるべに〜産経社説

 昨日(5日)の産経社説から・・・

■【主張】こどもの日 孤は徳ならず道しるべに

 きょう五日は「こどもの日」、昔風にいえば「端午の節句」である。子供たちの健やかな成長を国民がこぞって祝い、子供たちの幸福を願い、併せて母に感謝する日だ。この「母に感謝する」という文言が国民の祝日法に定められた「こどもの日」の趣旨に盛られてあることを改めて考えてみたい。

 というのは最近、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという暗いニュースが後を絶たないからだ。少し前の日本社会は漫画のサザエさんの家族のようにちょっと厳しいが曲がったことを嫌う善良な父親と、無限の優しさで励ましかばってくれる母親と、阿吽(あうん)の呼吸で互いに補完し合って子育てをしてきた家庭というものの仕組みがきちんと機能していた。

 それが急速に壊れだし、家というものが形ばかりの住みかに過ぎず、実質は同居生活に成り下がってしまったという家庭が増えているように見て取れる。新聞ダネになるような破綻(はたん)の場面はなくとも、親と子が互いに無関心で、共に食卓を囲む光景も失われつつある傾向さえ顕在化しつつある。

 戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない。その結果、自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまったことは、率直にいって反省されていい。

 今の子供たちは他とのコミュニケーションが圧倒的に下手だという。友達とメールをしても、互いが自分の言いたいことを言っているだけで、実質的な対話が成り立っていない場合が多いそうだ。個人主義が実は「孤人主義」を生んでしまったのである。

 人間は一人では生きられない。この当たり前のことをもう一度確認して、児童の権利に関する条約にうたうように「家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員特に児童の成長及び福祉のための自然な環境」であることを思い返してみたい。家庭を大事にする社会が望ましい。

 「徳は孤ならず、必ず隣あり」と論語にいう。逆もまた真だ。「孤は徳ならず」。こどもの日を機に、それを社会共有の道しるべとしたい。

平成18(2006)年5月5日[金] 産経新聞 社説
http://www.sankei.co.jp/news/editoria.htm

 「「母に感謝する」という文言が国民の祝日法に定められた「こどもの日」の趣旨に盛られてあること」はこの社説を読むまで不勉強でしたが、なるほど「子は親の鏡」と申しますが、その意味では産経社説の指摘のとおり「子は社会の鏡」であるのかもしれません。

 いつのまにか子供達にとって、親は謙虚に「感謝」の対象としてよりも、疎ましいうるさい「軽蔑」や「憎悪」の対象になってきてしまった気がします。

 戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない。その結果、自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまったことは、率直にいって反省されていい。

 産経社説の悪い癖(苦笑)で、何事も「戦後の価値観」の完全否定に強引に結びつけるのはどうかと思ってしまいますが、「漫画のサザエさんの家族のようにちょっと厳しいが曲がったことを嫌う善良な父親と、無限の優しさで励ましかばってくれる母親と、阿吽(あうん)の呼吸で互いに補完し合って子育てをしてきた家庭」というのは確かに現在の日本ではまず見られないでしょう。

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 余談になりますが、社説の結語。

「徳は孤ならず、必ず隣あり」と論語にいう。逆もまた真だ。「孤は徳ならず」。こどもの日を機に、それを社会共有の道しるべとしたい。

 「徳は孤ならず、必ず隣あり」ならば、中国韓国外交で強硬意見の多い産経には逆に問いたいところです。

 国際社会においてもこの言葉は成り立つのではないのか、と(ま、余談ですが)
 
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●こどもの日 もっとほめてみませんか〜毎日社説

 昨日(5日)の毎日社説から・・・

社説:こどもの日 もっとほめてみませんか

 「グッド・ジョブ!」(よくできたね)。英国人青年の大きな声が教室内に響く。ほめられた児童はうれしくなって、もっと答えようとする。

 東京都文京区立礫川(れきせん)小学校3年1組の「総合的な学習の時間」。外国語指導助手(ALT)のスティーブ・ホワイトマンさん(26)による英語活動の授業は活気にあふれる。「ワンダフル!」「ウエルダン!」。片言の英語で質問に答えた児童に向けて、ほめ言葉がぽんぽん飛び出す。答えが違った児童にも「ファンタスティック!」と声をかける。

 児童を繰り返しほめるのは、日本人の教師にはなかなか見られない光景だ。「一生懸命やったのに、ほめられなかったらがっかりするでしょう。子供たちに自信を持たせてあげたい」とホワイトマンさんは言う。

 NPO法人・JAMネットワーク代表の高取しづかさんは米国で暮らした際、米国人の母親が自身の息子の前で「この子はアルバイトでがんばって、偉かった」と話しかけてきたことに驚いた経験がある。「米国人が子供をほめて励ますのは、自分らしく生きていく力をつけさせたいという思いがあるから」と高取さん。著書「わかっちゃいるけどほめられない!」で、日本人も子供をたくさんほめることを提唱する。

 日本の子供たちは「意欲」が足りないといわれる。財団法人・日本青少年研究所などが昨年、日本、米国、中国、韓国の高校生を対象に実施したアンケートでもその傾向が表れた。「現在の希望」に丸をつけてもらう設問で▽「希望の大学に入学する」は日本の29%に対し、他の3国が54〜78%▽「成績がよくなる」は日本33%、3国74〜76%▽「親に自分のことをわかってもらう」は日本8%、3国26〜38%▽「先生に理解される」は日本6%、3国10〜27%−−と日本の生徒は軒並み低かった。

 一方、子供たちが犯罪被害に遭うケースは相変わらず後を絶たない。警察庁によると、児童虐待の被害者は03年の166人から04年に239人と急増し、05年も229人と多い。子供たちにとって、夢も希望も少なく、生きにくい日本社会の姿が浮かんでくる。

 お父さん、お母さん、子供たちをもっとほめてみませんか。その言葉は子供に自信を与え、気持ちを前向きにさせます。善しあしの判断力も身に着き、自立心を養うことにもつながるはずです。

 親は子供が幼いころにはちょっとしたことでもほめるのに、中学、高校と大きくなるにつれ、ほめ言葉をかけにくくなる。照れもあるが、期待が大きくなる分、子供に満足できなくなる面もある。そんな時は「要求水準を下げよう」と高取さんは勧める。レベルを下げれば、ほめる内容は増えてくる。

 時にはしかることももちろん大切だ。ただ、学校でもしかられ、家でもしかられるだけでは、子供は居場所をなくしてしまう。

 子供をほめること。それは大人が子供をじっくり見つめ、語りかけることから始まる。

毎日新聞 2006年5月5日 0時18分
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060505k0000m070118000c.html

「グッド・ジョブ!」「ワンダフル!」「ウエルダン!」「ファンタスティック!」と英国人青年のほめ殺し(苦笑)授業を紹介していますが、「一生懸命やったのに、ほめられなかったらがっかりするでしょう。子供たちに自信を持たせてあげたい」とのホワイトマンさんの言葉はそれはそれで一面の真実なのでしょう。
 
 社説の結語。

 時にはしかることももちろん大切だ。ただ、学校でもしかられ、家でもしかられるだけでは、子供は居場所をなくしてしまう。

 子供をほめること。それは大人が子供をじっくり見つめ、語りかけることから始まる。

 「学校でもしかられ、家でもしかられるだけでは、子供は居場所をなくしてしまう」のはそうでしょうが、どうなんでしょう、実際は学校でも家でもしかられる機会は減ってきているのではないのでしょうか、もちろん、児童にたいする凶悪な犯罪は後を絶たないしいじめや登校拒否のような問題も起こっているわけですが・・・

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●謙虚と感謝の気持ちが大事なのだと思う

 産経社説のいう「孤は徳ならず道しるべに」も、毎日社説が主張する「子供たちをもっとほめてみませんか」もそれなりに同意できるのですが、何か物足りなく感じてしまいます。

 産経社説は、

 人間は一人では生きられない。この当たり前のことをもう一度確認して、児童の権利に関する条約にうたうように「家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員特に児童の成長及び福祉のための自然な環境」であることを思い返してみたい。

 と、児童の権利に関する条約まで持ち出していますが、ではどのように家庭を大事にする社会を実現すべきなのかが具体的に触れられていません。

 「戦後の価値観」を否定するだけでは何も問題は解決しないでしょう。

 一方、毎日社説は、

 お父さん、お母さん、子供たちをもっとほめてみませんか。その言葉は子供に自信を与え、気持ちを前向きにさせます。善しあしの判断力も身に着き、自立心を養うことにもつながるはずです。

 と呼びかけています。

 確かに誉めることにより「子供に自信を与え、気持ちを前向きにさせます。善しあしの判断力も身に着き、自立心を養うことにもつながるはず」なのかも知れません。

 しかし、「善しあしの判断力も身に着き、自立心を養うこと」もたしかに大切なことでしょうが、社会の一員としての素養としては自己にたいする肯定評価だけでは何かが足りないと思ってしまいます。

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 謙虚と感謝の気持ち。

 私には今の子供達に不足しているのは、社会に関わる人々や自然に対する謙虚な感謝の気持ちなのではないのかと思えてなりません。

 それは何も難しいことではなく、与えたれた食事に対して、それを作ってくれたお母さんや給食のおばさんに対する感謝の気持ち、素材となっている作物を作ってくれた人たちに対する感謝の気持ち、何気ない毎日の日常の中で簡単に学ばせることができる「謙虚さ」なのだと思います。

 「ありがとう」「いただきます」、何気ない挨拶や習慣の中にこそ、大切な情操を培うモノが含まれているのではないか、そう思えてなりません。

 みなさまはどうお考えでしょうか。



(木走まさみず)