木走日記

場末の時事評論

英タイムスが報じたカミカゼパイロット美談

kibashiri2005-06-07


 最近石原都知事が吠えまくった英国タイムスでありますが、

●英タイムスで吠えまくった石原都知事の発言内容を検証する
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050602/1117696850

 この記事を書いた東京特派員のリチャード・ロイド・パリイ記者はなかなかの日本通のようですね。
 石原インタビュー記事を書いた三日後の6月4日に、またもや興味深い日本の記事を書いております。
 これが神風特攻隊の生き残りの方のお話なんで、ビックリしました。
 読んでいてなんとも美しい話でもあり、またこのような特攻隊の話を英国メディアが偏見もなく大きなスペースをさいて報道していることも、いろいろと考えさせられました。
 これは是非読者のみなさまにご紹介しようと思いたち、またつたなくも邦訳してみましたが、これが記事が長くて時間が掛かってしまいました。(汗

 というわけで、今日は雑談であります。ひとつ主義主張抜きでお読みいただければと願っています。



●帝国の前で命を選択した神風のパイロット

http://www.timesonline.co.uk/
(画像もタイムス記事から)

The kamikaze pilot who chose life before empire
By Richard Lloyd Parry
An oil leak and a kind commander saved a young recruit

帝国の前で命を選択した神風のパイロット
リチャード・ロイド・パリイ
オイル漏れと親切な指揮官が若い新兵を救った

IN ALL ways but one, Shigeyoshi Hamazono is the kind of elderly ex-military man whom you might meet anywhere.

 ひとつの点を除けばあらゆる面でシゲヨシ ハマゾノはどこにでもいるような年配の退役軍人の一人である。

His back is ram-rod straight and his black shoes and grey suit are as polished and crisp as a uniform. His skin is tanned by the southern Japanese sun, and he looks closer to 70 than to his 81 years.

 彼の背筋はまっすぐピンとしており、彼の黒い靴はよくつやが出ていてグレイのスーツはバリッとしている。彼の皮膚は南日本の太陽によって日焼けしていて、そして、彼は81才よりも70才近くに見える。

Even if you spotted the singeing that still affects his eyebrows, and the shrapnel fragments in his arm, you would never guess Mr Hamazono’s extraordinary story. For he was a kamikaze pilot, destined to die at 21.

 あなたがいまだ彼のまゆに痕跡を残している火傷の痕、および彼の腕の中にある弾の断片を見つけたとしても、ハマゾノ氏の経験した並はずれた物語は決して推測できないであろう。 彼は神風のパイロットであったので21歳のときに死ぬように運命づけられていたのである。

Mr Hamazono resolved to die — gladly, as a sacrifice on behalf of his mother country — and flew to the boundary between life and death. Staring across it, to his own great surprise, he chose life.

 ハマゾノ氏は、彼の母国のための犠牲者として喜んで死ぬことを覚悟した、そして生と死の狭間を彷徨った。 その先に見たものは、彼自身も驚異のことなのだが、彼は生を選択したのだ。

He tells a story of young men like him, sucked into volunteering for a war they could not see beyond, who were nonetheless deeply ambivalent about the sacrifice of themselves and their comrades, and took great risks to save one another from death.

 彼は、先のわからない戦争のために志願してだまされた、彼ら自身と彼らの仲間の犠牲に対してそれでもなお深く愛憎を持った、そして、死からお互いを救うために大きな危険を冒した、彼のような青年達の話をする。

“I saw so many of these new young pilots, fresh out of training, arriving at the airbase in their fresh uniforms — the next day, they were gone,” he says.

 「私は、訓練を終え真新しい制服で空軍基地に到着した若いパイロットをとてもたくさん見ました」; 「翌日、彼らはいないのでした。」と、彼は語る。

“On the surface, they thought they had no choice but to be kamikaze pilots. But deep in their hearts, it wasn’t what they wanted.”

 「表向きは、自分たちが神風のパイロットであることはやむを得ないことであると考えていました。」 「しかし心で奥底では、彼らが望んでいたことではなかったのでした。」

Mr Hamazono was born into a fishing family in southern Japan. After the bombing of Pearl Harbor in December 1941, he volunteered as soon as he could. He said: “My mother could hardly read but she wrote me a letter with the only words she could manage: ‘Don’t be defeated’ and ‘Don’t die’.”

 ハマゾノ氏は南日本の漁師の家に生まれた。 1941年12月の真珠湾攻撃の後、彼は可能な限り急ぎ志願した。 彼は言った: 「私の母はほとんど読むことができませんでしたが、彼女が書けるわずかな単語で私に手紙を書きました」 「‘負けないでください'と‘死なないでください'。」

It was the young Mr Hamazono’s bad luck to be fighting for commanders for whom these two priorities were mutually exclusive.

 この2つの要求は互いに相反するのでこの指揮官(母親)を守るために戦争をするのは、若いハマゾノ氏の不運であった。

As Japan’s early success turned to a slow, grinding reverse, he had many narrow escapes as a naval fighter pilot. Then, in October 1944, he found himself in the Philippines, where the first Divine Wind Special Attack Squadrons were organised.

 日本の初期の勝利がゆっくりと過酷に反転していく中で、彼は海軍の戦闘機乗りとして数多くの命拾いをしたきた。 そうして、気付くと、1944年10月に、彼はフィリピンにいた。そこでは、最初の神風特別攻撃飛行隊が編成されていた。

Service in the Special Attack Squadrons was to be entirely voluntary, and so a hundred pilots in Mr Hamazono’s group were handed a piece of paper, and invited to mark it with a circle, indicating that they volunteered, or a cross if they declined.

 特別攻撃飛行隊への参加は完全に自発的であった、そこでハマゾノ氏のグループ100人のパイロットに1枚の紙が渡され、志願したことを示す丸をマークするか、または辞退するならバツをマークするように指示された。

“Three men marked the cross,” he says. “And they were forced to go anyway. Some of them came back saying they couldn’t find the enemy, or that their fuel was running out. They were sent out again. I feel hatred towards those officers who made them go like that.

 「3人がバツをマークしました。」と、彼は語る。 「そして、彼らはやむを得ずとにかく飛び立ちました。 敵を見つけることができなかった、または燃料がなくなっていたと言いながら、彼らのうちの何人かは戻ってきました。 再び彼らは出撃させられました。 私は彼らをそのように続かせた上官に対して憎しみを感じます。」

“One day, I was called in by the commander, and he said, ‘I’m sorry, but will you go tomorrow?’ I knew immediately what it meant.

 「ある日私は指揮官によって呼びつけられました、そして、彼は、‘すまんが、明日、行ってくれるか?'と言いました。すぐに、それが何を意味するのかを悟りました。」

“As a military pilot, there was no way to say no. I was grateful for my training, and the responsibility given to me, and my Zero fighter. This was my duty. That night all I thought about was my mission.”

 「軍のパイロットとして、いいえを言うすべは全くありませんでした。 私は私の訓練、私に与えられた責任、および私のゼロ戦に感謝していました。 これは私の義務でした。 その夜、私が考えたことは、すべて私の任務のことだけでした。」

With two other pilots, Mr Hamazono took off the next morning, bound for their target, a British cruiser. In two years of flying a Zero fighter, he had never had a technical problem — but now, suddenly, oil began to leak from his propeller and sprayed across his cockpit window, obscuring his vision. He radioed to his commander in the aircraft in front and was ordered to return to base. Then another order: to go not to Manila, from where he had flown, but to Taiwan.

 他の2人のパイロットと共に、翌朝ハマゾノ氏は離陸し、彼らの目標である英国艦に向かった。 ゼロ戦を飛ばした2年間で、彼には技術的問題は一度も起こらなかったのに、しかし、今回は、燃料が、突然、プロペラから漏れ始めて、彼のコックピットの窓の向こう側に噴射され、彼の視界をさえぎったのだ。 前方の航空機のいる彼の指揮官へ無線連絡したところ、彼は基地に帰還するように命令された。 次に、別の指令が飛んだ、彼が飛び立ったマニラではなく、台湾に帰還せよと。

“I had never cried before — that was the first time,” Mr Hamazono said. “He knew that if I landed at Manila I’d be sent out again the next day. I could have disobeyed his order, but the commander recognised that I had not decided whether to live or die. He recognised my feeling, and he saved my life.”

「私はそれまで決して泣いたりしたことはありませんでしたが、その時が初めてのことでした。」と、ハマゾノ氏は語った。 「彼は、私がマニラに帰還すれば翌日再び出撃されるのを知っていました。 私は彼の命令に背くことはできました、しかし、指揮官は、私が生きるか死ぬかを決めかねていると認識していました。彼は私の感情を認識していました、そして、私の命を救ったのです。」

Mr Hamazono never recovered the will to die. He stayed in Taiwan, where the engineers obligingly lingered over the repairs to his aircraft. With an increasing shortage of airworthy planes, he was sent back to Japan.

ハマゾノ氏は二度と死ぬ意志を持たなかった。 彼は台湾に留まった。そこでは、技術者が親切にも彼の航空機の修理に手間どったのだ。 使用可能な航空機の不足の深刻化もあって、彼は日本に送り返された。

By this time, in any case, the chances of the heavily laden, rickety aircraft penetrating the American air defences to get close to a ship, were almost nil. Two thousand kamikaze aircraft set out during the war, but between them they sank only 34 ships.

 これまでいかなる場合であれ、重たくてのろまで脆弱な飛行機がアメリカの対空砲火をかいくぐり、敵艦に近づくチャンスはほとんど無かった。 2,000機の神風航空機が戦争の間出撃したが、ただ34隻の船を沈めたのみであった。

Suicide aircraft were supposed to fly with enough fuel for only a one-way trip; on his second mission, Mr Hamazono’s engineer made a point of giving him a full tank. But long before they reached their target, he and his comrades were cut to pieces by US Grumman fighters, and he alone limped home to live out the few remaining weeks of the war, training the new and younger pilots who were being hastily sent to their deaths.

 特攻機は片道飛行分の燃料のみでもって飛ぶのを想定されていた; 彼の2回目の任務では、ハマゾノ氏の技術者は、満タンの燃料を彼に与えると主張した。 しかし、攻撃目標に達するずっと前に、彼と彼の仲間は米国グラマン戦闘機に迎撃された、そして、彼だけが戦争が終わるまでの残りの数週間を全うするためにのろのろと戻ったのである、そして急いで死へと送られるべき新しいより若いパイロットたちを訓練していた。

He continued serving the Japanese defence forces until retirement.

 彼は、退役するまで日本の自衛隊で役立ち続けた。

“They used to tell us that the last words of the pilots were ‘Long Live the Emperor!’,” Mr Hamazono said. “But I am sure that was a lie. They cried out what I would have cried. They called for their mothers.”

 「以前はよくパイロットの最後の言葉は‘天皇陛下万歳!'であると聞かされていました。」と、ハマゾノ氏は言った。 「しかし、私はそれが嘘であったのを確信しています。 彼らは私が叫んだであろうことを叫んだに違いないのです。彼らはお母さんと叫んだのでした。」



(訳:木走まさみず)

 いかがでしたでしょうか?
 実話だけにじつに説得力のある記事であります。



●映画「ホタル」のモデルにもなった浜園重義氏

 ちなみに記事に登場しているシゲヨシ ハマゾノなる日本人でありますが、高倉健主演の映画「ホタル」のモデルにもなった浜園重義氏のことであります。

http://www4.synapse.ne.jp/seikeikyou/news/news2.html

著書:「水平線」
「水平線」(戦後に思うことより抜粋)

『私は海軍に3年間所属しました。短い期間だった。その3年間は1日も飛行機から離れることはなかった。1年3ヶ月は訓練生で肉体的・精神的に海軍で行われていた制裁の総ては受けたような気がする。それくらい飛行訓練生は、命がけの訓練と搭乗員気質の養成の場であった。そんな苦しさも夢と希望で打ち克って、同期生も人一倍の落伍者もなく頑張った。卒業すると一人前に取り扱って貰い、給与面でも恵まれて待遇は最高であったが、死闘は連日繰りひろげられており、生死はあざなえる縄のごとく、何時の死と対峙する日々であった。桜島に林扶美子の碑がある。

  「花の命は短くて 
   苦しいことのみ多かりき」

 同期生も85%が南海の空に散っていった。残りの15%の中、半分は何かの障害のある傷物である。私も12回棺桶に足を入れたが追い戻された。戦地の1年4ヶ月は毎日が全力投球、今日1日は安全という保証された日は1日も無かった。あと1時間後、30分後にはあの世という日ばかりであった。日本の数倍という物量には如何ともすることはできなかった。それをカバーするために搭乗員は、総員死をもって対処しなければならなかった。そして、最後は人間の極限、特攻隊なるものまで編成された。悲しいことである。どんな決死隊でも一握りの望みは残されていたが、特攻、それは零である。みんな良い男たちばかりであった。そして夢と希望を一杯持っていた。あの仲間は二度と帰らない。只、思いでだけが場所も時にも関係なく、私に面会に来てくれる。
 平和日本。衣、食、住、全てが満ち足りた祖国だが彼達は必勝を信じて特攻に散っていった。生きていればみんな孫がいてその孫を抱いて高い高いをしてやり人生で一番楽しい年齢である。私も体内に16発のグラマン機銃弾の破片が入っている。火傷もした。これは天と地が引っくり返るほど痛かった。耳の聞こえないことも4日間。目も10日間全く見えなかった。顔も、変形した。良いことは一つも無かった。ただことの善悪は別として、青春の情熱、命をかけて敵と戦ったことを今でも後悔していない。そして、生きていることだけで最高の幸福であり、特攻のことを思えばこの世にできないことは何一つ無いと思う。
 私は貴重な国の財産、零式艦上戦闘機3機と、艦上爆撃機2機を潰した。しかし、どの飛行機も自分の不注意怠慢は1機もない。その飛行機の持っている性能以上のことを私に与えてくれたので、敵機と対等の戦闘ができたと思う。特に知覧に不時着した艦爆は、78発機銃弾を受け、油系統を貫通されながら燃料の一適まで飛行してくれた。
 毎日、桜島開聞岳をみるにつけ、ソロモン海をはじめとして、トラック、台湾、比島そして、人間の極限の沖縄特攻を想うとき、戦友たちのあの顔この顔が次々と浮かんでくる。
 70歳になってから急に、いろいろの体の不調を覚え、膀胱結石、右耳の突発性難聴、そして昨年からは原因不明の手足のしびれ痛みである。9軒の有名な病院にも診察してもらったけれども、老人病と体内に今も残っている16発のグラマンの銃弾の破片のせいだろうとの話しである。
 あれからもう53年、100%死は免れない命である。いつ終わりがきても少しも惜しくないけれども1日でも長生きをしたいし、人間生きられれば生きているほど素晴らしいことはない。残り少ない人生をより有意義に生きたいし、ボケなければ、戦争の苦しさ、みじめさ、むなしさを次の世代の若人達に少しでも語り伝えてゆくことが出来たらと、思っている昨今である』

 うーん、この方のように壮絶な経験をされてこられた人物の眼には、昨今の靖国参拝問題はどう映るのか、気になるところであります。

人間生きられれば生きているほど素晴らしいことはない。残り少ない人生をより有意義に生きたいし、ボケなければ、戦争の苦しさ、みじめさ、むなしさを次の世代の若人達に少しでも語り伝えてゆくことが出来たらと、思っている昨今である

 重い言葉であります。



(木走まさみず)



<テキスト修正履歴>
2005.06.08 15:00 訳文を一箇所修正いたしました。
訂正前:彼らは私が泣かせたことを大声で叫びました。
訂正後:彼らは私が叫んだであろうことを叫んだに違いないのです。
2005.06.08 17:05 訳文を一箇所修正いたしました。
訂正前:天皇陛下のご長命を!
訂正後:天皇陛下万歳



<関連テキスト>
●「人間爆弾」桜花からの生還〜「出撃した日は、桜が満開でした」
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050610/1118395443