サムハラ〜哀しきお守り
読者のみなさんは「サムハラ」という言葉をご存じでしょうか?
ちなみに、サムハラはこんな漢字です。
http://park7.wakwak.com/~tensi/samuhara211.gif
愛知県で医師をされている大島信雄氏の手記から抜粋です。
少し長いですが、とても興味深いお話です。
(前略)
実は、亡父・大島辰次の遺品の手帳の中で、この文字を見た記憶があるのです。この文字のお陰であったかどうかは分かりませんが、一夜にして十万人余が焼け死んだあの東京大空襲(昭和二十年三月十日)の最中、当時在京の家族五人のうちただ一人、父親だけが九死に一生を得て、生き残ったのです。本所・深川一帯は一面焼け野原になりましたので、この手帳が焼け残ったということは、父親が空襲下も身につけていたに違いありません。
当時、深川区立八名川国民学校の初等科三年生だったわたくしは、学童集団疎開で、新潟県北蒲原郡築地村(現、中条町)のお寺にいて、空襲でのことは後で知らされました。兄(六年生)も一緒に疎開していたのですが、ちょうど卒業、進学の時期で、その直前に帰京していましたので、死者の数に加わってしまいました。
父親の遺したその手帳は、年記と称して、身辺の出来事を毎年一ページずつを使って書き続けたもので、今で言うなら自分史メモでしょうか。
その巻頭近くの空いたページの中央に、「*さむはら*」と大書され、「弾丸よけの/文字/芳雄斈校から写して/来る。/昭和二十年三月七日」との説明が付けてあります。
空襲が三月九日深夜から翌十日の未明にかけてのことですから、三月七日といえば、その直前です。兄芳雄は、卒業式の打合せか何かで登校し、友だちの誰かからこの文字を写させてもらったのでしょう。子供心にも大空襲必至との予感があったのか、あるいは冗談半分でこんなことが学童の間で流行っていたのかも知れません。
多分兄の筆跡であろう拙い鉛筆書きの紙片も、一緒に遺っていたはずだと遺品の中を探してみましたが、今のところ行方不明です。
余談になりますが、世間は狭いもので、原田チイ子先生(南設楽郡鳳来町海老、静厳堂医院、帝国女子医専卒、旧姓八幡)は、戦時中に新潟県北蒲原郡中条町の、父親の開設する八幡医院に耳鼻科医として勤務しており、八名川国民学校の疎開学童との接触もあったやに聞いております。
空襲に遭いたくない、空襲があっても死にたくないという気持ちは、大人も子どもも同じで、当時、空襲避けのおまじないがいろいろとあったようです・・・
(後略)
(「豊川医報」通巻第93号、p5-10、1997年6月)より部分引用
戦争を体験していない私が、「サムハラ」という言葉を知ったのはやはり今は他界している親族からで、その親族は海軍士官として太平洋戦争を経験したのですが、海軍の兵隊さんも少なからず砲弾除けのお札として持っていたそうです。
上の大島氏の手記を読んでも感じるのは、当時の庶民の「おまじない」とかにすがりながらも、日増しに悪化する空襲や艦砲射撃の中でどうにか生きていこうとする「けなげなすがた」であります。
私には、一部リベラル評論家の述べる軍国主義絶対悪論にも、あるいは一部保守派が主張する旧日本擁護論にも、評論するつもりはありません。
しかし、このようななにげない手記を拝読すると、戦火をにげまどった人々がいまの私達と何もかわらない普通の人々であったことがよく理解できます。
60年前日本各地の空襲で生命を落とされた人たちは、一説には50万人とも言われているそうですが、「サムハラ」この哀しきお守りは、どこまで庶民を守れたのでしょう・・・・
戦時中のおまじないに関して、作家の高見順が日記の中に書き残しています。
最近の話題から。
○爆弾除けとして、東京ではらっきょうが流行っている。朝、らっきょうだけで(他のものを食ってはいけない。)飯を食うと、爆弾が当らない。さらに、それを実行したら、知り合いにまた教えてやらないとききめがない。いつか流行った「幸運の手紙」に似た迷信だ。
またこんなのも流行っているとか。金魚を拝むといいというのだ。どこかの夫婦が至近弾を食って奇蹟的に助かった。その人たちのいた所に金魚が二匹死んでいた。そこで、金魚が身代りになったのだといって、夫婦は金魚を仏壇に入れて拝んだ。それがいつか伝わって、金魚が爆弾除けになる、金魚を拝むと爆弾が当らないという迷信が流布し、生きた金魚が入手困難のところから、瀬戸物の金魚まで製造され、高い値段で売られているとか。
「サムハラ」と瀬戸物の「金魚」。
読者のみなさんはどのような想いを抱かれたでしょうか?
(木走まさみず)
<関連テキスト>
●3月10日〜どんよりとした東京の空を見上げながら
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050310