木走日記

場末の時事評論

愛国心を法律で縛るのはエレガントじゃない

●「オヤジ臭い」は許せるが「臭いオヤジ」は許せないオヤジ木走(爆笑)

 日本語って微妙なところがありますよね。

 例えば「男臭い」は何やら野性的なヨイ響きもありますが、ひっくり返して「臭い男」じゃ、何日も風呂に入っていないような致命的な響きなのであります(苦笑

 ・・・

 阪神の金本選手はフアンから親しみを込めて「アニキ」と呼ばれているそうですが、不肖・木走の場合、社員から「ケイベツ」を込めて「オヤジ」と呼ばれているようです。

 なぜ「ケイベツ」を込めてと私が理解しているかと申しますと、私の前では「社長」という呼称なのですが、私のいない場所で社員同士で陰口をたたくときに「オヤジ」と暗号化した呼称で呼ばれているからです。(←フフフ、社員諸君、私はなんでも知っているのだよ、気をつけたまえよ。

 本人の前でも堂々と呼ぶことができるかどうか、金本選手の「アニキ」と不肖・木走の「オヤジ」には、月とスッポンの差があるのでございます(苦笑
(↑当たり前だろが(苦笑))

 ・・・(汗

 まあ単に「オヤジ」ならば少しは親しみも込められているようですが、「オヤジくさい」と「くさい」が付くとちょっとまた微妙にイヤな感じなんですよね。

 私の場合、たしかにもう2児の「オヤジ」だし、腹も出てきたし風体もりっぱな「オヤジ」なので、十分に「オヤジくさい」ことは自覚してますのでこの表現自体には拒否感はありませんが、これもひっくり返して「くさいオヤジ」って言われるとすると、これは許せないですね、ジョウダンジャネーゾって感じですか(爆

 ・・・

 国を愛する心、「愛国心」ですが、コイツの扱いも実に微妙な感じなんですよね。

 XX(チョメチョメって読んで下さいな(爆))を愛する心を愛XX心と書くとしましょう。

 例えば会社を愛する心なら愛社心、学校を愛する心なら愛校心てな感じで少しいろいろ自分の愛XX心をチェックしてみるのもおもしろいかもですよね。

 愛娘心・・・これはもちろんありますねえ。

 愛妻心・・・当然です。「愛妻家」木走には愚問であります(大汗

 愛酒心・・・私の場合もう熱愛ですが(苦笑

 愛煙心・・・こいつは当ブログで議論あったばかりですが取りあえず(汗

 愛怪獣心・・・このあたりからいろいろな意味で対象がオカシクなってきております(爆

 愛メディア心・・・もはや日本語になっていませんですが気にしないでいきましょう(苦笑

 愛朝日新聞心・・・こいつは微妙だなあ、愛産経新聞心も微妙だけど(汗。

 あーあ、朝日新聞を出したところでなんか白けちゃったなあ(苦笑

 ・・・

 なんか、この言葉遊びあまりおもしろくなかったですかね?(爆

 ふう。

 なんか少し脱線しちゃいましたが、日本語の微妙な話に戻りますと、「愛国」でありますが、これも「国を愛する」ことと「愛する国」じゃ微妙にニュアンスが違うのでありますよね。

 「XXを愛する」行為と「愛するXX」状態はなんというか、使用前と使用後というか、XXを愛さなきゃって動機付けを含めてが「XXを愛する」行為なのであって、もう現在結果としてXXに首ったけなのが「愛するXX」状態なんですよね。

 ほんと微妙なニュアンスの違いなんですが・・・

 ・・・

 でもこの微妙なところが正に議論されているポイントのように、不肖・木走には思えるのであります。



●「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ってどうよ?

 13日の朝日新聞記事から・・・

愛国心」の表現で合意 教育基本法改正の与党検討会

 自民、公明両党の教育基本法改正に関する与党検討会は12日、最大のハードルとなっていた「愛国心」の表現について「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とすることで合意した。これを受け、政府・与党は今国会への提案に向けた調整を急ぐ。ただ、自民党内から異論が出る可能性もあるほか、国会の会期延長など政局判断もからむため、提出までは曲折がありそうだ。

 12日の検討会では、大島理森座長が愛国心の表現について提示した文案がそのまま了承された。

 基本法前文の「日本国憲法の精神に則(のっと)り」、教育行政の条項にある「(教育は)不当な支配に服することなく」との文言を残すなど、ほかの論点でも事実上合意した。

 13日に与党協議会が開かれ、検討会の合意を了承したうえで、小泉首相に報告する予定だ。

 与党協議会は03年5月に設置され、翌月にスタートした下部機関の検討会も、69回を数えた。

 自民党は結党時の「政綱」で「祖国愛を高揚する国民道義の確立」をうたう。昨年10月に決定した党新憲法草案の前文も「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を掲げる。

 安倍官房長官は今年2月、ライブドア堀江貴文前社長が逮捕されたことについて「やっぱり教育の結果だ」として、「教育基本法は改正しなければならない。『国を愛する心を涵養(かんよう)する教育』をしっかり書き込んでいきたい」と語った。

 一方、公明党は支持母体の創価学会牧口常三郎・初代会長、戸田城聖・2代会長らが政府から弾圧を受け、不敬罪治安維持法違反で逮捕され、牧口氏が獄死した過去がある。「愛国心」には強い拒否反応がある。

 自民党が大勝した昨年の総選挙を受け、なんとか独自色を失いたくないとの思いも根強い。

 自民党は「国を愛する心」との表現を求め、公明党は「国を大切にする心」を主張した。

 今回の合意は双方の立場を考慮した「寄せ木細工」のような内容だ。

 自民党の主張に従い「国」「愛する」との表現を盛り込んだ。

 一方、公明党に配慮して「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国」とすることで、「統治機構」の色を薄めた。大島座長は記者団に「『国』という概念に(政府などの)統治機構は含まないという共通理解がある」と説明した。さらに「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との文言も加えた。

 そして「愛」と「国」の文字を使ったが、「心」という文字はあえて入れなかったという。

 改正が実現すれば47年の施行以降初めてだが、ハードルは少なくない。

 11日の自民党の会議。

 公明党との「妥協」に「公明党は選挙で自民党を支援しているということで、我々の足元を見ているのではないか」との不満が出た。

 公明党は今秋に党首脳人事、来年に統一地方選参院選を控え、懸案は今年中に決着をつけたいという思惑が強い。同党執行部は党内のとりまとめに自信を見せる。

 しかし、支持母体の創価学会幹部は「言葉は独り歩きする。一部の人たちはどんどん解釈を曲げてきた歴史がある」。

 実際、99年に成立した国旗・国歌法をめぐって当時の小渕首相が「児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではない」と国会で答弁しながら、卒業式での国歌斉唱での起立が事実上強制される動きが出ている。教育基本法も改正されれば、「愛国心」教育が強制されるのではないか、という懸念は消えない。

 もう一つのハードルが、首相官邸の判断だ。

 与党は改正案の提出は、早くても5月の連休前後と見ている。今国会で成立させるには、6月18日までの会期の延長は不可欠との見方が強い。延長するかどうかは、9月の自民党総裁選に向けた政局判断もからむ。

 首相はこれまでも「(会期)延長は考えていません。国会が閉会したって首相の仕事は山積している」と語っている。実際、6月には訪米や「骨太の方針」とりまとめなどを控えている。

 首相は12日夜、記者団から、改正案提出の見通しを問われた。「国会の状況を見ながら、判断しなければならない」。あくまでも慎重だった。

2006年04月13日03時05分 朝日新聞
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200604120338.html

 ・・・

 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」

 うーん、私としては、基本的に自分の所属する国を愛することも、自分の郷土を愛することもまったく異存ないわけで、「さらに「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との文言も加えた」のもけっこうなことだと思います。

 思いますがしかし、なんだろうなあ、教育基本法という「法律」で「愛する」という極めて情緒性の高い感情を統制しようというところに、実にエレガンスさを感じられないのですよね。

 国や郷土を「愛する」ことを法律で定める行為ってどうなんでしょうか。

 法律が感情にまで踏み込むなんて、なんか野暮ったいよなあ・・・

 マクラ話の言葉遊びじゃないですが、「国を愛する」行為の強制と「愛する国」が存在する状態はなんというか、ぜんぜんニュアンスが違ってきてしまうわけですよね。

 愛国心てのは、結果としてみんながこの国を愛すれればけっこうなことなのであって、愛さなければいけない強制的なモノじゃないはずなんですよね。



●愛情とは他者から決めつけるものではなく、自然に生まれてくるもの

 あんとに庵さんもブログで「愛国心」を取り上げていますですね。

あんとに庵◆備忘録
■[社会・時事]愛国心
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20060418/1145334355

 失礼して少し抜粋。

(前略)

「法」で明解にすべきものは、「日本」という国家を担うモノが法が定める「国民」それぞれであること以上は踏み込めないだろう。日の丸君が代も法で定めることが出来るのはそれが国旗であり国歌である以上のことは踏み込めないだろう。

しかし、日本という国家への市民としての責務や、日の丸君が代に代表されるようなイデオロギー論争を見ていると伝統や慣習といったものへの否定的感情、肯定的感情がそれに絡んでややこしいことになっている。

伝統や慣習を懐かしみ大切にする精神性と、「法」は切り離さないとややこしいことになると思う。

そもそも「日本の伝統は〜〜」というものをいわゆる「日本」という国家と結びつくかというと、私の場合、個人的な内面を見つめれば一致しない。日本の伝統といわれるもののなかにキリスト教はないし、価値もずれがある。「日本の伝統的なもの」とされるものは私の中では「他者」的価値だったりするんだが、しかし「日本」という国の市民であることの自覚として、国旗や国歌には敬意を払うし、「憲法9条改正反対論は不安だ」などと判断するといった按配ではある。

右も左も法に精神性を持ち込み過ぎてるんじゃないのか?と思ったりする。

(後略)

 うん、キリスト者でもあるあんとに庵さんのこのエレガントな感覚、「法に精神性を持ち込み過ぎてるんじゃないのか?」は、不肖・木走も尊重したい感覚なのでありますね。

 あんとに庵さんのこのエントリーのコメント欄で印象的なコメントがされておりますね。

# 愛国者愛国心は上から決めつけるものではなく、自然に生まれてくるものではないでしょうか。為政者がなすべきことは、国民全員がこの日本を愛するようなすばらしい国を作り上げることだと、思うのですが。』

 御意。

 愛情とは他者から決めつけるものではなく、自然に生まれてくるものなのですよね。

 その対象が「人」であろうと「国」であろうと・・・

 法律で縛り付けるモノじゃないんじゃないかなあ。

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 読者のみなさまはこの「愛国心」問題、どういうご意見をお持ちでしょうか。



(木走まさみず)